第四〇話 聞いた話
「悪かったわね、こんな時間までお邪魔して。今度用がある時は事前に報告させてもらうわ」
「そうしてくれると助かる……ほんと、今日みたいな猪突猛進ぶりは勘弁だからな」
「わ、分かってるわよ! …私も、流石にあの時のことは反省してるもの」
「だったらいいんだが…」
あれから謎に盛り上がりを見せていた…見せていたように思える夕食を終えればいくら里紗でもこれ以上は居座るわけにもいかないと思ったのだろう。
少し休息を挟んでからは比較的すぐに帰ると自発的に言いだしたため、今はそのための見送りに悠斗は駆り出されている状態だ。
…なお、この場に咲の姿はない。
最初は彼女も誘いはしたのだが、何故か…彼女はというと夕食辺りから様子をおかしくしてしまったので断られてしまった。
別に体調不良というわけでもなさそうだったのでその辺りの心配はしていないが…ソファで体育座りをしながら『……何でもない』、とだけ伝えられてしまえば流石に気になる。
やたらと仏頂面になっていたのが印象的だったので、後々何か引っかかることでもあったのかと問いただしてみるとしよう。
(…ま、そこは追々だな。とりあえず今は目の前のことに集中、と)
しかしながら悠斗は一度そこで思考を打ち切り、一旦は目前のやるべきことを済ませてしまうためにも意識を切り替える。
まず彼のすべきことは里紗の見送り。既に辺りは暗くなり始めている時間でもあるので最初は明るい大通りまで送ろうかとも思ったが…彼女曰く家から迎えの車が来るらしい。
既にこのマンション近くまで来ていて待機しているとのことだったので、下手な気遣いは不要と暗に断られてしまった。
…失念しかけていたが、里紗の実家は確か相当に裕福とのことだった。
となれば悠斗も詳細こそ知らないものの、防犯面はそれなりに整えられた環境で育ってきたと考えても良いのだろう。
実際にここまで迎えの車が来ているわけだし、悠斗が過剰に心配するほど里紗は頼りない人物ではないのだから安心して送りだせばいいのだ。
「出来ることなら咲にも見送りしてほしかったけれど…それは望み過ぎね。…今のあの子に無理なんて言えないし、こっちの我儘で振り回すわけにもいかないわ」
「あぁ…急に動かなくなったからな。原因は分からないが…」
「……それは多分、というかほぼ確実に原因は…いえ、やっぱり何でもないわ」
「…何だよ、気になること言って」
「何でもないって言ってるでしょ。私が言う事でもないし…そうね。でも咲がいないならそれはそれで都合が良いこともあるわ」
「…うん?」
玄関先にて自身の靴を履き、忘れたものも無いはずの里紗はもう出ようと思えばすぐにこの場を後に出来る。
…ただ、最後の最後で咲と顔合わせが出来なかったことを悔いているのかその顔には隠し切れない無念さが漂っている状態だ。
もちろん彼女も今の咲を見れば強引に玄関まで引っ張り出してくるわけにはいかないと理解しているので無理やり誘うこともしなかったが、それでも残念なものは残念なのだろう。
本人の前では文句を言わず、ここで愚痴っているだけまだ里紗は分別がついている方だ。
が、しかし……その次に放たれた言葉には悠斗も少し首を傾げる。
「…先に言っておくけど、今から聞くことは咲に漏らしたりしないでちょうだいよ? 一応あの子のプライベートでもあるんだから」
「そりゃ言われれば触れ回ったりはしないけどさ…何を言うつもりだよ」
「………そうね」
やけに深刻そうな顔つきになりながら、秘密厳守だと念を押され続ければ否応にも悠斗はこれが重要な話なのだということを察する。
口調からして、咲に関連したことだというのは薄々分かるが…何を話すつもりなのだろう。
そう思いながら里紗の言葉を待っていれば……彼女がやや躊躇いがちになりながらも問うてくる。
…その質問は、悠斗をもってしても困惑させられるものだった。
「───悠斗あんた、咲が喋れなくなった理由については知ってる?」
「………え?」
──この時の心境を、悠斗はどんな言葉で表せばよいのかは分からなかった。
里紗から問われた咲が喋れなくなった要因について。今までは多少気にはなりつつも…触れるほどではないと考えてそのままにしておいた一件。
それがまさか、彼女の方から触れてくるなどと思ってもみなかったからだ。
「あぁ、勘違いはしてほしくないから言っておくと別に腹を探ろうってわけでもなくて純粋に気になったから聞いてるだけよ。で…どうなの?」
「…俺は、何も知らない。そもそも簡単に触れて良いものでもないと思ってたし…本羽にとってもデリケートな箇所だと思ってからな」
「……そっ。あわよくば悠斗なら知ってるんじゃないかと期待したんだけど…まぁ想定内でもあるから、そこまで残念でもないわ」
「…里紗、お前は知ってるのか? あいつが…無口になった理由を」
「………」
どうしてこのタイミングで里紗がそんなことを尋ねてきたのか、悠斗には分からない。
ただ彼が答えられることとして、悠斗は咲が背負う事情とやらになどまるで心当たりもないし小耳に挟んだ覚えすらない。
なので素直にそう返せば、里紗も多少残念そうにしつつも…肩をすくめて苦笑を浮かべていた。
……だが、向こうがそれで納得した様子でもこちらにとっては新たな疑問が湧き上がってきてしまう。
この場でさらりと口にしてきた内容からして、おそらくだが里紗は咲の過去を少なからず把握している。
曲がりなりにも親友として彼女の傍に誰よりも居続けてきた彼女なのだ。
その過程で何らかの話を耳にしていたとしても何らおかしくはない。
ゆえに、そう思ったからこそ投げ返した悠斗の問い。
その、答えは────。
「──えぇ、知ってるわ」
「…っ!?」
──肯定、である。
これ以上ないほどに明確な、誤魔化しようもない返答を前にさしもの悠斗も一瞬息を詰まらせてしまう。
…しかし悠斗はふと、かつて咲と初めて夕食を共にした夜の事を思い出していた。
あの時、咲は自分が喋ることが出来ないせいで周囲に迷惑を掛けてきたと口にしていた。
どこか悲痛で…けれど、変えることも出来ない自分を悔やむような表情で。
…あの瞬間は悠斗がそれをひっくるめた上で咲という少女は成り立っているのだと説いたから、丸く収められた。
そして彼も…深くは考えなかった。
だが今、そうやって目を逸らし続けてきた現実と少しずつ向き合わなければならない時がやってきているのかもしれない。
すなわち、咲が言葉を発せられないという在り方の…そうなってしまった要因を。
「…でも、私も全部を知っているわけじゃない。それどころか把握出来てるのはほんの一部だけね」
「……そう、なのか?」
ただ、困惑に頭を支配されている一方で里紗は吐息混じりに言葉を続ける。
…あの衝撃発言を聞いたがゆえに意外でもあったが、どうやら聞いた限りでは彼女も仔細の全てを把握しているというわけではないとのこと。
「そうよ。だから悠斗が何かを知ってたら教えてくれればと思って聞いたの。まぁ知らないならそれはそれで……」
「──里紗。その話、俺にも聞かせてくれないか?」
「…本気で言ってる?」
「あぁ、本気だ。冗談でこんなことは言わない」
無念と言ったばかりに告げられた里紗の一言。
彼女なりに咲の過去を知ろうとして奔走しているのだろう言葉を後に…悠斗が口にした発言は、里紗をもってしても驚かせるくらいに予想外だったようだ。
当然、聞きたいからと言って聞かせてくれるほど甘い相手ではないことも彼は理解している。
「…これを聞くっていうことは、あの子の事情に踏み込むということよ。それは場合によっては咲を傷つける結果になるかもしれない。…あんたに、あの子のためにそこまでする理由があるっていうの?」
「そう聞かれれば間違いなくないだろうな。何せ俺はお前と違って本羽の親友でも無ければ、特別親しい仲ってわけでもない。言ってしまえば単なる同居人だ」
「だったら………」
「でも…だからこそ、ここで聞いておかなくちゃいけないと思ったんだよ」
「…どういうこと?」
里紗は咲を溺愛しており、彼女が傷つくような可能性を容易に許容しない。
彼女がそれでも咲の無口であることに至った経緯を探ろうとしているのは、慎重に慎重を重ねていることとどうあっても咲を傷つけはしないという覚悟があってこそのことだ。
ゆえにこそ、悠斗がそちらの事情に踏み込もうとしたことを即答では認めなかった。
…だがしかし、彼もまた一度断られた程度で引き下がるほど半端な覚悟で尋ねたわけではない。
「俺とあいつはただの同居人でしかない。傍から見れば相当におかしな関係だろうさ。けど、そんな中でも…俺なりに、本羽は本音で話せる相手に思えてきてるんだ」
「…!」
「それに、あいつには礼だって山のようにある。そんな相手なら…何かするにしてもしないにしても、知れることは知っておきたい。当たり前だが、考え無しに突っ込むような真似はしない」
「……呆れるわね。思考が単純すぎじゃない?」
「うるせぇな…そう思ったんだから仕方ないだろ」
…そう、話してしまえば深い事情なんて無い。
ただ悠斗にとって、この二週間近くを過ごしてきて…いつの間にか咲は少しずつ、彼の心の内側に入り込んできていた。
悠斗自身すら気が付かぬ間に、咲という存在は彼の警戒心すらも溶かして自然に対話できる相手へと変貌していたのだ。
出会い方からして普通ではなく、関わり合った経緯は特殊であり、二人の日常の過ごし方さえも傍から見れば異端と呼ばれるのだろう。
…しかし、そうやって咲の表面的な要素ではなく…日々の暮らしによって垣間見える性格や素振りを見つめてきたからこそ、悠斗にとって咲は対等に接することが出来る少女に変わっていた。
他の誰でも良かったわけでは無い。他ならぬ咲だったからこそ、彼にとってここまで心を許せる関係は構築されていた。
だから今回の一件は、その心の折り合いに一区切りつけるという意味でもタイミングが良かった。
…これまでは興味もないと己に言い聞かせることで目を逸らしてきた、咲の過去。
そこに触れる機会が生まれたことで、こうして里紗を前にしても本音を言えるくらいに彼の心境は変化してきている。
そうして彼の言い分を聞いた里紗はというと…それまで強張らせていた態度などどこへやら。
彼の言い分があまりにも意表を突くものだったから気が抜けてしまったのか、深く溜め息をつきながらも…その顔は悪戯心すら宿したように思える。
「いいわ。私が知ってることは教えてあげる。…全く、咲もここまでしてくれる相手がたくさんいて幸せ者ね?」
「…揶揄うなら後にしてくれ。居心地悪いから」
「あら、ごめんなさい。…それで、私の知ってることだったわね」
若干にやついた笑みを浮かべながらそれまでの緊張感を弛緩させ、こちらの弱みを握ってやったと言わんばかりに言葉を向けてくる里紗の姿は…有り体に言ってしまえばウザめである。
…何だか彼女とも距離が縮まってから言動に変化が生まれたのは分かるのだが、この変化に関しては無くても良かったと思わず悠斗は考えてしまった。
「…まぁここまで言っておいて何だけど、私が持ってる話っていうのもさほど大したものでもないのよ。というのもこれは…咲のお母さんから聞いたことだから」
「……ふむ。その内容っていうのは?」
「…今までにも何回か咲のお家にはお邪魔させてもらったことがあって、その中で一回だけ聞いたことよ。そしたら…『咲が喋れなくなったのは、小学生の時に色々あったから』…っていうことだったわ」
「小学生、か……」
里紗が語ってくれた話の概要をまとめれば、咲が自ら声を発しなくなったのは小学生からとのこと。
流石の里紗もそれ以上は踏み込める内容ではないと悟ったようで無理強いせず、知れたのは咲の無口の原因がその過去にあるという一点だけだ。
…だがしかし、悠斗はそれだけのことでも正直驚いていた。
内心そうではないかと疑ってはいたものの、咲の無口は生まれつきのものではなく…後天的なものだったというのだからそれも当然だ。
…要するに、彼女が今の状態になるまでの何かがその当時に起こってしまったということなのだろう。
里紗が今求めているのはまさにそちらの詳細。
他人の過去を勝手に掘り返していることは申し訳なくも思えるが、それを上回る心配の度合いが彼女を突き動かしているとも言える。
「今私が知ってるのはこれだけ。…期待外れだったかしら?」
「まさか。それだけでも教えてくれたのは感謝してるし、知ってるのと知らないのでは話も全く変わってくるからな」
「なら良いわ。じゃあ…これ以上ここにいる理由もないし、そろそろ帰らせてもらうけど。…これだけは最後に言っておくわよ」
「…?」
望外の方向から得られた咲にまつわる話だったが、今日はこれを聞けただけでも十分すぎる収穫だったと断言できる。
そこに加えて里紗という知人までも獲得し、悠斗のこれまでの生活を振り返れば激動の一日だったと表現しても何らおかしくはない時間だった。
そして、彼女の方もこれ以降は長居する必要もないと思ったようでいよいよ本格的に帰るとのこと。
…だが、そうするよりも前に里紗から一言を挟まれる。
「これを知ってあんたが何をするかなんて知らないし、それを止めるつもりも私にはない。でもね…咲を傷つけたり、泣かせるような真似をしたら本気で許さない。…それだけは覚えておきなさい」
「……心に留めておくよ」
「そうしてちょうだい。…じゃ、今度こそお暇させてもらうわね」
「あぁ、気を付けて帰れよ」
それはある種、彼女からの宣言。
今の話を聞いて悠斗がどのような行動を取ろうとも構わないが、それを実行した上で咲のことを悲しませるようなことになれば容赦はしないということだ。
無論、悠斗もそれは理解している。
この話を知った自分がこの先どうするかなんてまだビジョンも見えていないが、少なからず咲を見る目が変わるのは間違いない。
だから己がどうするのかは…一度冷静に考えてみてから結論を出そうと思う。
良くも悪くも、今は多くの情報が溢れ出しておりまともな判断が出来るとは考えにくい。
思考をクールダウンさせるには相応に時間が必要なため、それも兼ねてこれからのことはゆっくり考えていけば良いだろう。
そう判断しながら、悠斗は別れの挨拶と共に玄関のドアを潜っていく里紗の姿を最後まで見送っていた。
…偶然とはいえ知れた咲の過去。その一端。
どのような形であれ、両者の心境にも変化をもたらすだろうこの機を迎えた彼らがどのような動きに移るのかは、まだ誰にも分からない。
ただ…一つだけ。
どんなことになろうとも、自分はしっかりと彼女の中身を見つめようと心の片隅で誓いながら悠斗は部屋へと戻って行くのだった。
 




