第三九話 縮んだ敵視
──悠斗がキッチンを離れ、彼一人の時間を満喫していた間。
特に意識していなかったので流し聞きしてしまっていたが、どことなくキッチンの方が調理の最中にやたらと盛り上がっていたように思えた。
まぁそういうことだってあるだろう。
いつもなら咲一人で立っているキッチンに今回に限っては一人増え、彼女の親友だと言う里紗までもがやってきているのだから盛り上がるのは当然のこと。
…しかし悠斗も申し出された時には特に考えてもいなかったが、冷静に振り返るとこの状況はクラスメイトの女子が──それも二人揃って抜きんでた魅力を持つ美少女が手料理を作ってくれているというシチュエーションだ。
里紗の放つインパクトと圧力ゆえに忘れかけていたものの、他の生徒に知られれば垂涎物なことは確実だ。
ただ…悠斗自身、特別慌てたり挙動不審になったりすることはない。
そもそも普段の生活からして最近は咲が自分の食事を作ってくれているのだから、この環境に慣れてきたというのもある。
確かに里紗が加わったことで多少新鮮な空気はあるがそれも戸惑わずに対処できる範疇であり、過剰に反応するほどではない。
…我ながら以前とは佇まいが変わってしまったものだとも思うが、こればかりは不可抗力の慣れとも思う。
話を戻そう。
そうしたあれこれもあってしばらくは一人ソファにて待機していた悠斗。
だがそれも時間が経てば中断されるもので、料理が完成したという報告を聞けば待ちに待った夕食へと移行していくのは必然の流れである。
よって、今は長く思えた放課後を経て三人での夕食となったわけだが………。
『…悠斗、今日のご飯はどう?』
「あぁ、相変わらず美味いよ。…でもこれ、何となく味付けがいつもと違うか?」
『そっちは里紗が作った方。私が作ったのは卵焼きと肉じゃが』
「なるほどな。…確かに、こっちの肉じゃがの方がホッとする感じの味付けだ」
『……そう言ってくれるなら嬉しい』
「………あの、私がいること忘れないでくれる? この空気感に一人で放り出されるのはかなり堪えるんだけど?」
悠斗がぽつりとこぼした感想に咲が嬉しそうに返事を返し、そのつもりは無かったのだが…ついいつもの癖で二人だけの空気を作り上げてしまう。
そうするとここにいるもう一人の人物…里紗は置いてけぼりにされたことを不満気にしながら訴えていた。
「あ……い、いや。高西の料理も美味いと思うぞ? うん」
「…変に気なんて遣わなくてもいいわよ。別に私の腕は人並みだし、こうやって食べてれば咲の料理の方が美味しいっていうのはちゃんと分かってるから」
「そ、そうか…」
無意識だったとはいえ、せっかく来客という形で訪れていた里紗を除け者にしてしまうのはマズかった。
悠斗もその事実に思い至り…とっさに彼女の料理も美味だと感想を述べたが、時すでに遅し。
…しかしながら、里紗の顔には言葉とは裏腹にそこまで不満気な色は見られない。
どうやら彼女自身、咲の手料理と比較して己の作った料理が一歩劣っているというのは自覚しているらしい。
それは単なる思い込みでもなければネガティブな意識でもない。
客観的な視点に基づいた事実でしかないため、特に落ち込むような素振りも見られない。
…むしろ、咲の手料理を食べる機会に恵まれて喜んでいるくらいかもしれない。
流石に親友といえども友人の手料理を口にするチャンスなどそうそうあるわけもないため、心なしか彼女のテンションもわずかに上機嫌なように思える。
それと…これは悠斗の気のせいに過ぎないかもしれないが、どこか───。
(…なんか、高西の反応が前よりも柔らかくなったのは気のせい…でもなさそうだな)
──つい先ほどと比較しても、悠斗に対する里紗のリアクションが落ち着いたものへと変化していた。
少し前は一言交わすだけでもその言葉には大なり小なり警戒心やら敵視といったキツイものが混ざっていたというのに、今はそれがほとんど感じられない。
警戒心もなくはないのだが、それよりも比重で言えば咲とのやり取りを見て呆れているといった方が割合としては大きいように感じられる。
…この短い時間の中で、何か心境に変化でもあったのだろうか?
悠斗には心当たりなど微塵もないのでその変化には困惑させられたが、まぁいちいち警戒されるよりは今の彼女の方が断然話しやすい。
どこか憑き物が落ちたようにも思える里紗の態度は、発言こそ少し強めだが放たれる雰囲気は柔らかなものへと変わっているのだから。
「あ、そういえば高西って───」
「……それ、気になるわね」
「ん…? 気になるって…何かあったか?」
原因は分からずとも、向けられる態度に変化があったというのならこちらも合わせるだけだ。
多少なりとも対応が改善されたのであればこれ以上諍いを生む理由もないため、悠斗も自然とリアクションは打ち解けたものとなる。
完全に心を許した間柄と言うには程遠いだろうが、あれだけの敵対心があった状態からここまで持ってこれたと考えれば成果としては十分すぎるくらいだろう。
なので悠斗も、その事実を実感しつつもさりげなく他愛もない話題を振ろうとして…何故か言葉を遮ってきた里紗の反応に疑問の声色を出すこととなった。
何気なく発した悠斗の言葉。
言った側としては特におかしなことを口にした自覚も無いのだが…どこかに気にかかるところでもあったというのだろうか。
そんなことを考えつつ彼も顔に疑問符を浮かべていれば、その謎の答えは里紗本人から明かされた。
「いえ、さほど大したことでもないけれどね。ただ私って…周りから名字で呼ばれるのってあまり好きじゃないのよ。赤の他人ならともかく、ある意味水上もライバルみたいなものだし名前で呼んでくれていいわ」
「………!?」
「……マジで言ってる?」
「何でそんな驚くのよ…こっちが許してるんだからいいのよ。あ、せっかくだしこっちも名前で呼ばせてもらうわ」
「…それは良いけどさ、何というか…女子を名前で呼ぶことに慣れてないから緊張するというか」
…何と、里紗が考えていたのは互いを今までのように名字で呼ぶのではなく名前で呼び合おうというものだった。
さて、一体どうしたものだろうか。
この提案自体は何もおかしいものではない。むしろこうして里紗と悠斗もそれなりに話し合えるようになった以上は流れとして極々自然なものだ。
だが、向こうにとってはそれが当たり前でもこちらにとっては一大事である。
そもそも悠斗は平時からして女子との関わりなどゼロに等しく、学校生活でも当然だが下の名前で呼んでいる異性のクラスメイトなどいない。
男子ならばいないことも無いのだが、それらを加味してしまうとこの提案は彼にとって中々に高いハードルになってしまうのだ。
何せ相手はクラスどころか学年全体を通して見ても美少女として数えられる里紗だ。
正直言って、ほぼ初となる名前呼びの相手としてはレベルが上級も良いところである。
……あと、さりげなく宣言されていたので聞き流しそうになったが悠斗は一体いつから彼女の好敵手に認定されていたのだろう。
そこらを含めて謎の多い発言と言える。
「情けないわね…こういうのは勢いなんだから、そんなのを気にしてたら負けよ。ほら…悠斗。ね? 言うのなんて簡単じゃない」
「うーむ……まぁ、俺の心持ち次第だからそう言われればそうなんだけどな。…でも、学校で名前呼びは勘弁してくれよ? いきなりそう呼ばれたら騒ぎになりそうだし」
「了解よ。…で、そっちはいつ呼ぶのよ?」
呼称の変化は人間関係の変化の常とはいえ、実際に目の当たりにすると否応にも緊張感が高まってきてしまう。
しかし、彼女の方は何ともあっさりとした様子で悠斗のことを名前で呼んできた。
…このテンションの差は、おそらく二人の経験値の差なのだろう。
言われるまでもなくさほど交友関係が広いわけでもない悠斗に対し、里紗は常日頃から多くの友人に囲まれて暮らしている。
咲と共にいるイメージが強いので忘れがちであるが、彼女は彼女で独自のコミュニティを形成しているのだからその中で異性を名前で呼ぶことも幾度となくあったということだろう。
そう考えれば慣れた様子なのも納得である。
……けれども、そろそろ迷う素振りを見せて時間を稼ぐのも限界といったところだ。
こうなっては仕方がない。
せっかく本人から直々に許可を貰えているのだし、捉えようによっては滅多にない機会でもあるため厚意に甘えておいて損もない。
「じゃあ…これからはそんな感じで頼む、里紗」
「ふっ……えぇ、こちらこそよろしくお願いするわ」
「…………っ!?」
少々内心の羞恥心が混ざってしまったからか、呼ぶ際に躊躇った空気が漏れ出してしまったが…そこは向こうからも特に指摘されることなく微笑みながら里紗は名前呼びを受け入れていた。
何となく、この呼び名の変化で彼女との関係性が一段階上に進んだのかもしれない、なんてことを思いながら……悠斗は多少のむず痒さを感じていた。
──そしてこれは全く関係ない話だが、二人が互いを名前で呼ぶようになった時に…悠斗の隣に腰掛けていた咲はどうしてか驚愕するような、あるいは…焦るような表情を浮かべていた。
その反応の裏で彼女が何を考えていたのかは…まだ分かるところではない。




