第三八話 独白
──辺りには小気味の良い音が響き渡り、心なしかふわっとした香りも漂ってくる。
そこはキッチン。どこの家庭でもあるありふれた場の中で彼女──高西里紗はかけがえのない親友である咲と共に夕食づくりを満喫していた。
まぁ場所が場所なので心の底から喜びづらいという事情あるがそれは些細なこと。
……と、簡単に言えれば良かったのだがやはりそれも難しいことに変わりはない。
(まさか男子の家に来るなんてね…まぁ咲のためならどこでも行くのが私だし、そう考えれば特におかしくも無いけど…それでも変な感じだわ)
そう思ってしまう理由はとても単純だ。
何せ、里紗がいるのは親友である咲の自宅でも無ければ慣れ親しんだ我が家でもない…今日初めて顔を合わせたばかりの男子、悠斗の自宅なのだから。
…素直に言ってしまえば、まだ里紗の中で彼の評価は定まり切っていない。
そもそも出会い方からして最悪だったのだからそれも無理はないのだが。
振り返れば今でも容易に思い起こすことが出来る。
まず、里紗にとって悠斗という少年の第一印象は……親友に近づく怪しい影。もといよからぬ目的で彼女に接触している最低な男子という認識だった。
…この辺りは今では反省している。
咲に叱られたからというのも大きいが、自分の勝手な判断で悠斗を一方的な悪だと決めつけてしまった。
実際に話してみればそんなことはなく、むしろ問いただせば問いただすほどに咲と真っすぐに向き合っている人物なのだと理解したので現在はそれほど警戒はしていない。
…咲との近すぎる距離感を見て腹が立つことはあるが、そこは一旦置いておく。
(でもやっぱり…ここに来られた一番の役得は間違いなくこれね。まさか、咲のエプロン姿が見られるなんて思ってなかったわ! …ちょっと可愛すぎるでしょ、これは!)
それに…現在の里紗の胸中はそこに集中していない。
何故ならば、彼女の眼前に立つ人物。踏み台に乗りながら調理を黙々とこなしていく親友の咲が…エプロンを身に纏っているという、愛らしさにも程がある恰好を見せているからだ。
里紗も表面上は慌てないようにと抑え込んでいるが、その実内心では彼女の家庭的な面すら思わせる様相を見られたことへの歓喜で溢れかえりそうだった。
決して表には出さない。出してしまえば、親友を愛でたくなる一身で暴走しかねないので全力で留めているのだ。
…前々から実感し続けていることでもあるが、やはり親友である里紗から見ても咲は別格なまでに可愛いと断言できる。
これでも里紗とて、自分の容姿が優れている方だというのは自覚している。
整った顔立ちに高校生にしてはかなり育っているスタイル。一般的に見れば十二分に彼女だって魅力的な女子高生だ。
それでも…咲を前にしてしまえばその事実すら霞んでしまう。そう直感させてくるほどに彼女の愛らしさは強烈なのだ。
「………?」
「え? あぁ、何でもないわよ? ただ咲は昔から可愛いままねって思ってただけだから」
『……遠回しに私が成長してないって言ってる?』
「そ、そんなことは無いわよ? むしろそういうところが咲らしくて良いと思ってるから!」
『…いつか、絶対に身長も伸ばしてみせる。小学生に見間違えられるのはもう嫌』
(……多分、これからも咲の身長が伸びることはないと思うけど…言うだけ野暮ね。それは)
するとそんなことを考えつつ彼女を見ていた視線を察知されたのか、目の前の調理に集中していた咲が疑問符を携えた目を向けてくる。
しかしここで適当なことを言う理由もないため、里紗は素直に自身が彼女の可愛さに目を引かれていたのだと伝えた。
本当にそれだけだったので、それ以上は何もないのだが……この一言がまずかったらしい。
どこかが彼女の琴線に触れてしまったのか、昔と変わらず可愛いという言葉は今の咲からすれば身長が低く子供のように見えるという意味で取られたようだ。
決してそういった意図で言ったわけではないが、向こうにしてみればそんなことは関係なし。
(…それに、こうやってムキになって拗ねちゃうところも咲は可愛いんだから! 昔からそこも変わらないのよねぇ…)
少し話は遡ることとなるが、二人の関係性は中学の頃が始まりとなっている。
まだ環境の変化に慣れ切ることが出来ず、誰もが新鮮な空気に戸惑う中。
里紗もそれは例外ではなく…というより、生来生まれ持った優れた容姿のせいで彼女は人並み以上に苦労してきたくらいだ。
それは中学に上がってからも変わることは無く、むしろ環境が劇的に変化したことで学年問わず男子から告白されたことなど数えきれないくらいにあった。
最初はまだいい。どのような形であれ自分のことを好意的に思ってくれているのは嬉しいし、肯定的な答えを出すことこそ出来なかったが返事もなるべく丁寧に返していた。
……だが、それだって終わりが見えないほどに続けば必然的に嫌になるというもの。
始めは真摯に告白をしてきた男子達も、次第に思春期特有の女子に対する意識変化によってその年代にしては異様なまでに身体も発達していた里紗へといやらしい目を向けるようになる。
果てには告白の最中であっても身体をジロジロと見られることすらあったため、彼女も少しずつ異性に辟易とするようになってきた。
──そんな時に、里紗は彼女と出会ったのだ。
初めてその姿を目にした時、里紗は心底真面目に天使でもいるのかと思ってしまった。
中学生にしても一際目立ってしまうほどの小さな身長。しかし、それを加味しても尚引き立てられた保護欲を掻き立てる容姿。
何より、彼女自身の纏う人の緊張感を解してくるオーラが…咲の人柄が、里紗にとってはこれ以上ないほどに魅力的に思えた。
ある意味、一目惚れとも言えるかもしれない。
たった一度目にしただけで咲の魅力に取りつかれてしまった里紗は、その日から彼女と距離を縮めようと努力を重ねた。
幸いにも咲はそんな彼女を拒絶することも無く受け入れてくれたため、今日まで仲の良い親友という地位をキープしてこれたのだ。
……そう、今日までは、だ。
(……駄目ね。こんなこと考えたって意味なんかないのに…頭から離れてくれない)
表面上は普段通りの態度を保ちながらも、里紗の内心は平静とは程遠い困惑で溢れかえっている。
その理由は……今日、この場で見てしまった光景が大きく関係していた。
今日の放課後、里紗は悠斗のことをよからぬことを企む卑怯者と思って詰め寄った。その誤解は解けたが、まだ納得しきれない部分も残っていたためことと咲が入り浸っているという家が気になったためそこを訪れた。
そうしてそこで───悠斗と非常に仲睦まじく、強く信頼を寄せるように過ごす咲の姿を目にしてしまった。
…ハッキリ言ってしまおう。
あの二人で過ごす場面を目前にして、里紗は表情にこそ出さなかったが強く動揺させられた。
今まで、中学から高校に上がるまで咲の隣にいたのは自分だったというのに…まるでそのポジションを奪われてしまった、なんてことまで考えてしまうほどに。
分かっている。これが単なる嫉妬でしかないことは。
自身の知らないところで親友が知らない男子と距離を近づけていたことに、彼女自身が身勝手な感情を膨らませてしまっているだけなのだと…理解はしているのだ。
けれど、それで納得ができるかどうかは…また別なのだ。
『……里紗、どうかした? さっきから下向いてる』
「…っ、い、いや。何でもないわ。気にしないで」
「………」
らしくもないことを考えていたからか、調理を進めていた咲に指摘されて気が付いたが里紗はいつの間にか俯いていたらしい。
…このままでは駄目だ。彼女の前で暗い顔をするわけにはいかない。
ただでさえ咲は周囲の目を引き付けてしまうのだから、そんな連中から彼女を守り抜くためにも…里紗は毅然とした態度を貫かなければならない。
初めて声を掛けたあの日。親友となったあの日から誓った志は曲げてはいけないのだから。
そうしていつものように、パッと微笑みを浮かべて咲を安心させようとして───。
『…やっぱり里紗、何か不安そう。気になることがあるなら言って欲しい』
「えっ……だ、大丈夫よ! 心配なんてしなくても私はいつも通りだから──」
『違う。…上手く言えないけど、いつもの里紗はもっと楽しそう。でも今は、落ち込んでる感じ。困ってることがあるなら…相談して?』
「……そう、ね」
──言葉など交わさずとも、里紗の内心程度は咲とてお見通しだった。
とっさの判断で誤魔化そうとしてみたが、それは意味のない抵抗に等しい。
里紗が咲の態度を少し見ただけで彼女の動向を何となく察することが出来るように…同じだけの年月を重ねてきた咲もまた、里紗の異変には気が付けるのだ。
…そこまで悟られてしまったのなら隠していても無意味だろう。
表立って言いたいことでないことは変わらないが、ここで黙っていたところでいずれはバレる内容でしかないのだ。
だったら今ここで一通り話しておいて、内心に区切りをつけてしまった方が賢いかもしれない。
「…情けないことよ。ただ…水上と咲、二人って随分仲が良さそうじゃない?」
『……悠斗は、優しい。だから近くにいると落ち着く』
「…そう。だからこそ…かしらね」
「………?」
一度口に出してしまえば、もうせき止めることは出来やしない。
それまでは蓋をしていたはずの感情が流れ出してしまえば、止めるのは容易ではないのだから。
「本当、私が勝手に思ってるだけのことよ? …でも、ちょっと複雑なのよ。今まで咲と一緒にいたのは私の方なのに…その場所をあっさり水上に取られちゃった、ってね」
「………!」
「あぁ、咲が悪いとかそういう話じゃないから誤解はしなくて良いわ。…本当に、私の勝手な我儘みたいなものだから」
あふれ出した思いは、紛れもない今の彼女の本音。
数年の付き合いにもなる親友を、張本人たちにその気がなくとも形として奪われたようなことになって…どうしても納得しきれない部分が里紗にはあった。
だからこそ…隣にいる愛らしき少女のことを思う彼女は、ここが引き際なのだろうかとも思ってしまう。
「もちろん咲の交友関係全部に口を出すつもりは無いし、二人のやり取りを見てれば水上が悪いやつじゃないってことは分かってる。…だから、もう咲に私は必要ないじゃないかって………うん?」
「…………」
吐露された思いは、図らずもここに至るまでに蓄積されてきた里紗の不安。
これまで自分が収まっていた位置に悠斗が立っているように思え、あまつさえそんな彼のことを咲が強く信頼していると、彼女のことを誰よりも見てきた里紗だからこそ理解出来てしまう。
ならばここは…彼女の幸せを思うのなら、自分は身を引いた方が良いのではないか。
半ば無意識にそんなことを呟きそうになって…ふと里紗は自分の服の袖をクイクイと引っ張るような感触を覚えて目を向ける。
するとそこには、普段のようなぼんやりとして瞳とは違う、真剣な眼差しを向けてくる親友の姿があった。
『…そんなこと、ない。確かに悠斗は大切な友達。そこは間違いじゃない』
「…っ。…そうでしょう? ならやっぱり……」
『でも……親友は、里紗しかいない』
「………え?」
──それはまさしく、青天の霹靂。
予想だにしていなかった言葉を向けられたことで一瞬彼女の思考は空白となってしまうが…それを立て直すよりも早く、咲は言葉を続ける。
『ずっと前から、里紗が話しかけてくれた時から……それにこれからも。色んな人達と関わることになっても、私にとって一番仲が良い親友は里紗だけ。それは絶対に変わらない。…だから、離れるなんて言わないで欲しい』
「……っ! …いいの? 自分で言うのも何だけど、私がいたら咲を可愛がり続けるわよ?」
『それでこそ里紗。…でも、お家に行った時のあれはちょっとやめてほしい』
「……ふ、ふふふっ。あっはは! …そうね、悩んでた私が馬鹿みたいだったわ」
里紗が嘘偽りない本音を口にして…そして、今咲が述べたことも間違いなく本音だった。
今までも、これから先も多くの人と関わることがあっても親友は彼女しかいないと言う咲の言葉は…何よりも深く里紗の心に刺さってきた。
あぁ、自分はまだ彼女の近くにいて良いんだと…そう思えた。
立ち直ってみれば自然と湧き上がってくる笑みに、彼女自身すらもおかしく思えてきて口元が綻んでしまう。
…この先で、また悩むことはあるかもしれない。
それこそ今日のように、自分以外の誰かと咲が関わっているのを見て不安に思うことだってあるかもしれない。
だが、もうそんなのは関係ないのだ。
(…水上を認めてるみたいになるのは癪だけど、確かにあいつは咲と距離を縮めてた。どうやったのかは知らないけど…咲とも波長が合ったんでしょうね。でもそれなら、こっちだってそれ以上に咲と仲良くなるだけのことよ)
悠斗と咲の相性が良いことだって認める。彼もまた里紗と同じくらいに…いや、それ以上に彼女との波長は一致しているというのは見れば分かる。
しかしそれは、こちらが諦める理由になりはしない。
他の誰かが彼女と仲睦まじくしているのなら、自分はそれよりも更に咲との距離を縮めてみせよう。
実に単純な答えだ。自分たちはそれが出来るくらいに長い時間を過ごしてきたのだから、決して不可能でもない。
もう迷うことはない。やるべきこともやりたいことも定まった。
そう思えてしまえば…不思議と綻んできてしまう口元を自覚しつつ、咲もまたそんな彼女を見て安心したように笑みを浮かべていた。
──その後も楽しき調理の時間は続いていき、気が付いた時には夕食も完成していたのだった。




