第三六話 嬉しさの表し方
「まだ腹が痛む……高西、お前全力で殴って来ただろ」
「悪いのはそっちでしょうが。全く…むしろその程度で収めてあげたことを感謝してちょうだい」
「………」
予想外の場面を目撃されてしまったことで勃発した里紗の憤怒と打撃の応酬。
あれから何とか場を落ち着かせることには成功したものの…被害がゼロだったわけではない。
というのも、里紗による激しい殴打に打ちのめされそうになった時。
あのどす黒いオーラと激しい怒気を前にして気圧されたというのも影響しているのだろうが、一度だけ彼女のパンチを食らってしまったのだ。
…それも、あの細腕からは想像も出来ないほどの勢いで振るわれたせいか中々の威力が込められた一発だった。
やられた箇所が腹だったおかげで被害はそれほどでもなかったが、それでも女子のパンチと考えれば規格外もいいところである。
高ぶっていた感情ゆえに繰り出された一発だったのか…もしかすれば何か武道でもやっていたのかもしれない。
どちらにしても里紗の身体能力に驚かされる結果であるが、まぁ今はそこはいい。
兎にも角にも、激昂した様子だった里紗の件は咲のフォローもあって無事に解決したので話を次に進めておくべきだろう。
「…それで、話を進めるけれど……二人はいつもここで過ごしてるのよね?」
「あぁ、そうだな。どっちかが予定でも入れてたらその限りでもないが」
「なるほど…普段はどんな風に過ごしてるのかしら?」
「大体は勉強だな。日課で授業の復習とかしておかないと落ち着かないし、大抵はそんな感じだ」
「……えっ、それだけ?」
「そうだけど…何だよその顔」
一段落したこともあってようやく落ち着きを取り戻したリビング。
里紗もここまでくれば本題に入るのに問題もないと判断してくれたのか、ダイニングテーブルへと腰掛けた二人に対して質問を投げかけてきた。
そんな彼女の問いかけは…まぁ無難と言えば無難だろう。
大前提として里紗の目的は咲がこの家で時間を過ごす上での危険事項がないかどうかのチェックだったのだから、こういった問いを向けてくるのは必然でもある。
悠斗にしても、それくらいの内容だったら答えるのにも躊躇うことは無いため即答しておいた。
……したのだが、その言葉に対して里紗が返してくるのは何とも腑抜けた声色だ。
「いえ、何て言うか……一応確認しておきたいんだけど、あなた達って男女二人が同じ家で過ごしてるのよね?」
「本当に今更だな…その通りだよ。それがどうした」
「………?」
何故か突然困惑した様子を見せる里紗の動きには若干気を取られたが、尋ねられていることはきっちりと返事をしておく。
されど、そう答えても彼女の疑念は晴れ切らなかったのか…混乱が抜けきらない有様で言葉を続けられた。
「私がこんなこと言うのも何だけれど……その、普通クラスメイトの女子が同じ空間にいたら我慢できずに襲い掛かるものじゃないの?」
「…いや、するわけないだろそんなこと。人のことをどれだけ欲望任せに動くやつだと思ってるんだ」
「だって……一緒にいるのは咲なのよ!? クラスどころか校内でも人気トップクラスの女子! そんな相手が隣にいて何もしないとか…枯れてるとしか思えないわよ」
「おいこら! …流石にその発言は看過できないぞ」
…人が黙って聞いていれば、とんでもない疑惑をかけられていたものだ。
確かに…里紗の言う事も分からないではない。
事実、ここで悠斗と過ごしているのは咲という魅力溢れた美少女であり、彼女の近くにいれば邪な考えが浮かんでしまうというのも当然だ。
特に男子高校生という多感な時期の少年ともなればその傾向は顕著だろうし、決してやってはいけないことだが…場合によっては襲い掛かることとて無きにしも非ずだろう。
無論、この話は悠斗には適用されない。
幾度となく語ってきたことだが、そもそもの話からして彼は咲に向けて恋愛といった類の感情は向けていない。
…最近はふとした瞬間に見せてくる緩み切った笑みなんかに微笑ましい感情を覚えることこそあれど、色恋云々という域に至るほど恋慕は抱いていないからだ。
だからその本心を素直に伝えただけ、なのだが………。
…何故自分が枯れている、などという評価を受けなければならないのか。
真面目に悠斗は納得がいかなかった。
「じゃあ逆に聞くけど、こんなに可愛い女子と一緒に居て水上は何も感じないって言うの? 今の発言はそういう意味よね?」
「……別に、そうとは言ってない」
「あら、だったらあなたから見て咲はどういうイメージなのよ」
もはややり取りの方向性が誘導尋問である。
あちらにその気があるかどうかは別として、今この空気感は完全にそうとしか思えない。
……だが、そんな風に聞かれると弱くなってしまうのも事実だ。
もちろん、悠斗は今までもこれからも咲に妙な真似なんてするつもりは皆無だしそうしようという発想すら浮かび上がらない。
それは彼が生まれ持った性格ゆえというのもあるが、何よりもせっかく縁を得た友人相手にそのようなことはしたくないと強く思っているからこそ。
こう言ってしまうと後々に影響しそうなので、あまり口にしたくはないのだが…悠斗自身、咲のことは少しずつ気の置けない相手だと認識し始めているのだから。
ゆえに、彼女に抱く心象もまた少しずつ移り変わってきているのは否定できない。
「…まぁ、可愛いやつだとは思ってるよ。それは事実だしな。でも、だからと言って何かをしようなんてことは考えちゃいない。それは本羽の信頼を裏切ることだし、俺個人もそんなことはしたくはないんだ」
「………!」
「……ふーん」
…出会ったばかりの頃は、関わることすら憂鬱に思っていた咲との繋がり。
それも今となっては──悠斗にとっても落ち着いて時間を共有できる相手に変化してきている。
共に過ごしてきたことによる印象の変化。
それに月並みの言葉になってしまうが…悠斗の目から見ても非常に可愛らしい少女だ。
こればかりは無理に否定しようとしても意味がない。純然たる客観的事実でしかないのだから。
…当の本人がいる前で断言するのは流石に気恥ずかしいので、普段は決して口にしないが。
しかしそう正直に伝えただけの価値はあったのか、里紗も彼の言葉を聞き入りながら…多少は言う事を信じてくれたのか声を漏らして見つめてくる。
(これなら向こうも少しはこっちを信用してくれるだろ。言ったことも嘘ってわけじゃ無いし。…まぁ恥ずかしさもあるが、それも高西を説得できるなら安いもので………?)
疑念を持った相手を説得するなら何よりも重要になるのは嘘のない本心からの言葉。
悠斗はそう思っているからこそ、この場で里紗に対して下手な言い訳をせずにこちらの本音を伝えるべきだと考えていた。
そうすれば、少なからず効果はあったように思える。
まだ完全に疑惑が払拭できたわけではないだろうが、それでも今までのことを思えば大きな一歩で………そこまで考えた時。
不意に悠斗は、彼の横から何か叩かれるような感触を察知した。
…痛くはない。叩かれているとはいっても若干の振動を味わう程度のもので、力もそこまで込められてはおらず全くダメージはない。
だがそれはそれとしても、このタイミングで何故叩くような感触を感じるというのか。
その疑問を晴らすためにも、悠斗が半ば無意識に横を振り向いて……それを見た。
…そこにいたのは、先ほどまで静かに悠斗たちの会話を見守りながら場の流れを静観していた咲の姿。
悠斗の真横にある席にちょこんと座りながら黙々と過ごしていたはずの彼女が…今はどうしてか、瞳を細めて満面の笑みを浮かべながら、全力で嬉しそうなオーラを振りまいて彼のことをペシぺシと腕で叩いていた。
『…悠斗、私のこと可愛いって思ってた?』
「え? あ、あぁ…そうだよ。実際本羽の見た目が整ってるのは周知の事実だろ」
「………!」
「あの…叩く勢いを強めるのはやめてくれないか? なんかいたたまれないから…」
…どうやら、彼女がこんな奇行を始めたのは先ほどの悠斗が放った言葉にあるらしい。
文面から察したが、彼女は悠斗が会話の中でさりげなく発していた咲を可愛いと評する一言が相当に嬉しかったようだ。
それこそ…場の空気などお構いなしに、彼を叩いてしまうくらいには。
「……ねぇ、私の目の前でそんなことをし始めるとか挑発してるのかしら? やっぱりもう一回くらいパンチ浴びせても許されるわよね、これ?」
「…これ、俺が悪いのか?」
ただし、忘れてはいけないが今この場にいるのは咲と悠斗の二人だけではない。
偶然の来訪とはいえ、来客という立場である里紗の目前でそんなことをしていれば…どんなリアクションをされるかなど容易に想像が出来る。
やたらと物騒なことを言いだした彼女に対し、自分は無罪であると主張しながら悠斗は気まずくなった空気の中をどうしたものかと思考を回し始めるのであった。




