第二六話 秘密の意思疎通
(うー…む、分からないな。これは後で復習事項最優先にしておかないと駄目そうだ)
咲との共同生活が始まってからというもの毎日が怒涛の展開の連続で、慣れないことゆえに戸惑うことも必然的に増えたが…それとは打って変わって変わらないことももちろんある。
それは現在進行形で行われている学校の授業も含めてのものであり、今の悠斗は担当の教師に示された難解な問題を前に四苦八苦させられていた。
見れば周りのクラスメイトもこれには流石に苦戦しているのか、何とか答えを導けないかと思索を凝らすのが二割、ほとんど諦めながらも問題と向き合っているのが六割、そもそも解く気がない面々が一割と少しといった感じだ。
一応は悠斗も何とか最後まで解こうとしている割合には含まれるものの…成果は著しくない。
これでも悠斗は勉強の成績面で判断すれば割と優秀な部類には入るのだが、そんな彼でも即座には解けないと言えば問題の難易度も伝わるだろう。
無論、彼とて分からないからというだけで正解を不明瞭なままにしておくつもりはないが。
既に悠斗の脳内では帰宅した後に何としてでも正解を明らかにすることが決定事項としてメモされており、今夜にはどのような形であれ決着がつくに違いない。
(今はこれ以上考えてても進まなそうだし、適当に他の問題でも解いて時間潰すか。さて、どれを解くか……って、あれは…本羽か。…あいつ、まさかもう解けたのか?)
急がば回れという言葉があるように、この授業時間内で難問との決着をつけておきたかったのは確かだが今はどれだけ思考に耽ってもおそらく良い解法は浮かんでこない。
一度思考を冷静にクールダウンさせた後に再び向き合えばまた違った視点から正答を導くことも可能になるだろうと判断し、この場は一旦気分転換として他の問題に向き合うこととした。
…だが、そのタイミングで悠斗の視界に入り込んできたのは……彼から見て少し離れた斜め前に位置する場所に座る少女。
クラスメイトが密集しているがためにその身長の低さが尚更際立ってしまっている咲であったが、彼が注目したのはそこではなくもっと別の箇所。
他の生徒が軒並みペンを止めてしまう中、よどみなく動かし続けている指の動きにこそ悠斗は視線を引かれた。
…彼女の学力が優れているとの事実は以前に聞かされたので知っていたが、どうやらまだまだその認識には侮っていた部分があったようだ。
悠斗でさえ手を止めざるを得ない難問を前にしても迷いなど無い様子で解答を続けている様を目にしてしまえば、自分と彼女の純粋な学力の差が浮き彫りになってしまうようにも感じられる。
当然、それを実行できるのは他ならぬ咲自身の努力による成果であるため無駄な嫉妬なんかはしないが。
自分よりも優れた能力を持つ者に対して羨むのと妬むのとでは全く別の感情だ。
それに、悠斗はどちらかと言うとこれだけの問題を軽々と解けている咲のことは純粋に尊敬している。
…これは彼が、一見単純に優秀なだけに見える咲も学校の外で見えない努力を重ねていることを知っているからだろう。
偶然とはいえ知ることが出来た咲の積み重ねられてきた努力の量を把握してしまえば、醜い嫉妬なんて湧き上がるわけもない。
そこにあるのはどこまでも純粋な尊敬とその努力量に釣り合った学力への納得。ただそれのみ。
この意識の変化も、彼女と過ごし始めてから起こった変わりようの一つと言えるはずだ。
とはいえここは彼の自宅でも無ければ咲に面と向かってその言葉を伝えられる環境でもない。
彼らの関係が公のものとなってしまえば学校中で混乱を招くのは確実なため、事前に他の者には悠斗の家で咲が過ごしていることをばらさない様にと決めていたのだ。
ゆえに、今は悠斗も何てこともない他人の振りをしながら…それとなく黙々とペンを動かし続けている彼女の姿を視界に捉えるのであった。
「やっと終わりか…つっても次は体育だから休む暇もないけどさ…」
辺りに長く感じられた授業の終了を告げるチャイムが響き渡り、それに伴ってクラスメイトの面々も溜め込んでいた疲労を吐き出すように長く息を吹いていた。
それまでの静けさから一転して騒々しさを取り戻した教室では各々が好きな時間を過ごしているが……その中でも賑やかなのは間違いなくあそこだろう。
「ねーねー本羽さん! さっき凄く真剣に何か書いてたけど、もしかして問題解けたの!?」
「………」
「えっ、凄くない!? あ、良かったらこの飴食べる? 美味しいんだよー!」
「…………!」
「…か、可愛い…!」
授業が終わるのとほぼ同時にワッと人が集まっていったのは先ほどまで悠斗が視線を向けていた場所と同一であり、端的に言えば咲が座っている席が中心となって人だかりが形成された。
彼女の人気を考えれば当然だが、学校ではこうして日常的に咲は誰かしらに囲まれている。
今もクラスの女子たちが咲にあれこれと話しかけたり、お菓子を分け与えていたりとまさにマスコット的な扱いを受けているのが確認出来る。
まぁ彼女らの気持ちも分からないではない。
誰かが言った通り、咲の風貌は小さく愛らしい背丈ゆえに言動が幼く見えるため、向こうが何かを言わずとも何かをしてあげたいという心境にさせられるのだ。
現に今も女子の一人が手渡した飴玉を瞳を輝かせながら受け取り、味が気に入ったのか全身を揺れ動かして美味しさを表現する咲の可愛らしさはやはり周囲の目を独占する。
それだけの魅力に溢れていると思い知らされる。
……だが、どうしてだろうか。
ついこの前までなら見慣れていたはずのその光景が、今の悠斗にはとても…見慣れないものに思えてならなかった。
原因は分からない。視界で捉えた光景に何となくそう思っただけだ。
ただそれでも、いくら眺めていてもその異質な感覚は消えることがなく……眼前にて繰り広げられている日常を見続けた結果、悠斗はその感覚の正体がぼんやりと理解できた気がした。
(…あぁ、そういうことか。前なら何とも思わなかったけど…本羽がただ甘やかされてるのが違和感に感じたんだな)
そう、それこそが彼の抱いた奇妙な感覚の正体。
以前ならただそれだけの光景として映っていただろう風景を前にしながら覚えた違和感の正体は…実に単純。
極々シンプルな回答となるが、今の咲は分かりやすく言ってしまえば周囲の面々から甘やかされまくっている。
飴を貰って分かりやすく喜んでいたり、言葉こそ発しないが質問に対してコクコクと頷く様は……対峙した者の保護欲を強く疼かせるためにそうした有様となっているのだろう。
…だが、今の彼にとってそんな咲の状態はどうも自然体とは思えない。
というのも、悠斗にとっての咲という少女は一見頼りなく見えつつも…その実、意外なほどにしっかりしている。
自分のことならば責任を持ってこなし、勉強や果てには家事という方面までもそつなくこなしてしまう人物。
この一週間弱で思い知らされた咲の人間像があまりにも強烈だったからこそ、悠斗には彼女がそういう人間なのだと強く刷り込まれ…それ以外の面はどうも不自然なように思えてならなくなっているのだ。
彼も彼で、相応に毒されてきていると言える。
(まぁ、あいつもあいつなりに苦労はしてるんだろうけどな。それは今の俺には関係ないことか………うん? 今、目があったか?)
ただし、そんな違和感を悠斗が抱えていようとも周囲には何の関係もない。
相も変わらず甘やかされ続けている、あるいは構われている咲を悠斗が見ていようと状況は何も変わらない。
ゆえにここは傍観に徹することとして……不意にそれまでは悠斗のことなど気にも留めていないように見えた咲と、気のせいか視線が交わったような気がした。
一瞬、ほんの一瞬だけ目線だけをこちらに送ってきたように思えた咲だったが…だからと言って何かがあるわけでもなし。
今の視線の交錯も、こちらの単なる気のせいだろうということで結論付けておいた。
……がしかし、そこでまた気になることは続く。
(ん、携帯が鳴って……誰だ? 送ってきたやつは…え、本羽?)
悠斗が盛り上がりを見せている咲の机近辺から目を逸らせば、その瞬間に彼の手元にあった携帯が誰かからの連絡を知らせる通知を鳴らしていた。
元々連絡先を交換した相手も数えるほどしかいない悠斗のアカウント。
このタイミングで連絡をよこしてくる相手などいただろうかと疑問に思ったが…表示された名前は他でもない咲である。
一体何の用事だろうか。
そう思いつつも内容を確認してみれば、そこには……『今日のお買い物。私がやるから悠斗はしなくていい』という文言が載せられている。
……そして、このメッセージを送ってきただろう張本人を何の気なしに見てみれば…視線の先では、未だ人に囲まれながらもふにゃりとした笑みを浮かべ、目線は悠斗の方に向けた彼女の姿があった。
(……全く、そんなことしてたらバレるだろうが。後で言い聞かせておかないと…)
一見すれば近くのクラスメイトと談笑を交わしているようにしか思えない咲の姿も、よくよく観察すれば悠斗に意識を向けているのは分かってしまう。
幸いにも今教室にいる者の中でその事実に思い至った者はいないようだが…危機管理を考えれば褒められたことではないので後々言い聞かせなければなるまい。
……だが、まぁ。
こんな何気ない日常の中でも、さりげなく悠斗と意思疎通を図ろうとしてくる咲の行動は…少し嬉しくもあったというのも事実である。




