第二五話 気になる触り心地
「…うん、今日の夕飯も美味かった。ご馳走様」
『お粗末様。喜んでもらえたのなら何より』
咲との何気ないやり取りから二人で勉強することになったわけだが、その後の顛末については何も面白おかしいことがあったわけでも無い。
強いて言うならば何故か悠斗の自宅に戻ってきた咲が恥ずかしそうに鼻を赤くしていたのが少し気になった程度のもので、それ以外は滞りなく落ち着いた時間だったと言えよう。
彼女も彼女でこの家での勉強を気に入ってくれたのか少しすればかなり集中していたようだったし、全体を見てもかなり良い結果でまとめられた。
…そんなこんながありつつ時間が経過したわけだが、今の彼らは二度目となる夕飯を終えたばかりである。
今日の気になる献立の主菜に関しては唐揚げとなっており、先日が魚だったためそこら辺も考えてのメニューだったのかもしれない。
しかし、男子高校生という立場からすれば揚げ物というガッツリとしたボリュームを出されるのは嬉しいことも間違いない。
…悠斗は料理が出来ないため聞きかじった知識にはなるが、確か揚げ物というのは家でやるとすれば相当に手間がかかると小耳に挟んでいた。
にもかかわらず、咲は明らかに出来立てのクオリティとしか思えないほどの完成度を誇った唐揚げを出してくれたため本当に頭が上がらない。
当然味わいも最高であり、一口噛み締めるごとに肉汁と醤油ベースの漬けダレによる風味が強く感じられるあの一品は誇張抜きにいくらでも食べられてしまいそうだった。
とはいっても、咲もその程度のことは想定済みだったのか相当数の鶏肉を揚げてくれていたため文句なしに満腹である。
昨日の手料理を味わっていたために期待感はより高まっていたが、それすらもさらに超えてくる咲の技量には唸らされるばかり。
だからせめて悠斗はこちらの感謝を伝えておこうと最後まで良い出来だったと伝えていけば…その意思は伝わったのだろう。
食器を運びながらも隠し切れない笑みを浮かべる咲の顔を目にすれば、彼女の情緒は一目瞭然だ。
「皿はそこに置いておいてくれな。後で洗っとくから」
『……やっぱり、これくらいなら私でも出来る。わざわざ悠斗がやることじゃ───』
「それは駄目だ。…そこまでやらせるのは俺のプライド的にも無しだし、任せっぱなしは趣味じゃない」
ただ、それでも昨日に引き続いて咲の方も夕飯の後片付けに関しては納得しきれない部分があったらしい。
それとなく自分が皿を洗うと提案してくる姿勢は見事だが…そこで流されるような悠斗ではない。
先日も言ったが、悠斗はいくら自分で楽をできるからと言って咲に全ての仕事を押し付けるような真似を良しとしていない。
そうなってしまえば本格的に人間として駄目になると直感しているからというのと、この現状が対等な交換条件によって成り立っているからというのが主な理由になる。
折れるつもりはない。折れることがあるとすれば、それは悠斗の人間性が低下した時なため事実上そちらも訪れることは無い。
今回とてそれは同じこと。
依然として納得できていないのがありありと分かる咲には申し訳ないが、ここだけは譲るつもりも限りなくゼロに近い。
なので申し訳なくは思いつつも咲には諦めてもらうこととして…悠斗は己の役割を果たすためにキッチンのシンクへと向かっていくのだった。
(これで終わりっと…さて、俺も適当に休むとするかね。……ん? 本羽のやつ、勉強してたのか…随分真面目なもんだな)
二人分の食事の後片付けも二日連続ともなればある程度コツは掴めてくるもので、そう時間もかけずに終了。
掌に付着した水滴を拭いながらキッチンを後にしていけば…そこで悠斗は黙々と勉強している咲を認識する。
こちらも夢中で作業をしていたがために気が付くのが遅れてしまったが、どうやら悠斗の知らぬ間に向こうはこの時間さえも自身を高めるために使っていたようだ。
つい先ほどまで同じように勉強していたばかりだというのに、よくやるものだとも思うが。
…まぁそういうことなら邪魔はしないように注意だけはしておこう。
ダイニングテーブルにて自習道具を広げている彼女を見つつも余計な音だけは立てないようにしながら、悠斗は悠斗で自分の時間を満喫すべく少し離れたソファへと座り込む。
眼前に置かれていたテレビも音量に配慮しながら眺めてみるが…あいにく関心を引かれるような番組はやっていなかった。
仕方ないのでテレビは消して携帯を弄ってみるも、何だかそれにも集中しきれず…今の退屈な心境が加速していくだけ。
…同じ空間に咲がいるからだろうか?
いつもならこの過ごし方でも十分に暇を紛らわせるというのに、一つ屋根の下で彼女がいるというだけでその過ごし方も適用されなくなってしまったようだ。
(…今は面白そうなニュースなんかも無いだろうしな。普段ならこんな気分にもならないってのに、何でこんな時に限って暇なんて………うん?)
自分の時間に没頭していると現在の気分が浮き彫りになってきてしまうので気分転換をしたいところではある。
ただ、そうするための手段が思いつかないので手詰まりかとも思われたが……そこでふと悠斗は自身の身体に伝わった違和感を感じ取った。
…その感覚を言葉に言い換えるのであれば、分かりやすく言うと髪の毛が引っ張られでもしたかのようなくすぐったさに近い。
自分ではない誰かに髪を弄られているような、そんな感覚。
もちろん、この家に居る人間は住人である悠斗を除けば…一人しかいない。
最早予想というより確信に近いものであるが、事実確認という意味合いも兼ねて感触のする方向へと目を向けてみる。
そうすれば…そこには予想的中と言ったところか、いつの間にやらここに移動してきていたらしい咲がやたらと楽しそうな雰囲気を全開にして悠斗の髪を弄っていた。
「一応聞いておきたいんだが…何をしてるんだ?」
「………」
「…『こっちのことは気にしなくていい』って…いや気になるだろ。どう考えても」
何をしているのかは明白だが何故そんなことをしているのかは不明な咲の行動。
いつ勉強を中断したのかだとか、どうして悠斗の髪を触っているのかなどと聞きたいことは山のようにある。
…が、それらをひっくるめて質問した結果返ってくるのはハッキリとしない返事であった。
悠斗が聞きたいことは主に動機の方だったのだが、それすらもぼかして返答されてしまったので彼としては首を傾げる他ない。
……しかし向こうもそのことは理解していたのか、相変わらず髪を触ることは継続したままで後ろから反応を返してくれた。
『…別に大したことじゃないけど、実は前から悠斗の髪を触ってみたかった。すごく触り心地が良さそうだったから』
「触り心地…? そうは言っても俺、特に手入れなんてしてるわけでも無いぞ。触っても気持ちよくなんて無いだろ」
『そんなことない。凄く滑らかだし、髪質もしっかりしてる。お手入れしたらもっと良くなる』
「自分じゃよく分からんが…そういうものなのか?」
『そういうもの。だから、少しだけ触ってても良い?』
「……いいけどさ。多少くすぐったいだけだし」
咲が唐突に悠斗の髪に触れてきたのにも一応の理由はあったようで、彼女曰く実は前々から彼の髪には興味を引かれていたのだとか。
確かに、悠斗の髪は本人こそ自覚していないが中々の触り心地を持っている。
生まれついてのストレートな髪質は指でなぞっても引っ掛かることなく通り抜け、特別な手入れこそしていないが最低限の清潔感は保つように意識しているため目立った汚れもない。
パッと見ただけでは分かりづらいが、咲が言うようによくよく見れば触れたくなる触り心地を主張しているというのも理解は出来る。
まぁ、当事者である悠斗がそれを自覚していないために彼は疑問符を頭に浮かべていたがそれは些細なこと。
それに、理由がそうと分かってしまえば強く拒否するほどのことでもない。
触られた瞬間こそ驚いてリアクションをしてしまったが、髪を触れさせる程度のことなら悠斗とてわざわざ断るほど器も小さくないつもりだ。
なのでこちらも一旦許容の姿勢を見せ、しばらくは咲が悠斗の髪を弄るという謎の時間が展開されることとなった。
…その間も彼は、どうして自分の髪が咲の興味を勝ち取れたのかという疑問に思考が満たされていたがそれはまた別の話。
話がまた動きを見せたのは、それから少しして…咲が彼の前髪をほんの少し触った時のこと。
『…悠斗、前髪長いけど切らない? 見えにくそう』
「ん…あぁ、これな。別にいいんだよ。もうずっとこれだから慣れっこなんだ」
楽しそうに髪を触っていた咲が不意に指摘してきたのは彼の前髪……それも若干目元にまでかかってしまっている長さの髪だ。
これは悠斗自身の地味な印象を加速させている要因の一つでもあるが、伸びた髪によって瞳が隠れてしまっているが故に彼の陰鬱としたイメージが強まってしまっている。
この髪を切れば多少なりとも悠斗が対面した者に与えるイメージももう少し明るいものとなったのだろうが…彼自身はこのスタイルを変えるつもりもないのだ。
というのも、悠斗はそもそもからして積極的に他者と関わろうとしているわけでもない。
必要最低限の交流こそ持っているものの、普段の学校生活からして一人で過ごしているのは大人数で過ごすよりも一人で過ごす方が性格に合っているから。
長く伸ばされた前髪は言ってしまえばその行動原理に則した副産物であり、誰かと目を合わせることで余計な会話が発生しないようにとするためでもある。
卑屈な生活スタイルとも取れるが、ずっとそうやって過ごしてきたのだ。
今更変えるつもりも起こらず、変える機会が訪れることも無いままここまでやってきたというだけ。
『…なら、いい。でも少しもったいない気もする』
「……もったいない? 何が?」
…ただしかし、そんなやり取りの中で前髪をかき分けてきた咲の言葉には要領を得ない。
もったいない。その発言の意味が分からず疑問を言葉にしたわけだが───そこで返された言葉は、今の悠斗の思考を空白と化すものだった。
『だって悠斗、ちゃんと顔を見せたら格好良い。だけどそれが見えてないから、もったいないと思う』
「は…っ!? いきなり何言ってんだよ、全く…! …下手なお世辞ならやめてくれ」
『…? お世辞じゃない。ちゃんとそう思ってる。だから言ってる』
…そう伝えてくる咲の言葉は、あまりにも予想外。
キョトンと首を傾げながら悠斗が何故困惑しているのか分からないという雰囲気をまじまじと伝えてくる彼女の素振りに対して…彼の内心は掻き乱された。
だが、向こうが言わんとしていることも理解はできる。
これも悠斗本人は自覚していないことになるが、彼の顔立ちは周囲と比べてもそれなりに整っている方なのだ。
親譲りのくっきりとした目鼻はさほどしつこさを感じさせない爽やかな印象を受けるし、ぶっきらぼうな言動や雰囲気の裏に隠れる清潔感は見る者に不快感を与えない。
どちらかと言えば彼女の言う通り、悠斗は見た目という観点だと整った部類に入ることだろう。
…普段は先にも述べた目元にまでかかった前髪と全身から放たれる地味なオーラが邪魔をしてそれほど衆目の下に晒されないが、よくよく見れば磨けば光るタイプでもあるのだ。
その事実に気が付いたからこそ、咲も素直に本心からの感想を伝えてきたのだろうが…伝えられた側としては平常心ではいられない。
何せ、同じクラスの同級生から…それも咲という美少女から突然格好いいなどと告げられたのだ。
相手に対して直接的な感情を抱いていなかったのだとしても、否応なしに感情は揺さぶられるというもの。
「…ほら! 髪を触るのはそこまでにしてくれ! これ以上は時間切れだ!」
『…!? ま、まだ満足するまで私も触れてない! 断固拒否!』
「知らん! それ以上は触るのを認めないぞ!」
内心で込み上げてくる羞恥心にも近いむず痒さ。
高まってくる頬の熱と赤らみは、どうしてか咲には見られたくないと思ってしまって…半ば無理やりにこの流れを打ち切らせてもらった。
そう告げられた咲の方はまだ触り足りなかったのか抗議をしてきたが、それに対応してやる余裕は今の悠斗には…あるわけもなかった。
彼自身も自覚せぬうちに数分前まで感じていた退屈さはどこかへと吹き飛び、二人の間には…騒がしくも温かい空気が広がっているのだった。




