第二三話 信頼の鍵
「ほら、寒いだろうしこれ飲んで身体を温めてくれ。多少はマシになるはずだ」
『…ありがたく頂く』
いつの間にかやってきていた咲を早々に自宅へと招き、一通り暖房器具の電源を点けた後悠斗はソファに座った咲へとマグカップに入れたホットミルクを手渡した。
偶然にも家に牛乳の買い置きがあったためそれを温めただけだが、これなら簡単に身体の寒さも緩和できるはず。
そう思って咲に渡せば彼女は素直に受け取り、軽く口で冷ますとコクコクと飲んでいった。
『…美味しい。これを作れるなんて、悠斗は流石』
「そりゃ良かった。…とはいっても牛乳を温めただけだし、昨日本羽が作ってくれた料理なんかと比べたらクオリティは雲泥の差だけどな」
『私も料理は出来るけど、こっちの方が好き。悠斗が作ってくれたからものだから』
「…っ。…そうかよ」
湯気を立てるミルクを小さな口で飲んでいった咲はその味わいに感動でもしてくれたのか、若干興奮した面持ちで感想を述べてくれた。
そんな中で悠斗が作ったものだから、これが好きだという一言を告げられた時には…少しこちらの感情も掻き乱されかけたが、まぁ咲に温かさを提供してやれたというのなら何よりである。
「…でも悪かったな。さっきは暇つぶしに出かけてたんだが…そんなことせずに大人しく待ってればよかった」
『別に悠斗は悪くない。タイミングが悪かっただけ』
「そうなのかもしれないけどさ…けど気になるんだよ、こういうのは」
「………」
ただし、ようやく落ち着いた空気になると先ほどの出来事を思い返して悠斗も気分を盛り下げてしまう。
今回は不幸中の幸いにもそれほど時間を置かずに戻ってきたからすぐに招くことが出来たが、仮に遠出でもしていれば長時間咲を外に放り出していたかもしれない。
事前にしっかりと相談をしておけばそうはならないかもしれないが、それだって絶対ではないのだから今後も急な予定が入って家を空けることは必ずあるはずだ。
もしそうなった時、再び彼女とすれ違う可能性は…無いとは言い切れない。
だったら次はこのような事態にさせないためにも、何かしらの対策を打ちたいところではあるが………。
思わず思考が自分だけの世界にどっぷりとハマりかけ、どうにかこの状況を改善しなければという考えに頭が満たされる。
だが結論から言えば…その解決策は、悠斗ではなく隣にいた少女から発案されることとなるのであった。
『…だったら、連絡先を交換しておくのはどう?』
「……連絡先?」
『そう、今日すれ違ったのは連絡の行き違いがあったから。なら、連絡できる手段があれば今後はそういうこともなくなる』
「なるほど……確かにな」
咲の提案も最初は意外なものと思われたが、言われてみれば最も確実だと考えられる。
お互いに出会い方が苛烈だったので忘れていたが現在の二人はまともな連絡手段を持っておらず、家も近いので何かあったら直接伝えれば良いと認識していた。
ただ、もちろんそれだけでは限界もあるので何時であろうとやり取りが出来る手段を確保しておくのは至極当然の案だ。
『ちなみに、私の連絡先は学校だと一人しか持ってない。だから交換できる悠斗はとても貴重。…嬉しい?』
「…そう言われると何だか交換しづらくなってくるんだが」
「………っ!?」
咲が口にしてくれた案は悠斗も納得だ。交換しない理由がない。
なので悠斗も普段から使用しているメッセージアプリを開き、互いの連絡先を登録しておこうとして…咲が放った一言によって少々躊躇してしまった。
まさかそんなことがとも思ったが、何と咲は意外なことに学校でも己の連絡先はオープンにしていないらしい。
常日頃から人に囲まれ、誰からも甘やかされている咲の姿を見かけている身としてはそれはもう大量の同級生とやり取りをしているのだろうと考えていたため少し驚きでもある。
…がしかし、そうなると悠斗が今やろうとしているのはとんでもないことであるということも証明されてしまう。
校内でも屈指の人気さを誇る咲の明かされていないメッセージでのやり取り。
そんなものを求める層はごまんといるだろうし…仮にそれをぽっと出の男子生徒でしかない悠斗が所持しているだなんて知られれば血の雨を見ることは容易く予想できる。
だからこそ躊躇してしまったわけだが…何故か咲はそのリアクションに酷くショックを受けたように固まってしまう。
『…ゆ、悠斗は私と連絡先交換したくない? だったら…寂しいけどやめる…』
「え? …あっ、いやそういう意味じゃないからな!? ただ何というか…俺みたいに地味なやつが本羽ほどの人気者とやり取りをしてるのが烏滸がましいって思ってただけだよ」
『……本当?』
「…本当だ。だからその…連絡先を交換したくないとか、そんな意味じゃない」
…言ってから気が付いたが、捉えようによっては彼の言葉はまるで咲と連絡先など交換したくないとも受け取れてしまう。
おそらく彼女も言い方的にそちらの意味で発言を聞き入れてしまったようで…相当ショックだったのかわずかに涙目になってきていた。
…とんでもない勘違いをさせたものだ。
さしもの悠斗であっても流石にそれほど真正面から拒否の姿勢を伝えたりはしないし、あくまで今の発言は有名人と個人的な繋がりを増やすことに恐縮したという意味合いなのだから決してそんな意図はない。
ゆえに即座に訂正したわけだが…その必死さの甲斐もあってどうにか誤解があったことは伝えられたらしい。
潤んだ瞳で見上げられながら、断じて嫌っているだとかそういうわけではないということを知らせることには成功した。
咲もそれを知ればホッとしたように胸を撫で下ろしていたため、ひとまずは一件落着といったところか。
『…じゃあ、交換する。携帯出して』
「分かった。…これでいいよな?」
「………」
誤解云々さえ解けてしまえば両者の連絡先を交換することに何も異論はないため、それを邪魔する者もいなければスムーズに事は運ぶ。
平常心を取り戻したらしい咲からコクコクと頷かれながら促されれば悠斗も懐から携帯を取り出し、お互いに利用しているメッセージアプリのアカウント交換画面を起動する。
交換自体に大した時間はかからない。
せいぜいが通信に関わる時間程度なため、あったとしてもそれは誤差のようなものである。
「…出来た、っぽいな。多分」
「………!」
「これが本羽のアカウントだろ? 見た感じ合ってそうだし、大丈夫そうだな」
その予想に反することなく彼らの連絡先交換は順調に終わり、悠斗の画面に表示された名前には新たに『本羽咲』という名前と可愛らしいウサギのようなアイコンが追加されている。
…まさか身内と形式的に交換した友人以外のアカウントがここに登録される日が来るなど夢にも思っていなかったが、これは必要なこと。
そう自分に言い聞かせ、悠斗は内心では複雑な気分になりつつも…パッと咲の方向を見る。
すると…そこにはキラキラと嬉しそうに瞳を輝かせ、彼女の画面にも追加されたのだろう悠斗のアカウントを見つめる彼女の姿があった。
『…悠斗の連絡先、本当に追加された。嬉しい』
「んな大げさな…他の相手ならともかく、俺くらいの相手と交換したって喜びもないだろうに」
『そんなことない。…私は、悠斗だから嬉しいって思う。他の人じゃ駄目』
「っ! …まぁ、学校でも他のやつに教えてないんだもんな。それなら物珍しさもあるか」
…そのくりくりとした大きな瞳を歓喜に彩りながら彼女は悠斗との繋がりが増えたことをとても素直に喜んでいるが、放たれる発言のストレートさゆえにこちらの方が心を動かされそうになる。
懐いてくれること自体は嬉しくもあるのだが…そういう発言は控えるように指摘した方が良いかもしれない。
今はまだ悠斗の理性で耐えることも出来ているが、この状況が続くのならいつかおかしな事態に発展しても不思議ではなくなってしまう。
『…そういうことじゃないけど、今はそれでいい。とりあえずこれで今後はメッセージも送れる』
「だな。一応はこれさえあれば今日みたいなすれ違いもなくなると思うが…でもこれだけだと不安なんだよな…」
「………?」
「…仕方ないか。本羽、せっかくだしこれも渡しておく」
『……これ、何?』
目的としていた連絡先も交換し終え、これで全て安心………そう思いかけた時。
幸せそうに口元を緩めていた咲とは対照的に悠斗はどこか不安がちな表情を浮かべており、何か悩む素振りを見せた後で…一本の鍵を手渡した。
突如として渡されてきた鍵は何の変哲もない風貌だが、それがどこのものかを知らなければ困惑するのも無理はない。
しかし、その正体は実に単純で…大きな意味を持ったもの。
「それ、ここの合鍵だよ。これからも来るって言うなら無いと不便だろうし、預かっといてくれ。俺がいない時でも好きに部屋に入ってくれたらいいから」
「………!?」
そう、これは悠斗の自宅の合鍵であり、彼の家に直行できるフリーパスの役割すら持った重要品だ。
間違いなく第三者にこんなホイホイと差し出していいものではないし、軽く防犯意識を疑われるレベルの行動に違いない。
それでも、これも一応は彼なりの理由があって貸し出したのだ。
『…悠斗、これは受け取れない。私が持ってていい物じゃない』
「どうしてだよ? 本羽が持っててくれたら俺もいちいち家の鍵を開ける手間が省けるし、そっちも時間を気にせず入れるんだからお互いに得しかないだろ」
『だからこそ。もし私が悠斗の家に泥棒でもしようとしたらどうする? そうなったら不法侵入し放題』
ただし咲の方は差し出された鍵に対して怪訝なリアクションであり、無理もないが簡単に受け取ろうとはしなかった。
彼女の言っていることは徹頭徹尾正しい。
もしこれで咲が悠斗の家の鍵を持った状態で窃盗でも企んでいれば彼にそれを止める術はなく、確実に後悔する結果となるだろう。
そもそも単なる同級生に過ぎない相手に自宅の鍵を渡すなど、正気の人間がやることではない。
…ただそれでも、それ以上に悠斗は…これでも咲のことを信頼しているつもりなのだ。
「何だ、本羽はうちに盗みに入るつもりなのか? それは驚きだな」
『…そんなことはしないけど、万が一の話。そもそも悠斗は───』
「だったら問題もないな。ほれ、預けとくから失くしはしないでくれな」
「………!」
向こうの返答など聞く様子も見せず、軽い言葉と共に小さな掌へと落とされた鍵を咲は慌てて拾っていた。
…半ば強引だったのは否定しないが、彼女に鍵を受け取ってもらうにはこれしかないので多少強気でいったのは避けられない展開だ。
それに安全面についても、咲は色々と言っていたがそう言ってくる相手は大抵何もしてこないものだ。
この短い付き合いでも彼女がそういった類の人種であることは分かり切っているし、だからこそ悠斗も信用して鍵を預けている。
『……悠斗はこういうところが頑固。意固地』
「何とでも言ってくれ。一か月が経った頃にまた返してくれれば問題もないし」
『…分かった。じゃあその時までは、私が責任を持って預かる』
「おう。是非とも頼む」
その意思は彼女にも伝わったのか、最初は不満気なオーラを放っていた咲も次第に諦めたかのように雰囲気を変えていた。
意固地だ何だと酷評されている気もするが、これが現状における最善手なのだからこのくらいの我儘は許されたって良いだろう。
どちらにしても咲が最低でも一か月はこの家で過ごす以上、いつかはこの鍵を咲に渡していただろうから早いか遅いかの違いでしかない。
自分のことだからこそ確信している。悠斗ならいつしかは必ず同じ選択肢を取っていたと。
ゆえにこそ…悠斗は家の鍵を彼女に預けた。
絶対に失くしはしないと決意を固めてくれているのか、両の掌でギュッと合鍵を握りしめた咲の姿を横目にしながら。
彼もまた、一つの問題を片付けられたことに安堵の息を吐くのであった。




