第二一話 約束の後
…その後、咲は悠斗の自宅へとやってくる権利を勝ち取ったことでそれはそれは上機嫌となっていた。
具体的にどれほどかというと、普段はそれほど変化もない表情筋がその時ばかりは一目すれば分かるほどに笑みに満ちていたくらいだ。
まさしく蕩けそうな満面の笑みという表現が最適なくらいに当てはまる彼女の表情は…不覚にもこちらの心臓を揺さぶられそうなくらいに可愛げに満ち溢れていた。
よほど提案が受け入れられたことが嬉しかったのだろう。その事実が嫌というほど伝わってくるのだから…最初は何とかやめさせようとしていた悠斗も次第に諦めた次第である。
…と、そんなことはいいのだ。
それよりもその先の顛末についてだが、二人は軽く話し合いを行って今後のことについて決め合った。
ただ、その内容というのも大したことではない。
手短にまとめてしまえばこれからの生活における役割分担の確認と言える。
要は、二人分の料理をこれから咲が作ることになったわけだが…そこにかかる主な費用なんかの負担をどうするかということである。
この辺りは最初の時点ではっきりさせておかなければ後々揉める可能性が高いし、金勘定関係のトラブルは前もって潰しておきたいという理由もあった。
ゆえにこそ相談は必須であり、そこまで時間もかからないだろうと思っていたわけだが…現実はそう上手くもいかない。
話し合いの真っ最中、主な展開としては悠斗と咲それぞれで半分ずつ食事に関わる費用を折半しようという流れになっていた。
お互い生活費に関しては親からある程度の金額を受け取っているため、そこから出すわけだがどちらか一方が負担し続けるのはキツイだろうし…二人で消費するものなのだからその選択肢はありえないという判断ゆえである。
なのでそのままの案で通ったわけだが…実を言うと、最初は悠斗の方が若干多く負担しようとしていたのだ。
そう提案した理由はシンプルで、確かに二人で使うものではあるがこの料理に関しては条件が悠斗と咲で少々フェアではない。
というのも、悠斗は料理に関して何も触れないのに対し…咲は調理をするという手間を一方的に被っているのだ。
これは少しマズい。ほんのわずかな差異とはいえど、労働を咲に押し付けているのだからその他の面で悠斗はサポートすべきだと考えて…考えた結果、金銭方面で負担を被るべきと思った。
…そしてその案を言葉そのままに伝えた結果、大反対された。
『料理をするのは自分がしたいから、大した労力でもない』、『それなのに悠斗の負担が増すのはおかしい』…と。
全て咲の言葉である。
意外にもそういったところはきっちりしているらしい咲の態度に感心させられた一方、あの時は流石の悠斗も…彼女の纏うオーラに背筋を凍えさせられてしまった。
…咲に対してこんな印象を与えられるとは思ってもみなかったが、彼女も悠斗と同じく他者に一方的な不利益を与えることを良しとしない性格のようだ。
その証拠に、悠斗が自分の負担金額を増やすと口にした暁には…一瞬にして全身に纏う雰囲気が冷徹なものへと変貌し、瞳もより鋭いものへと変わった。
表情は大して変わらず、何か言葉を発したわけでもないというのにあれだけの威圧感を放てる女子高生というのは…一体何者なのだろうか。
しかも、背丈が小さめな咲であるがゆえにギャップの凄まじさは倍増である。
…ともかく、だ。
そうした流れもあって結局は二人で半分ずつ費用は負担。それ以外にも必要なものがあれば要相談といった形へとまとめられた。
他にも話し合う必要があるものは残されているはずだが、今日一日でそれら全てがまとめきれるわけもないため残したものはまた後日に決めることとした。
「…じゃ、またな本羽。送って行かなくて大丈夫か?」
『心配はいらない。それに送ってもらうほどの距離でもない』
「それはそうなんだがな…何となくお前が相手だと心配になるんだよ。知らぬ間に誘拐とかされそうだし…」
『……子ども扱いしないでほしい』
なお、そんな二人は粗方の話し合いが終わったのでようやく咲の見送りが実現したところである。
彼女も明日からまたこの家にやって来れる確証が取れればこれ以上居座る必要はないことを理解してくれたのか、ウキウキとした様子を隠そうともせずに玄関先へと歩いて行ってくれた。
…その会話の中で、悠斗が何気なく漏らした言葉に咲が若干不機嫌になってしまったのはご愛嬌である。
多分、悠斗だけではなくここにいるのが他の者であっても似たような感想は抱いたはずだ。
しっかりしたところは意外なほどに徹底している咲も、私生活の大半はこちらの保護欲を刺激する小動物性が全開の少女である。
小柄な見た目とも合わせれば完全に中学生、もしくは小学生にしか見えないので無意識に心配してしまうのは致し方ない。
当人は頬を膨らませて己の不満をこぼしていたが、そう思われてしまうほどに彼女は他者の目を引き付けるという事実の裏返しでもあるのだから諦めてほしい。
無いとは分かっていても、このマンション内を一人で帰らせることでさえ少々不安になるほどである。
……咲と関わり始めてから何だか自身の過保護具合が加速しているような気がするのは気のせいだと思いたい。
「ま、このくらいなら問題もないか。本羽も今日は色々とありがとな。気を付けて帰れよ?」
『分かってる。…悠斗も、また明日』
「……はいよ、明日な」
だがしかし、咲の言う事にも一理はある。
いくら彼女が見た目麗しい少女で、他の者の目に留まりやすいとはいっても…ここは咲の自宅があるマンション内なのだ。
万が一にも事件や事故など起こらないだろうし、流石にそこまで気を向かわせるのは干渉のし過ぎというものである。
なのでここは大人しく見送りに徹することにして、悠斗は携帯片手にはにかむような笑みを浮かべた咲が帰る姿を見守っていた。
最後に別れの挨拶を伝えながら…暗に後日も来るのだという事を明言しながら。
咲もまた、自らの家へと戻って行くのであった。
そうすれば悠斗の家には懐かしい一人だけの静かな空気が戻り、久方ぶりに静けさに満ちた時間となる。
…これまで悠斗が味わってきたものと何ら変わらない、当たり前の光景。
だが………。
(…家の中、こんなに静かだったっけかな…?)
…不思議と咲が帰って行った直後のリビングへと足を進めていけば、いつもは落ち着きすら感じられる穏やかな空気がどうしてか違和感のようにも思えた。
おそらく、直前までは良い意味でも悪い意味でも賑やかさに溢れた時間を過ごしていたからこそ、今になってこのシンとした空気が身に染みるのだろう。
だからどうというわけでも無いが、その変化が…咲と関わったことによる何よりも大きな影響のように、今の悠斗は感じられた。
(…まっ、とりあえず今は放っておこう。それよりも早いところ風呂入らないとな…)
ただしそれらの感情は、今留意しなければならないというわけでも無い。
どちらかと言うと現在は朝から動き続けた反動か…身体に溜まっていった疲労の方が大きいため、早いところ洗い流してしまいたかった。
長時間清掃作業に身を置いていたのだ。自覚していないだけで汚れだって相応に纏わりついている。
気分を入れ替えるためにも入浴をするというのは決して悪い選択肢ではないはずだ。
なので悠斗もテンションを洗い流してしまうために風呂の準備を進めることにして…明日から始まるだろう奇妙な生活に内心で思いを馳せる。
咲との出会いから巡り合わせ、そして時間を共にすることを決めた等々。
周囲にバレてしまえば騒動になること間違いなしの情報ばかりだが…それを了承したのは自分自身。
であれば、四の五の言わずに受け止めるしかないだろう、なんてことを考えながら…彼は見慣れた部屋の中へと戻って行くのだった。




