第一七話 自然な不自然さ
──見違えるほどに整頓されたリビングの中、悠斗は普段ならば確実に聞くことも無いだろうキッチンの方から届いてくる音に耳を傾ける。
金属的な響きを感じさせてきたかと思えば、その一方で何かを煮立てるかのように湯が沸騰していく音までも聞こえてくる。
本能的に料理をしているのだろうと理解できるリズム感だが…この家においては何よりも異質な要素とも言えるだろう。
何しろ、この家で最も長い時間を過ごしている悠斗は料理などしない。というか、出来ない。
日頃の食生活はインスタント食品か惣菜頼りという不摂生極まりない生活を送っている身からすれば自炊なんて選択肢ははなから消滅しており、完成品の末路を想像してしまえば挑戦するだけ無駄なのだ。
なので日常生活の中で調理風景など見られるわけもないこの家において、料理の音がする要因など悠斗にあるわけもなく…その音の正体は他の者。
掃除の時とも似たような光景を思い出させるように、小さな体躯を忙しなく動かしながら手際よく調理を行っていく咲の姿がそこにはある。
(……本羽の圧が凄すぎて忘れかけてたけど、これって大分おかしい状況だよな。クラスの男子連中に見られたら何をされるか分かったもんじゃないぞ…?)
…と、そこまで考えてふと思ったが悠斗は今しがた自分の置かれている状況の異質さに気が付いてしまう。
長く同じ空間にいたがために失念しかけていたが咲は言うまでもなく周囲の目を引き付けてやまない魅力に溢れた美少女であり、その背丈とも相まってマスコット的な人気を博している。
当然、咲に思いを寄せる男子生徒も大勢いるわけで…万が一彼らに悠斗と咲が同じ屋根の下で過ごしたなんて知られてしまえばいらぬ恨みを買う可能性すらある。
……元々周りに言いふらすつもりなんて微塵も無かったが、そうとなれば余計にこの現状を明かすわけにはいかなくなってしまった。
ただでさえ咲と関わりを持ったのは完全な偶然だというのに、そのせいで学校での居場所までも失ってしまうとなれば溜まったものではない。
(要はバレなければいいってだけなんだけどな。そもそも俺たちの家までストーキングしてくる物好きなんていないだろうし…それより、流石に腹も減ったな)
しかしそれも突き詰めていけば結論は一つであり、結局のところ事実が露見さえしなければそれで良いのだ。
校内で咲と悠斗が接触する機会などあるわけもないし、そこまで露骨に距離を縮める予定もない。
学校で距離を近づけさえしなければ誰も二人の縁になど気が付きようもないだろうし、ましてや彼らにストーカー紛いの行いをしてくる者などいるはずもない……と思っておきたい。
咲の影響力や知名度を考慮すればないとは言い切れないのが厳しいところだ。
…まぁ今は気にしなくてもいいか。
そんな後の事ばかり考えていたって状況が好転するわけでもないのだから、意識を向けるのであれば今この時のことを考えた方が何倍も良い。
だからこそ、彼も注意をまた別の場所へと向けて…己の空腹具合に目がいった。
(もうこんな時間か…そりゃ空腹になるのも無理はないわな)
空き始めてきた腹の具合。
こればかりは現在時刻を確認すれば当たり前のことである。
何せ今の時間はとっくに十七時を回っており、悠斗が今日起床したのが朝の七時頃だったことを考えればまさしくあっという間という表現が当てはまる時の過ぎ去り方だ。
…正直、自宅の片付けに必死になっていたので最初はそこまで時間が経過しているとは思っていなかった。
経っていたとしても精々が一、二時間だと思っていれば…全てが終わった時には十時間近くぶっ通しで動き続けていたともなればそれはそれは驚いたものである。
さらに付け加えるのであれば、それほどまでに集中していたこともあって二人ともに昼食を取っていなかったので…ここまで何も口にしていない。
そんなことになれば空腹になるのは当たり前だ。むしろそうならなければ身体のどこかが不調になっている。
…とまぁそうしたあれこれがあったということもあり、現在の二人はある意味待ちに待った夕食へと差し掛かったというわけである。
だが…そんな夕食も、準備風景を見てしまえば奇妙な気分になってしまうのも致し方ないというもの。
目の前にはクラスメイトの少女が己に振る舞うための料理を着々と作ってくれており、さらにはその見た目もいささか特殊なものへと変貌している。
というのも、今の咲は料理のための恰好なのか彼女の自宅から持ってきていたらしい…エプロンを身に纏っているのだ。
色合いが薄めの青で統一されたエプロンは彼女の髪色とも相まって非常によく似あっており…さらに言うと、それだけというわけではない。
今現在の咲は服装のみならず、そこから少し見上げた先にある髪型も料理に混ざってしまわないようにとまとめており、長めのポニーテールに結っている。
少し身動きをする度にふわりと揺れ動く髪は否応にもこちらの目を引き寄せ、いつもとは違う髪型ではあっても咲の魅力は全く衰えていない。
それどころか、学校で見かける姿とはまた異なる様相をあっさりと見せている彼女の佇まいはどこかご機嫌なようでもあって…受ける印象がまるで違う。
例えるならば、それこそ………。
(…新妻、か? …って、何を馬鹿なことを考えてんだ俺は! こんなことを考えてたなんて知られたら気色悪がられるだけじゃ済まないぞ…)
…己の思考の中にパッと浮かび上がってきた言葉を悠斗は即座に否定するが、しかし考えれば考えるほどにそうとしか思えなくなってくる。
今も尚眼前で忙しなく動いている咲の姿は明らかな異質だというのに、手元や迷いのない手つきを見ればこれがありふれた日常のようにすら思えてしまう。
断じてクラスメイトに対して使うのが適しているとは思えない単語でもある新妻というワードも…不思議と彼女なら似合いそうなのだから恐ろしいところである。
ただし、それら全てはあくまで悠斗の脳内認識によるものでしかない。
口にしていないとは言ってもこんなことを想像してしまうこと自体が咲への冒涜にも等しく、失礼極まりないものだということは自覚している。
ゆえに、それ以上先に進んでしまえば取り返しのつかない段階までいってしまいそうな妄想は一旦打ち切ることとして…半ば無理やり別のところに意識を向けることとした。
…変に意識してしまったからか、中々集中することも出来なくなってしまったがその辺りは誤差だ。
悶々とした思考が悠斗の中で繰り広げられていることなど露知らず、相変わらず上機嫌で調理を進めていく咲を横目にしながら彼は一人静かな時間を過ごすのであった。
──そうこうしていれば、気が付いた時には咲から夕飯が完成したとの呼びかけが掛けられる。
 




