第一〇話 芽生えた興味
それまでは会話の声が聞こえていた廊下から離れ、彼女は自らの部屋へと戻って行く。
厳密に言えば、自宅へと足を進めるまでに力を貸してくれていた少年の背中を見つめていた時間があったが…それは些細なこと。
彼の姿が見えなくなるまで人知れず見守っていた姿も今は自室へと引っ込め、久方ぶりに戻ってこられたことを喜ばしく思いながら一度気分をリセットしようと己のベッドへと飛び込んだ。
そうすれば意識は自然と先ほどの出来事へと移っていき、横たわっていた背丈の小さな少女…咲の思考もそちらへと偏っていく。
(……悠斗、凄く優しかった。それに…不思議な人だった)
思い返すのは昨日初めて言葉を交わした少年であり、不思議な雰囲気を纏っていた悠斗のことだ。
ここに至るまで文句を言いながらも要所要所で手を貸してくれて、なおかつ結局最後まで見捨てることなく咲をサポートしてくれていた。
…もちろん、咲が困っていると一言口にすれば我先にと助けを求めてくる者は大勢いるはずだ。
自慢のようになってしまうが、咲はこれでも自分が周囲と少しずれていることを自覚している。
並外れた魅力に溢れた容姿も然り、周りがあれだけ可愛い可愛いと連呼してくるのだからその事実は嫌でも理解できる。
まぁ咲の場合はそれでも多少容姿が見れるくらいのもので、自分の容姿に多大なる影響力があるということまでは自覚できていないのだが…そこはいい。
どちらにしてもその影響もあって彼女の周囲は咲の見た目と愛らしさ、または守ってやりたいという保護欲を刺激された者達で溢れかえっている。
…ただ、そういった者達は総じて何らかの見返りを求めて集まってくることがほとんどだ。
あまり同級生のことを悪く言いたくはないが、例を挙げるのなら咲と距離を縮めるために無理やり恩を売ろうとしてきたり、しつこく話しかけてきたりと……例えを出せばキリがない。
最近は親友の助けもあってそういったことも減ってきたが、完全に無くなったというわけではない。
──だからこそ、悠斗が声を掛けてきた時には驚かされたものだ。
一番最初に彼が話しかけてきた時、申し訳ないが咲は悠斗のことをどこかの不審者だと思った。
あんな暗闇に包まれた公園の中で、一人佇む女子高生に声を掛けるなどまともな人間にやれることではないのだからそれも当然だが。
しかし詳しい事情を聞いてみれば何と彼は同じ学校に通うクラスメイトだということで、咲も名前を聞いたことはあったのでわずかに警戒心を解いたのだ。
無論、完全に気を抜いたというわけではない。
いくらクラスメイトだとはいってもそれが心を許す理由になりはしないし、関係性の隙を突いてよからぬことを企んでいる可能性だって捨てきれない。
だから咲は話を聞くようにしながら彼の動作をつぶさに観察し、妙な動きがあればすぐに対処できるようにしようとして……とても拍子抜けすることとなった。
結果から言えば咲のそんな警戒心とは裏腹に悠斗は良い意味でも悪い意味でも何かをするわけではなく、ただ温かい飲み物だけを渡して帰って行った。
…その顔には隠し切れない不安の色を残しているのがありありと見えているというのに、余計な事情を詮索してこようとしなかったのはこちらの事情を考慮してのものだったのだろう。
いずれにしても…声を掛けてきた以上は何かしらの対価を求めて無理な手出しをしてくるものだとばかり思い込んでいた咲にとっては全てが想定外の展開であり、彼女の容姿や魅力などまるで眼中にないとでも言わんばかりに接してきた悠斗の印象が強く刻まれた。
そしてそれと同時に…その日は彼が渡してくれたココアの温もりがあったがために乗り切れたし、わずかな興味も湧いてきた。
さらに後日、学校にはいつも通り向かったが…状況はまるで改善することもなく。
親友に相談しようとしてもあちらにばかり世話になるわけにもいかず、また今日も途方に暮れて過ごすのかと落ち込んでいたところで……再び悠斗と相まみえたのだ。
一日ぶりに顔を合わせた彼はどうして今日もここにいるのかと心底呆れたような顔をしながら、それでも何だかんだと言いつつ詳しい事情を聞いてくれた。
…話を聞いた後でもう一度深く溜め息を吐かれてしまったのは、少々気恥ずかしかったが。
言い方によっては自らの失態を露わにしているだけなので、その認識もあながち間違いではない。
まぁそれは置いておこう。
それからの流れは知っての通りであり、半ば強引に悠斗の自宅へと招かれたが…そこで何かをされることも無いだろうと思っていたので素直に付き従って行った。
向こうが何かよからぬことを企んでいるというのならそもそも先日の時点で行動を起こしていただろうし、それが無くとも悠斗ならそのようなことはしないと咲は直感していたからというのもある。
…その直感が、最終的に彼女の身を助けることになるとは流石に予想していなかったが。
彼の自宅へと招かれ、その有様に驚かされつつも……最後には悠斗の機転によってこうして家に帰ってくることが出来た。
本当に感謝してもしきれず、返しきれないくらいに恩が出来てしまったと言えるだろう。
(…悠斗は、何も聞いてこなかった。そういうところも周りの人とは違って…でも、一緒にいて過ごしやすい)
それに加えて言うのであれば、悠斗と接していた短い時間の中で思ったこと……彼が咲の全く喋らないという特徴について全く触れてこないということも心地よく思った理由としては含まれる。
もう随分前からの事ゆえに咲にとっては当たり前のこととなったが、彼女は日常生活において一切の言葉を発しない。
コミュニケーションはひたすらにジェスチャーか文面を介してのものが大半であり、声を発してのやり取りは決してしない。
とある事件があってから、今に至るまでずっとそうして過ごしてきたので本人としては自然なものだが…他者にとってはそうというわけにもいかない。
実際高校に通う始めてからはそれとなく『どうして喋らないのか』ということも幾度となく尋ねられたし、その度にはぐらかしてきた。
それ自体はどうとも思わない。
咲とてこのような人物が近くにいれば全く喋らない理由について気になりもするだろうし、その心理を理解しているからこそ逆の立場となっても冷静に対処している。
…だというのに、そんな彼女の常識を覆すかのように悠斗はそのことについてほとんど関心を示してこなかった。
さりげなく問いを投げかけるという事すらせず、咲が携帯越しにコミュニケーションを取ってくることにすら疑問一つ抱かない様を見れば…不思議と咲も自然体で過ごすことが出来ていた。
(今度悠斗にお礼をしたい……だけど、何をしたらいい…?)
どうしてかは分からずとも、学校で見せている姿とはまた違う…自然な様子を彼には見せられている。
そこに加えて、今日貰ってしまった恩の数々。
はっきり言ってしまえば、悠斗という存在に強く興味を持ってしまった咲の意識はこの一日で大きく変えられた。
それこそ、悠斗であれば自分が信頼を置くに十分すぎる人物だと思えてしまうくらいには。
(……あ、それなら……これだったらいい…?)
ベッドの上でゴロゴロと寝転がりながらひたすらに悠斗への恩返しの仕方を考え続ける咲の口元は、いつの間にか本人が自覚するでもなく笑みを形作っていた。
無意識のうちに形成された笑顔が何を意味しているのかは、まだ当人も分からないまま時間は過ぎていき…彼女の心は、出会ったばかりの少年への複雑な感情で埋め尽くされていたのだった。
 




