第一〇〇話 咲の頑張り
『そういえば悠斗、さっき何か言いかけてた。何言おうとしてた?』
「…この位置は継続なんだな。いや、大したことでも無いけど…」
咲の想定外もいいところな行動によって悠斗の理性は大きく削られていったわけだが、何とかすんでのところで欲を抑え込むことには成功した。
…なお、その後も何度か咲に『やっぱりこの座り方は直さないか?』と提案はしてみたのだが…まともに取り合ってはもらえなかった。
それどころか無理に引き剥がそうとすれば触れ合うのが嫌だと解釈されてしまったのか、涙目になられて危うく泣きだされるところだったので…大人しく受け入れる以外の選択肢は実質存在していない。
加えて、何が情けないかと言うと…悠斗自身もこの状況に少なからず幸福感を感じてしまっているということだ。
しかしそこに関しては見逃してほしい。
何しろ好意を持っている少女から、向こうはそのような感情など欠片も抱いていないだろうが…こうも接近した距離感を維持されているのだ。
…一般的な男子高校生として、好きな相手との距離を縮められたりなどすれば嬉しく思ってしまうのは至極当然のことだと思っておきたいというのが本音である。
誰に言っているのかも分からない言い訳だ。
まぁ今はそこは置いておいても良いだろう。
ともかく咲によって縮められた距離感云々も意識してしまえば悶えたくもなるが、どうあっても引き剥がすのは無理だというのも分かり切っているので諦めて問答に答えよう。
「ほら、もう少しで冬休みも終わるだろ? だから時間が過ぎるのはあっという間だよなって言おうとしてたんだよ。それだけだ」
「…………」
「ま、この休み期間中は色々なことがありすぎたからな…その分だけ時間の流れも忘れてたってことか」
『悠斗は…学校が始まるの、嬉しいと思う?』
「うん?」
彼女から問われたのは先ほど彼の方から口にしかけた発言で、されど彼女の突飛な行動により遮られたもの。
だが内容はわざわざ言及されるほど大層なことでもなく、単にもう少しで終わってしまう冬休みを思って内心を吐露しかけただけだ。
しかしやはり、こうして振り返ってみるとこの年末年始は明らかに盛り沢山に過ぎるイベントが織り込まれ過ぎていた。
クリスマスや大晦日はまだ良いとしても、正月からあのような騒動が巻き起こるなど夢にも思っておらず…ましてやそこで自身の想いを自覚するなどそれこそ予想外。
結果的には全て丸く収められたからこそ良かったものの、一つでも道を間違えていればこんな結末には間違いなく至っていなかった。
だから少し感慨深くなりつつも、今目の前に座り込んでいる少女の姿を視界に収めつつ記憶を思い起こして…彼女から再度向けられてきた質問に不意を突かれた。
「学校かぁ…それなりかもな。休みが来るのは素直に嬉しいと思うけど、授業がないと復習とかも進められなくなるから退屈だし。咲は嬉しくないのか?」
「…………」
咲の問いは再び始まろうとしている学校、あるいは授業の再開をどのように思うかといったものであり、会話としてはかなりありふれた部類だろう。
なので悠斗も少し考えて返答したわけだが、彼の意見としては学校が始まるのはそれほど悲観するような事態でもない。
日頃から勉強をする習慣があるからというのも大いに関係しているのは否定できないが、日課として授業の復習をするのが癖になっている身としては休みばかり続くと次第にやることがなくなってしまうのだ。
…本来ならこういった時にこそ外に出かけてみるとか、友人との遊びを満喫するべきなのだろう。
しかし残念なことに悠斗には遊びに誘えるほど親密な仲にある者は少なく、最も距離を近くしていると言える咲もどちらかと言えば休日は家で過ごしたいというタイプ。
よって、それらの要素を総合して言えば授業の日々が帰ってくるのは多少憂鬱でこそあれど心から拒否するほどのことでもない。
むしろ退屈な時間が減ってくれるので嬉しかったりもする。
ゆえにそう咲にも伝えれば…どうしてか彼女は複雑そうな顔を浮かべるばかり。
もしや彼女は存外にも学校の再開を喜んでいなかったか。
そう思い、こちらからも質問を投げかけてみると…何とも悩ましげな顔でこう言われる。
『違う。学校が始まるのは別に嫌じゃない』
「…そうか。それにしては悩むような顔してたけど…」
『……ただ』
「ただ?」
『学校が始まったら…こうやって悠斗と二人でいられる時間が減っちゃう。それは少し…残念だって思った』
「……っ!」
…そう告げる咲の顔は、何とも悲しげで。
しかしその言葉に反して、語る言葉はどこまでもいじらしい可愛さを抱えていたがために…半ば不意打ち気味の一撃を食らった悠斗は言葉を詰まらせる。
悠斗と過ごす時間が減ってしまう。確かにそれはそうだ。
今までは休みが続いていたので当然だったが、咲と悠斗はほぼ一日中同じ空間にいたと言っても過言ではなかった。
ただそれも学校が始まってしまえば必然的に彼らだけの時間は減少し、顔を合わせる時間は放課後のみに絞られるだろう。
けれどまさか…咲までもがこの二人で過ごす時間を、大切に思ってくれているとは想像すらしていなかった。
それこそ、悠斗でさえ思わず驚かされてしまうほどに彼女の落ち込みようは明らかだったのだから。
「…まぁ、そこは仕方のないところだからな。でもそんな落ち込むほどの事でもないと思うぞ?」
「………?」
「ほら、確かにここで過ごす時間は減るかもしれないけどそれでもやり方次第で時間なんていくらでも増やせるんだ。それに、俺だって咲がここに居てくれるのは…嬉しいからさ」
「…………!」
…だからこれは、これからの生活を思って気分を沈めてしまった彼女のフォローも兼ねた言葉。
彼との時間が減少してしまうことを残念がっている、何とも可愛らしい理由でテンションが落ち込んでしまった彼女に対して悠斗も言葉を掛けたのだ。
そうすればその選択はどうやら間違っていなかったらしい。
先ほどまでの雰囲気とは一転して、彼の言葉に目をキラキラと輝かせながら満足げに鼻を鳴らしていた。
『なら、これからもここで悠斗と一緒に過ごす。それに…頑張らなくちゃいけないから』
「……頑張る? 何を頑張るって言うんだ?」
「…………」
悠斗が放った言葉によって彼女の機嫌も回復していったらしく、浮かべられた笑みからはすっかり咲も元通りのテンションになっていた。
向けられた携帯に並べられた文字からも、その意思が垣間見え…そしてそこで、彼女の頑張るという発言に引っ掛かりを覚えた。
別に問い詰める必要もないかと思ったが、主語が無かったために真意が分からず無意識に質問してしまった。
すると…咲は何故だかばつの悪そうな顔になって曖昧な言葉を向ける。
『……まだ、悠斗は知らなくていい。少なくとも今は気にしないで』
「そう言われると余計に気になるんだが…なぁ、一体何を───…もごっ!?」
「…………!」
飛ばされてきた言葉は何かを誤魔化そうとしているようで、その態度がいやに気になってしまった悠斗は思わず追及を深めてしまう。
そうこうしていると、おそらく…その深追いがアウトだったのだろう。
それまでは悠斗に背を向けながら対話に応じていた咲がいきなりこちらに振り向き、その小さな掌を彼の口に押し付けてきたのだ。
…まるで悠斗の言葉をそれ以上続けさせないようにするかのような行動。
物理的に喋れなくさせてくるとは思っていなかったので不意を突かれたが…何かが彼女の琴線に触れてしまったらしい。
『…気にしなくて、いい。ただ私が頑張るっていうだけだから』
「そ、そうか……まぁそれなら、頑張ってくれ。応援してるよ」
「……………」
「…何だ、その明らかに納得してない類の目は」
『…………別に』
態度からも動向からも、これ以上深掘りをするのは双方にとっても良くないというのは流石の悠斗でも察した。
であれば気になることは事実だが、無理に探りを入れるのも悪いと考え直して彼女の頑張りとやらを応援する方向に思考をシフトさせていった。
……しかしながら、そんな彼の言葉にどこか複雑そうな感情を宿していた咲の表情が納得いかなかったのは当然のことだと思う。




