プロローグ
自宅。そこは何者にも侵されない不可侵の空間であり、他のどんな場所よりも落ち着いた時間を過ごせる場所。
かくいう少年、この家に住んでいる水上悠斗も普段は学校やらなんやらで張り詰めていた空気から解放されるこの場所を何よりも好んでおり、今もその休息を全力で満喫している……はず、だったのだが……。
「…なあ咲。やっぱりこの体勢はおかしくないか?」
「……?」
現在進行形で悠斗の目の前……というか、膝上に座っている小柄な少女に現状への疑問を投げかければ、肝心の彼女は「何を言っているのか分からない」とでも言うようにコテンと首を傾げるばかりだった。
…彼女の行動の突発さには大分慣れてきたと思っていたのだが、どうやらまだまだ上があったらしい。
「いくら何でもこんなんじゃゆっくり過ごせないし……流石にちょっと離れて…」
「……っ!? ……!」
「…いや、そんな必死にしがみつかれたら尚更動きづらいんだが…」
こちらの方からさりげなく離れるように進言すればさしもの彼女と言えど納得して膝の上から降りてくれるだろうと思って口にしたのだが、効果は真逆だったようでむしろ離れてなるものかと主張するかのように胸に手を回して位置を固定されてしまった。
…本当にどうするか。今は何とか冷静さを必死に保って気にしないようにしているが、悠斗だって健全な男子高校生だ。
その小さな体躯に重ねるように、咲は見た目からして相当な美少女であると断言できるくらいに容姿は整っている。
そんな可愛らしい少女が自分に抱き着いてきているというシチュエーションで、何も感じずにやり過ごせると思うか? …自分なら無理だ。
現在は全力で心臓の高鳴りを抑えて隠してはいるが、それもいずれは限界がやってくる。
それに、悠斗の内心以前に状況だってそうだ。高校生男子の家に同い年の女子がやってきているという状態だけでもまずいというのに、こんな姿を見られれば周囲に誤解を生むだけでは済まないだろう。
だからこそなるべく早いところで離れてほしいと申し出たのだが……そう言えば彼女は離れてなるものかという強い意思を感じさせる力を発揮しながら彼の身体にしがみついてしまっている。
…一応両親は共働きで家に帰ることもほとんどないし、悠斗には兄弟もいないのですぐにこの状況を見られる心配はないだろうが…それでも万が一ということもある上に、そもそもこんなことをしているという事実の方が問題だろう。
「…咲。何でそんなにしがみついてくるんだよ。お前だって男子にくっつくのは嫌だろ?」
「………」
悠斗が諫めるような口調で今も尚力を込めている咲に声を掛ければ、どうしてか彼女は全身からムッとしたような雰囲気を発しながらスマホを取り出して何か文字を打ち込み始める。
その反応が気にかかったので打ち込みが終わるまで待っていれば……そう長い時間も経たないうちに画面をこちらに向けて見せつけてくる。
『悠斗にだけ、特別』
「…はぁ。あのな、そういう言い方するのは止めとけ。勘違いされても知らないぞ」
示された画面に表示されていた短い文言。
その内容はひどくシンプルで、非常に誤解を招きかねないものだった。
…実際、その文字を見た瞬間にこちらもそこに隠された意図を勘違いしそうになってしまったので、そういったことを止めるように忠告すればこれまたなぜか咲は不機嫌そうにジト目を向けながら悠斗の胸に頭をぐりぐりと押し付けてくる。
「お、おい。どうしたんだよ。そんな頭を押し付けても撤回はしないぞ?」
「……!」
非常に不満そうな態度を隠そうともせずに頭を押し付けてきていた咲だったが、それも無意味だと悟ると今度は作戦を切り替えてきたのかただひたすらに無言で見つめ続けるという策を打ってきたようだ。
…だが、そんな程度で意見を引っくり返すほどこちらも甘くはない。
あくまで彼らの関係性が友人というものである以上、適切な距離感を維持することは重要なことなのだから。
「まぁとにかく、あまり密着するのは控えてくれ。…でないと、これから一緒にいるのも難しくなるかもしれないぞ?」
「…!?」
その一言は咲にとっても少なくないダメージを受けるものだったのだろう。
背後に雷でも落とされたかのようなショックを受けたことが目に見えて伝わってくるほどに目を見開いていた彼女だったが、それもしばらくすると咲は若干涙目になりながらこちらの顔を見上げていた。
「い、いや。今のはあくまで例え話だからな!? 絶対離れることになるってわけじゃないからな!?」
「………」
「…あー、その…俺も咲と一緒にいるのは嫌いじゃないから、少なくとも今はそんなことをするつもりはないよ。……これでいいか?」
自分から離れてくれと言っておきながら何を口にしているのかと思われそうなものだが、いくら何でも泣かれてしまうとは予想もしていなかったので焦って妙なことを口走ってしまった。
…だが、咲の方はその言葉で多少は安心できたようで、今度は嬉しそうな雰囲気を漂わせながら頭をぐりぐりと押し付けてきた。
(…どうしてかね。まさかここまで懐かれるとは思ってもいなかったんだが……)
咲のしたいようにされるがまま思い返すのは、つい最近の出来事。
彼女と出会い、こうして話すようになり……妙に懐かれてしまった経緯だった。
その始まりは、およそ数か月前にまで遡る。
無口な咲と、そんな彼女を何だかんだで受け入れてしまう悠斗による物語。
どうぞご覧あれ。