その3
意識が遠のく。
このままだと死ぬかもしれない。
だけど。
だけど。
このまま死ぬわけにはいかない。
弓月セロリは脇腹を抑えながら顔を歪めると揺れる視界の中で空を見上げた。
「このまま死んだら……君が……捕まる。さ、くら……君が……」
それだけは
セロリは力を振り絞って血文字を壁に書きかけた。
が、一瞬苦悶の声を零して目を見開くとそのまま指を滑らせてパタリと倒れ込んだ。
薄暗い路地の一角。
少し先の通りでは店の灯りが通りを明るく照らし、他愛無い雑談の声と共に人々が行き交っていた。
隼峰宰の事件
7月に入り気温は一気に高くなった。
6月の中頃に襲われた神田川むさしも約一か月の入院を経て漸く退院することが出来た。
が、退院直後に彼が訪れた場所は東京の繁華街の一角にある路地であった。
西村山金太は隣で立って現場検証をしている神田川むさしを見ると
「悪いな、退院早々」
と言い
「まさか、退院で迎えに行ってそのまま現場になるとは俺も昨日までは思ってなかった」
と告げた。
神田川むさしは肩を竦めて
「しかたねぇだろ、これが刑事の仕事ってやつだ」
と言い
「ところで隼峰には? 声を掛けているのか?」
と聞いた。
「奴にしては珍しく一か月以上も東京にいるんだ、協力してもらって楽をしねぇとな」
西村山金太は苦笑して
「確かに」
と答え
「もう中島に連絡しているから来るだろう」
と告げた。
その直後に背後から声が響いた。
「来てますよ」
そう言って隼峰宰は路地に姿を見せて壁を見ると
「ダイイングメッセージが残ってますが……何かあったんですか?」
と告げた。
壁には震えて書いたような血文字があった。
『はらじ』
そう書かれていたのである。
それに西村山金太は頷くと
「ああ、そのメッセージの件は通報と同時に連絡があって調べたらガイシャに時々曲の依頼を出していたプロダクションの人間だと直ぐに判明した」
と手帳を開きながら告げ
「原島修二というプロデューサーで長野亜弓と山科桜という二人を会社から任されているんだがアリバイがあったんだ」
と答えた。
「弓月セロリの方は午後8時から1時間ほど発見現場の近くの駅前の広場で路上ライブをしていてね。その様子をスマホで撮っている人がいて提出してもらった。その時の彼は元気だったよ。つまりそれから血を流して倒れているところを発見される午前0時までが犯行時間だ。二人とも昨夜は夕方から朝まで長野亜弓とスタジオに詰めてて新曲のレコーディングをしていたそうだ。防犯カメラにも二人が入る姿と朝に出ていく姿が映っていた。その間に人が出入りしている様子はなかった」
宰は頷いて
「なるほど」
と答えると、周囲を見回した。
昼間でも薄暗い路地の中に立ち宰の瞳が元々の漆黒が色を失って透明へと切り替わっていく。
そこで映るのはその場で起きた衝撃的な出来事である。
それは大抵近時の犯罪でそれを見ることが出来るのである。
宰は暫く立ち尽くし、やがて、瞳の色を黒く戻すと腕を組んだ。
いつにない様子に神田川むさしが
「どうした? 見えなかったのか?」
と聞いた。
宰は首を振ると
「いえ、見えました。犯人は男性です」
と告げた。
「あの、その原島修二という人物に会わせてもらえますか?」
神田川むさしと西村山金太は顔を見合わせ頷いた。
その時、西村山金太の携帯が震えた。
西村山金太は「わるい」というと携帯に出た。
「あ、今現場に神田川と来てる」
と告げて、目を見開き
「え? は? ……ああ、わかった」
と答えて携帯を切ると同時に視線を向けた神田川むさしと宰を見て
「山科桜という女性が自首をしてきた」
と告げた。
神田川むさしはチラリと宰を見た。
宰の既視に間違いはない。
だが。
「自首とはな」
と呟いた。
宰は少し考えて
「被害者の弓月セロリさんは既に怪我をしてました。壁の文字は二度目に刺される寸前に書いていたので……恐らく犯人の顔を見て書いたわけではないと思います」
と告げた。
それには神田川むさしと西村山金太は「「は??」」と声を零した。
宰は腕を組み
「その辺りが俺にも分からなくて……なので、彼を刺した男性は原島という人物ではない可能性があったので合わせてもらいたいといったんです」
と告げた。
神田川むさしは少し考えて
「つまり、最初に刺したのが山科桜で彼女は自分が殺ったと思い込んで自首してきたと……それでもう一人男で他にいると……それでこの壁の文字は……犯人を見た被害者が書いたというわけでも、犯人が原島に罪をかぶせるために……というわけでもないと」
と頭を傾げた。
宰は頷いた。
「はい、俺から見れば刺される前に書いていたので被害者が書いていましたね。何故書いたかはわかりません」
神田川むさしは西村山金太を見ると
「おい、被害者の傷だが腹の傷と背中の二か所だけだったな?」
と確認した。
西村山金太は頷いた。
「ああ、医師の見解はそうだ」
神田川むさしは息を吐き出し
「ということは、最初に山科桜が刺して、次に原島修二が刺して、ここで更にというわけではないな」
と言い
「とにかく先に原島修二のところへ行くか。ここで刺した奴が原島かどうか確認しておけば方向性が決まるからな」
と告げた。
宰は頷いて
「ありがとうございます」
と答えた。
三人は規制線が張られた現場を出ると原島修二が昨夜もいたという浜松のスタジオ21浜松へと向かった。
そこはゆりかもめの竹芝駅から少し戻った場所にあり、ゆりかもめに沿って走る481号線に面して出入口があり横手と裏手には劇団四月の専用の劇場があり更に奥に行くと川を挟んで浜離宮があるごちゃごちゃとした都会の雑ビル街ではなくどこかすっきりとした倉庫街の一角という雰囲気のある場所であった。
しかも劇場の荷物の搬入などに利用されるようで建物同士の間の道はかなり広かった。
近くにあった駐車場に車を止めて三人はスタジオ21浜松の中に入ると出入口のところについているカメラに目を向けた。
宰は小さく
「この映像ですね」
と呟いた。
西村山金太は「ああ」と答え、受付の窓口に行くと警察手帳を見せて
「すみませんが、原島修二さんがこちらに見えていると聞いたのですが」
と告げた。
受付の女性は緊張気味に
「あ、はい」
と答えると
「第二スタジオを利用されているので少々お待ちください」
と内線をかけた。
宰はそれを横目に外へ出ると外周を回り始めた。
建物は四角の建物で3階建てであった。
それぞれの部屋には窓が無いようで各階に廊下の端に窓が一つずつある作りのようであった。
つまり横手にそれぞれ窓があり、裏には窓が無い状態であった。
宰は窓を見上げて
「しかも同も天井が高いみたいだな。しかし、劇場の大道具や物品などを入れるのに良く使われているみたいだな」
と踵を返してその先にある裏の劇場の搬入口を見て呟き、一周して戻ると扉の前に神田川むさしが立っており「見終わったか?」と声を掛けてきた。
宰は頷き
「はい、すみません」
と言い、中へ入り目を見開いた。
長身の男性が立っており頭を下げた。
「初めまして、原島修二です」
と言い、西村山金太が定型の質問をすると溜息を零して
「何度も言いますが、そもそも俺が弓月さんを刺す理由がないですし……それにもしそうだとして、俺の名前の書きかけがあったら普通は細工したり消そうとしたりするでしょう」
と答えた。
通常はそうだ。
犯人がダイイングメッセージで名前を書かれたら消すだろう。
そう言っているのである。
だが。
だが。
宰は目を細めて唇をきゅっと結んだ。
神田川むさしはそれを一瞥して
「こいつか」
と心で呟くと
「それでその弓月セロリさんなんですが彼は発見現場に近い駅前の広間で午後8時にスマホで録画されているんです。そして発見されたのが少し離れた路地で午前0時なんですが、その間はどうされていたかお聞きしても?」
と聞いた。
原島修二は平然と
「アリバイってやつですね」
と返した。
神田川むさしは笑むと
「まあ、関係者には皆さん聞いてますから」
と返した。
原島修二は頷いて
「それなら今日と同じここの2階のスタジオでレコーディングしてましたよ。それこそ彼から頂いた曲をね。関係は良好でしたから」
と告げた。
西村山金太はメモを取りながら
「確かにこの入口の防犯カメラには映っていませんでしたね」
と告げた。
原島修二は笑顔で
「でしょ? このスタジオの出入り口はここしかありませんし裏口もない」
と答えた。
「一階は奥にも窓が無いですから」
つまり完ぺきということを言外に告げたのだ。
が、宰は
「あの、今日と同じ部屋でレコーディングされていたんですよね? もしよければ見せていただいても良いですか?」
と告げた。
原島修二は頷くと
「もちろん」
と答えると三人を連れて三階へと上がった。
エレベーターがあるがそこにも防犯カメラが付いていたが、宰がそれを見て西村山金太を見ると彼は首を振った。
映ってなかったということである。
三階はスタジオが一つだけでそこでレコーディングしていたということであった。
中に入り宰は「彼女は?」と声を零した。
音響のコンソールがあり、大きな窓ガラスの向こうで女性が立っていたのである。
原島修二は笑むと
「あの日も一緒にいた長野亜弓です」
と告げて手で彼女を呼び寄せた。
長野亜弓は隣の部屋から戸を開けて入ってくると
「初めまして」
というと
「まだ警察の人が来ているんですか? 犯人は山科さんですよ、きっと」
と告げた。
それに神田川むさしは「ほー」と業とらしく声を零して
「確かに少し前に彼女が自首してきましたが、何故?」
と聞いた。
長野亜弓は笑むと
「だって、彼女少し前から『曲を貰えない』ってセロリさん恨んでたもの。セロリさんは彼女より私を選んで曲を書いてくれたってことを言ったら凄い怖い顔してたから」
と告げた。
「きっと恨んで刺したと思って」
彼女は椅子の上に置かれた数枚の楽譜の一つを手にして見せると
「ほら、セロリさんがこれをくれたんですよ? 私に何ですけど山科さんはそう言う意味では気の毒かな? 見捨てられたみたいで」
と告げた。
宰は目を細めてスマホを出すと
「それですか」
と写真を撮った。
「セロリさんの手書きですよね?」
原島修二は息を吐き出して
「止めなさい、亜弓ちゃん。一応、彼女は君と同期じゃないか。それに彼女が売れなかったのは俺のせいでもあるからもしそれが原因なら俺にも責任があるな」
と告げた。
「ああ、そう、それは弓月さんの手書きの楽譜で彼の楽譜は何時も手書きなんですよ。まあ、亜弓ちゃんにばかり曲を送っていたことが山科さんを追い詰めたのなら俺から一言弓月さんに言っておくべきだった。惜しい人を」
それに宰はあっさり
「弓月さんは亡くなってないですよ?」
と告げた。
「いま意識不明ですけど集中治療室で治療を受けています」
それに原島修二と長野亜弓は目を見開いた。
神田川むさしは冷静に
「かなり危ないですが……発見が早かったので今は重体です。ニュースでは既に亡くなったように報道されていますが彼は生きています」
と答えた。
原島修二は笑むと
「それは良かった。てっきり……ニュースで路上で刺されて発見されたとながれていましたし警察の方も皆さん色々聞きに来られたので安心しました」
と告げた。
宰は携帯をしまうと
「あ、俺は先にちょっと失礼します」
と外へ出て廊下の端から端まで歩いた。
廊下もドン突きにそれぞれ窓があるだけである。
宰はドン突きの窓を開けて
「きっと何かトリックがある」
と呟いた。
「けど、あの部屋には長い紐もなかったし降りられるものが何もない」
だからと言って飛び降りるには危険な高さである。
少しして神田川むさしと西村山金太が姿を見せた。
神田川むさしは宰の横に立つと
「ここから降りた方法か」
と告げた。
「背中を刺したのは奴なんだな?」
宰は頷いた。
「ええ、間違いなく」
そう言って
「証拠も持ってますよ。彼らは気付いてないですけど」
それに二人は目を見開いた。
宰は息を吐き出すと
「しかし証拠の証明がね」
と言い、原島修二が来ると口を噤んだ。
三人はそのままスタジオを出ると駐車場へ戻り車に乗ると警視庁へと戻った。
自首をしたという山科桜のことも気がかりだったからである。
山科桜はユーチューバーからメジャーデビューした女性歌手でその曲はユーチューバー時代から弓月セロリが作っていたという話であった。
三人が警視庁に戻る頃には捜査本部では裏どりを行っていた捜査一課の面々が情報を持って行き交っていた。
西村山金太は神田川むさしと宰に
「神田川、彼を連れて資料室の方へ行っておいてくれ。俺は帳場に寄ってて新しい情報が入っていないか聞いてから向かう。一応、報告しておかないといけないしな」
と告げた。
神田川むさしは頷くと
「わかった」
というと宰を連れて警視庁の資料室へと向かった。
宰は小さく笑って
「資料室なら馴染みなのでわかりますよ」
と告げた。
神田川むさしはアハハと笑って
「確かに」
と言い
「だが、勝手には入れないからな」
とビシッと告げ
「まあ、色々資料室の方が都合は良いんだ。なんせあそこは情報の集積場だからな」
と付け加えた。
確かにそうである。
調書。
捜査の時に取得された遺留品などが集められているのだ。
そして。
宰と神田川むさしは同時に
「「邪魔が入らない」」
ということであった。
二人は資料室に入るとパソコンの前に座り西村山金太を待った。
神田川むさしにしても退院しての直行だ。
これまでの情報を全て持っているわけではない。
ただ。
宰は神田川むさしを見ると
「そう言えば、先ほど山科桜という女性が自首してきたと言っていましたけど……警察は彼女を犯人として見るんでしょうか?」
と聞いた。
宰は既視で犯人は原島修二だと分かっている。
だが、その能力を信用しているのは神田川むさしと西村山金太くらいである。
神田川むさしは冷静に
「まあ、重要参考人だな」
とさっぱり答えた。
「彼女の供述と食い違いがあれば調べることはする」
抑えた言い方である。
つまり『一応調べることはする』程度の重みしかないとも受け取れる口調であった。
神田川むさしはニッと笑うと
「探偵ってのは案件一つにかける時間はお前の胸先三寸だ。だが警察は違う。ただだからと言って冤罪を生むような効率は禁忌だ」
と答えた。
「そこが難しいところなんだ。どちらにしても公判を維持できる状態でなければならないから裏どり、証拠固め、まあ、9割行けるとなるまで調べるって事さ」
問題は
「自首してきて本人が自分が犯人だと思い込んでいる場合が一番厄介だ」
宰は息を吐き出して
「なるほど、本人が反意を覚えない限り公判が維持できてしまうからですね」
と告げた。
神田川むさしは頷いた。
「そういうことだ」
その時、扉が開き西村山金太が入ってきて書類を宰に渡し
「これが現場検証の報告書と弓月セロリが路上ライブをしていた時のスマホの映像だ」
と言い、携帯を置いて再生をした。
神田川むさしは動画を見始めた宰を一瞥して直ぐに西村山金太を見ると外へ出て
「それで山科桜の事情聴取はどうだ?」
と聞いた。
西村山金太は手帳を見ながら
「全面的に認めていますが、長野亜弓が言ったようにユーチューバー時代はずっと曲を貰っていたそうですが、プロダクションに入ると同時に曲を貰えなくなってプロダクションの方も売れない彼女を解雇するという話を原島からあって絶望して行ったそうです。自分は見捨てられたということで目の前で死のうとしたら止められて揉みあいになって誤って刺して震えていたら『絶対にアイドルにするから大丈夫だからいけ!』と弓月の方が立ち去ったそうです。そのまま彼女は暫く座り込んで家に帰ったそうです」
と告げた。
「それが今朝のニュースで少し離れた路上で刺されたところを発見されたとみて自分が過って刺した傷だと思って自首してきたということです。刺したのは脇腹だけだと言ってました。二度も刺してないと言ってます」
神田川むさしは「だが」と呟いた。