【Vol.09】
いわゆる猫ボラとよばれる人間の動物保護団体が、区民公園に一斉捕獲をかけている。
公園の野良猫が増えると近隣の猫嫌いの住民から苦情がくる。彼らが保健所を使って駆除という名の大量虐殺に乗り出す前に、先手をうって野良たちを保護して家に連れ帰ろうという作戦である。宵の口に始まり、明け方までの一晩で行われる。街路灯には覆いをかけての闇の中。一匹また一匹と野良たちが捕らえられて叫び声をあげる。人間ならではの道具や技術のおかげで公園の猫たちがほぼ捕まり、待機していた車で次々に動物病院へと運ばれていく。猫たちはこれから人間の手で、健康診断とワクチンと不妊手術を施され、里親探しをされる流れになる。
アリスたちは樹上に潜み、成り行きを見守っている。ボラ側と住民側のどちらであろうと野良に危害をくわえるようなら第三の勢力として攻撃をかけるためである。株式会社インモラル。人間の利には供しない。猫の利だけを守るゆえ、人間にとってはさぞ不道徳で邪魔な存在だろう。
アリスのPSG1。翠のサバイバルナイフ。桃のアイスピック。佐倉のダーツ。機動班と輸送班もいる。公園の樹々のそこかしこに陣を張り、スタンバイしている。
雪は中央のいちばん高い樹上にいる。すべてを統括して指揮を出す、コントロールセンターとなっている。
一匹また一匹と捕まるたびに、野良たちは鳴く。恐怖と絶望の声をあげて大暴れする。助けてやりたいのはやまやまだがアリスたちは我慢する。幸せな飼い猫になるための通過儀礼と信じ、野良たちの未来を祈っている。
そして最後の車が走り去る。
近隣住民の襲撃がなかったことに安堵をしつつ。インカムからの雪の指示を受け、戦闘モードを解除して地面へ降りていく。
手分けして、公園を見回る。
こうした作戦ではどうしても時間との戦いになるため、野良の取りこぼしがある。おびえて逃げて物陰から出てこず、捕獲できなかった野良たちである。
アリスたちは手分けして、取りこぼしを探す。
やはり今回も、いる。
公衆トイレの裏、鍵のかかった防災倉庫の奥に逃げ込んでいる。人間たちには手が届かないところに潜んでいる。
しかも大怪我をしている。作戦のせいではなくその前に負っていた怪我で、すでに虫の息でいる。
運輸班の猫が倉庫の扉の隙間から侵入し、怪我した野良を運び出す。
担架に乗せて、行きつけの動物病院へと急ぐ。
物陰から物陰へ。
ひそやかな行軍の最中に、三木が駆けつけてくる。
アリスがおどろく。
「どうして来たんだ。おまえレスキュー室員じゃないだろう。寝てていいのに真面目だな」
青い顔して三木が言う。
「勉強で、この時間はいつも起きてます」
「うん」
「雪さんから連絡がありました。赤いピアスをつけた猫をみつけたと」
三木、アリスたちをかきわける。
担架の怪我人をのぞきこむ。
「やっぱり。…陽子!」
動物病院、待合室。
手術室の扉が開く。
医者は沈痛な面持ちでいる。
長椅子で待っているのはアリスと、腕に抱かれた三木のみ。他の猫らはひとまず引き上げている。
医師がふたりを入院室へ招き入れる。
陽子はペットシーツが敷かれた金属のゲージに寝かされていて、腕には点滴がついている。
闇の中では金色にみえていた薄いベージュの毛皮で、耳にピアスがついている。不妊済の猫にピアスをつけて未手術の猫と見分けがつくようにする地域もあり、おそらくはそのピアスだろう。ルビーに似た石がついていて、ベージュの毛皮によく似合っている。
まだ麻酔が効いている。弱々しい呼吸で胸の毛がふわふわ揺れながら、目を閉じていて意識がない。
医師が言う。
「しばらく入院してください。手術は成功してますが、助かるかどうかは正直わかりません。本人の体力次第です」
アリスが無言でうなづく。
明け方の緊急外来というのにこんな大変な手術で手を尽くしてくれたことに礼を述べ、入院室を出ようとする。
そのとき、陽子が薄目をひらく。
そこに三木がいるのをたしかに認識している目。
ただ、状況はわかっていないのだろう。夢の中にでもいるつもりだろう。
三木を見て、嬉しそうな色をうかべる。懐かしそうな、愛おしそうな。
そしてその顔が、悲しみでクシャッと歪む。
「あ…」
たしかに彼女は声を発した。
三木はアリスの腕の中から、ゲージの柵へと手をのばす。
胸がはりさけそうな目で、陽子の手をそっと握る。
けれど陽子の手は、握りかえしてくる力はない。
そのまま意識が落ちて、眠る。
何事もなく昼の業務をこなしている三木。
コールセンター室のすみっこで、穏やかに微笑んで、莉々の練習の相手をしている。
作戦のある夜はミミとネネを預けてもらえるので、莉々はむしろゴキゲンでいる。トーク練習もいつもよりスムーズに流れている。
莉々がマニュアルの読み込みをしている時間は、三木は自分のアカウントへログインし、人事の業務をこなす。
莉々が何か質問したそうな上目遣いで三木を見ると、視線に気づいて三木が答える。
かすかにザワつく気配はあるけれど。
誰も何も聞かない。あのベージュの猫は誰なのか、なんて。好奇心で誰かを傷つけるような猫はここにはいない。
佐倉がときどき心配そうな目をして階下から上がってきて、三木の様子をのぞくだけである。
静かな夜がやってくる。
いつものように三木が深夜の勉強をしている。
今夜のBGMは、ラジオのクラシック番組らしい。ネット配信のものをオペレータ用のヘッドセットで聴いている。
資料に没頭していた三木、ふと気配を感じて顔をあげる。
そばに佐倉が立っている。
差し入れのコーヒーを三木のデスクに置き、となりのチェアに腰かける。
淹れたてだろう。とてもよい香りが漂う。
せっかくのお気持ちを片手間に飲んでは申し訳ないですねと笑い、三木は資料に栞をはさんでデスクへ置く。
優しい沈黙。
佐倉へというよりはここの全員へ言っているような、どこか遠い声で、三木が言う。
「陽子のことを何も説明しなくて、すみません」
気にしないで、と佐倉が答える。
言いたくないことを無理に聞き出す無神経な猫はここにはいないから、と。
ありがとうございます、と笑って三木は目を伏せる。
コーヒーが香る。
三木へというよりは自分自身へのように、やがて佐倉が口をひらく。
「愛していたの?」
三木は目を丸くする。
けれど答える。
「今も愛しています」
それは素敵、と佐倉が目を細める。
三木も目を細める。
「誰かに本気で恋をするのは、怖くなかった?」
「何も考えていませんでした。ただ真摯であろうと努めていました」
「それで、真摯でいられたの?」
「いいえ。私は妻を守れませんでした」
「そう…」
「練馬にいた頃です。私たちはマンションの中庭に住んでいました。自分で小動物も狩りましたが食事をくれる住民もいました。ある日その中庭に、植木屋の伐採が入りましてね。私たちの家は粉々にされました。陽子はパニックを起こして暴れて植木屋につかまりました。私の戦闘力では植木屋に勝てませんでした。陽子はダンボールに詰められて、どこかへ捨てられました。その頃は不妊手術も済んでいて、陽子の耳にはピアスがありました。あの日から私はずっと陽子を探して旅をしていました。赤いピアスの女を見たという噂を聞いて、新宿へ流れてきました。見かけたら教えてほしいと雪さんには頼んでありました」
「いつか会えるって信じていたのね」
「陽子は不妊手術前、私の娘を死産しています。信じていてもいなくても、彼女を探す以外に生きる道がありませんでした」
「大変なことを聞いてしまって、ごめんなさい」
「いいえ、ありがとう。私も誰かに話したかったのです」
コーヒーの湯気ごしに、ふふ、と三木が笑う。
佐倉も、ふふ、と笑う。
「あたしは、怖いのかな?」
「愛して傷つくことがですか?」
「何に対してなのか。それすらも、わからないわ」
「わからないこと、経験したことがないことは、それ自体が怖いことです。誰かの愛を受け入れられずにいるのだとしても、ご自分を責めることではありません」
「三木さんは優しいなぁ。あたしも三木さんみたいな人を好きになれればよかったのにね」
「光栄ですが、私は退屈な男です。佐倉さんにはもっと牽引力のある男性のほうがお似合いかもしれません」
三木がまるで父親のような慈しみの目で微笑む。
あなたにはかなわないわと、佐倉が泣き笑いのような顔をする。
コーヒーの香りが、夜に溶けていく。
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