【Vol.24】
夜の水生物館。
裏手は葦があたり一帯を覆い隠している。
かきわけて進み、ただの石がはまってるだけにみえる崖壁に触れると、壁が左右にひらく。
アリスと雪の先導で猫たちがぞろぞろと吸い込まれていき、やがてふたたび壁が閉じる。
何もなかったかのように、ただ葦が揺れている。
そこはまるで水中庭園のよう。
体育館の倍ほどあるフロアの、天井が強化ガラスになっている。
井の頭池の底が、ガラスの天井いっぱいにひろがっている。
月の光が水に反射して、まぶしい。
きっと昼間も晴れた日は、照明がいらないほど明るいのだろう。
アリスが嬉しそうに言う。
「猫はな、自分の体内でビタミンDが作れない。太陽を浴びて毛皮でビタミンDを作ってる。だから日向ぼっこしろっていつもお願いしてただろ。でももう今日からは、危険なお外に出なくていいぞ」
こんな社屋を作るのが夢だった。びっくりさせたくて内緒にしていて、ごめん、と笑う。
知っていたけど皆には知らないふりをしていた雪が、含み笑いをしている。
幸せいっぱいのアリスが愛しくてならない目をしている。
地下一階。はるかな遠くまでコールセンターのブースが並び、最新の設備が猫たちを待っている。
桃と梅子も嬉しそうにしている。
ここを守るのは大変だろうが頼りにしている、とアリスに言われ。
任せてよね、と。兄妹そろってよく似た自信たっぷりの笑顔をみせる。
地下二階に降りる。
旧社屋とそれほどは変わらないが、新たにティールームや仮眠スペースや自習室などが作られている。
アリスが両手をひろげて皆を案内していく。
「ブラックブラックいうけどさ。勉強って楽しいじゃん。知らないこと知りたいし、できないこと練習したい。昨日とちがう自分になれると充実するよね。やりたくない猫に強制はしないけど、やりたい猫を応援するのも私の仕事じゃないのかな」
だからさ、とアリス。
三木をふりかえり、そしてみんなを見渡して。
「美味しい紅茶とハーブティーをそろえたよ。三木さんの他にもやりたいことがある子は教えてほしい。会社の仕事につながらないことでもいいから、サポートさせてほしいんだ」
数匹の猫が好奇心いっぱいで、「旅行にいこう」と札のかかった部屋をのぞく。
そこにはVRを含めたオンラインシステムが充実したブースが並んでいる。国会図書館や美術館などの貴重な資料がいくらでも見られるようになっている。もしかしたら一部は違法ハッキングかもしれないが、置いといて。
目をきらきらさせて猫たちがブースに群がる。ひとつのブースに数匹がもぐりこみ、ローマ観光地の風景や、カーネギーホールの交響楽団の演奏を楽しんでいる。
にこにこして翠が来る。
「俺のは?」
にこにこしてアリスも答える。
「あっち!」
何が欲しいか、聞かなくてもわかる仲。
指をさされたほうへ翠が飛んでいって扉をあける。
そこはトレーニングルーム。筋トレだけでなく射撃やアーチェリーや格闘技の設備もある。
狂喜の翠。
さっそく遊びはじめる背中へアリスが言う。
「教則ビデオはVRで見れるからな」
地下三階に降りていく。
レスキュー室と社長室。各班のスペースは以前の倍ほど広くなり、保護した猫のための救護室などが増えている。
おお、と雪が感激したよう。図面では見ていたが、実物を目の当たりにするのは実感が異なる。
照れくさそうにアリス。
「いつも苦労をかけてて、ごめんね。前よりはマネジメントが楽になると思うよ」
ふふふ、と目をかわして笑い合う。
フロア一番奥が、社長室。
扉をあけはなしてアリスが入っていく。部屋の手前半分は、幹部会議用のミーティングスペースになっている。
アリスのデスクには、モニタ、端末、各社へのホットラインの短縮が登録済の電話もある。デスクの背中にはブラインドがかけられていて、その奥には雪と一緒に仮眠がとれる大きなソファがある。
社長室の椅子にかける。
そうだ忘れていたよ、とアリス。
受話器をとる。
短縮を押す。
ペルソナ本社。
BPO法人戦略部、フジワラ部長のデスクの電話が鳴る。
外線である。
発信者の名前が表示されている。
山田一郎。インモラルの社長名。
フジワラが硬直する。
雇ったダイバーからは何の連絡もない。
なぜこいつが生きている。しくじったのか。
まさか。
俺の進退は。
一瞬であらゆる思惑が頭をかけめぐる。
電話のコール音が鳴りつづける。
フジワラ、ついに意を決して受話器をとる。
何度も聞いたことがある女児のような声が、地獄からの亡霊に感じられる。
『お世話になっております。来期の更新が近づいてきていますので、ご挨拶にあがりました。これまでどおりの契約締結でよろしいのですよね?』
声は女児だが中身はオッサン。前々から不気味に思っていた。
ぎこちなくフジワラ、やっとの思いで声を出す。
「こちらこそお世話になっております。条件に変更がなければいつものように、電子契約書をお送りいたします」
受話器のむこうの空気が、ふふっ、と笑ったのを、たしかに感じる。
この世のものではないような。冷たい気配。
『…どうかなさいましたか、フジワラさん』
時計を見ると、丑三つ時。
ダイバーからの連絡を待っていた自分、社長業をしているインモラル。どちらも真夜中まで仕事するのは珍しくはない。だが少なくともペルソナ側の回線は、定時後は外線がつながらない設定になっているはず。
なぜ、つながった?
フジワラの背中を滝のような冷や汗が流れていく。
小さな女児の手が受話器を置く。
アリス、ふふんと笑う。
あんなやつらとまだ取引を?
と怪訝な顔をしている幹部たちへ。
「ペルソナにはまだ利用価値がある。ベルベットとの取引が主軸になるまでは、せいぜい利用させてもらうよ。おたがいにな」
種はふたつ蒔いとくもんだ、と。
そして。
各フロアを点検してまわってから社長室へ集まった、幹部一同へ。
ミーティングスペースに座るよう指示する。
「いい機会だ。今後の社の方針も発表しておく。さっきベルベットリンク社から取引拡大の連絡があった」
わっと一同がわく。日ごろの成果が誰かに認めてもらえるのはとても嬉しい。
うんうん、とアリス。
「ただ、さらなる販路拡大と同時に、別事業も興したい。知ってのとおりAIが爆発的発展しているおかげでコールセンター事業は急速に市場縮小している。今後はますます小さなパイを各社で奪い合うことになる。むろん積極的に入札に参戦するが、事業の種も、ふたつ蒔きたい。弊社の設備やトークスキルを生かせるセカンド事業を今後も模索していくので、思いついたことがあったらぜひ提案してほしい」
了解、オーライ、任せてね、と。幹部一同が応えてくれる。
明日に備えて、幹部たちが出ていく。
ついにきた、雪とふたりきりの時間。
もふもふの毛皮を抱きしめたくて、雪のほうへ。
だが。
瞬時にアリスは雪の肩越し、社長室の外、フロアのかなたに、とあるものを見る。
鬼の形相で社長室から、すっ飛んでいく。
「…貴様ぁ!」
あ、やべ、の顔してコソコソと猫の背中に隠れようとする者は。
莉々。
しかしそんなデカい図体が猫で隠せるはずもなく。
あっというまに駆けつけるアリスに怒鳴られる。
「出てけ!」
莉々、恨めしそうな上目づかい。
アリスがブチギレ。
「おまえのせいで大損害だ。御苑の旧社屋、おまえが壊した!」
翠がまぜっかえす。
まあまあ、となだめるように。
「もともと引越予定だったんだろ。ちょっと引越日が早まっただけじゃねぇか」
アリスは引かない。
怒りで顔が真っ赤になる。
「佐倉が怪我した。おまえのせいだ!」
佐倉がすこし困り顔。
自分の肩を見て、ぺろりと手術テープをはがす。
「あたしは血も止まったわ。アリスが莉々を殴った数はこの百倍よ。なのに莉々ってアリスにはやり返さないのね。オトナだわぁ」
ぐっ、とアリスが詰まるが、不満は爆発。
新築の床を靴で踏み鳴らす。
「いっぺん裏切ったやつなんか信用できるか。この新社屋まで潰されない保証がどこにある!」
ぱしん、とアイスピックの音がする。
うるさい社長だねぇ、と人を見下した目で。
「直属上司は桃だしぃ。もしまた莉々がしでかすんなら桃の責任だよねぇ、本人よりも」
佐倉の胸元から、ミミとネネがふわふわ浮いてくる。背中の羽根をちたぱた羽ばたいて。
莉々の肩にとまる。
仔猫の瞳がアリスを見る。
じっと。
(りりたん、わるいこ)
(りりたん、だめなこ)
(でも…)
仔猫がそろって顔の前で肉球を結び、アリスへ「おねがい」のポーズ。
誰から教わったのか知らないが、神の授けた悩殺ポーズ。
ふんがー!
とアリスが憤りのあまり爆発する。床にひっくりかえって手足をバタバタさせて大暴れである。
しかし誰も聞いちゃいない。
話は終わったとばかりに幹部たちはそれぞれの持ち場へ散っていきつつ。
全員の目が雪へ注がれる。あとはヨロシク、と。
雪が目でみんなへ応える。あとは引き受けました、と。
そしてアリスの襟首をくわえる。
社長室へ。
雪がアリスを引きずって消えていく。
閉まる扉のすきまからのぞく雪の目が、悪戯っぽくウインクする。
朝までの安らかな眠りを、どうか邪魔しないでくださいね、と。
誰もいなくなったフロア。
莉々が取り残されて、呆然としている。
てっきり放り出されると思っていたのに、なぜまだここにいるのか自分でもわからない。
莉々の肩を、三木がポンポンする。
「人事部にいらしてください。試用期間が終わりましたから正社員としての入社手続が必要です」
憧れていたお父さんに似ている横顔で。
穏やかに微笑む。
「丸の内の大企業より、うちのほうが楽しいですよ」
もし少しでも楽しんでいただけましたら、
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本エピソードで完結です。
お付き合いくださり、ありがとうございました。




