【Vol.21】
ここからは、独りきりの戦いだ。
莉々は泳ぐ。ゴーグルのおかげでだいぶ楽に進めている。
一階は鉄砲水をもろに浴びたせいか設備の損傷がひどい。端末もオフィスファニチャーも、みんな流され、跡地には土砂が堆積している。
魚たちはここに滞留しているらしい。たくさんの鯉が怪我もなく優雅に泳いでいる。あとでここを人間が調べたとしても、奇妙なミニチュアがどこかから流され運ばれてきただけと思うだろう。
莉々たちが暮らした痕跡はあとかたもなくなっている。
フロアはすべてが水に沈んだわけではない。部屋の天井、調度の上部などに、かなりな空気がたまっている。
泳ぐ。
鯉たちに挨拶されながら、莉々が美しいフォームで水をかきわけていく。
エレベーターの扉をあける。
こじあけたとたんエレベーターの箱に水が流れ込む。
勢いをつけて水圧かけたせいか、箱や鉄骨がぐしゃりと潰れる。ただの鉄くずとなり、もうそれがエレベーターだったとは思えないほど歪んでいる。
水がエレベーターに激しく流れているあいだ、莉々はそばの手すりにつかまり、流れには逆らわず、激流をやりすごす。
やがて流れが安定する。水が流れ切ったのだろう。
莉々はあたりを見回す。
下へ降りたい。
息が詰まってくると天井へあがり息継ぎをする。
そしてまた潜る。
どこかにあるはず。突破口。
あると信じて探せば必ず見つかる。
いままでだって、ずっとそうして生きてきた。
独りきりで戦ってきた。
息継ぎをしようと水を掻く。
上を見る。
池底が割れ、裂け目から光がこぼれる。
きらきらした粒子が莉々の腕にあわせて流れる。
それはあまりにも神々しい色彩で。
ゴーグルの内側に涙がこぼれる。
この美しい場所を壊したのは、自分だ。
泳ぐ。
階段への扉はある。だが水圧のせいで開かない。
他にルートはないか。
見回す。
キャビネットがぶつかったらしく床にひび割れがある。
おそらくそこからチョロチョロと水が階下へ落ちているらしい。
もしやと思って見つめる。
手すりにつかまり待機する。
莉々の足首には金属チェーンがついている。動物病院のそばの公園で、アリスにやられた。柵と足首をつながれた。チェーンは石で叩き割って脱出したが、ちぎれた三十センチほどが足についたままでいる。これを手すりに絡め、ボディバッグから外したカラビナ使って固定する。どんな激しい流れがきても制御できるよう、体が壁に叩きつけられたりしないように。
やがて水圧に耐えかねたひび割れが。地鳴りとともに大きく割れはじめる。
滝のように。
床が、底が抜ける。
巨大な鉄砲水が発生する。
意識が遠くなりかけている。
酸素がなくて死ぬかと思った。
がらんとしたフロア。
床は大破していて、ないも同然。
魚たちはさすがに水のプロだけあって、フロアの流れ溜まりに避難できたらしい。
莉々は天井で息継ぎをしてから、地下二階へと潜っていく。
新宿中央公園。
スタバの屋根がみえる樹上から、アリスが指揮する。
いつもならそばにいる雪が今は別動隊にいる。アリスも独りで戦っている。
ニュースはあいかわらず四谷襲撃テロ事件を報道している。中南米のテロ組織が関与しているなどとトンチンカンな憶測を有識者コメンテイターとやらが得意げに語る。
ばっかじゃね、とアリスはつぶやき、あぐらかいてる膝に置いたアイパッドを見る。
ふいにアリスのアイパッドに電話の着信がある。
アリスの目が輝く。
ひとつふたつ話をして、にんまりと満面の笑みで通話を終える。
インカムに語る。
「三木さん、聞こえてるか」
ここにおります、と三木の声。
「こんな時に私用ですまんが話をさせてくれ。病院から連絡があった。陽子さんの意識が戻った。もうすこし容態が安定したら、同じチェーンの吉祥寺院へ転院する」
インカムに聞き入っている三木。
背後の幹線道路では大きなエンジン音をたててトラックが走っていく。
三木の顔が、かつて見たこともないほど幸せそうになっている。
各班の動きがアリスのアイパッドの地図を流れる。
街はまだ厳戒態勢で、すべての幹線道路は検問が敷かれている。レンタカーで区外へ出るのは無理だろう。
インカムへ指示。
「三班、バスの状況は?」
班長から返答がある。
「満車です。テロ事件を受けて帰宅する人間が大勢いるようです」
一時的にだが震災と似たような交通状況かもしれない。バスもタクシーも大幅増員して混雑解消にあたっているようだが追いついていない。
三班の班長が大声を出す。
「空いてるのが来ました。続けて三台来たのでエアポケットができたみたいです!」
「よし乗れ!」
運転手からは料金箱の下は見えない。
乗客の足のあいだをすりぬけて、猫たちが一匹また一匹とバスに乗る。
上品そうな年配女性が猫に気づいて、踏まないようにと慎重に足をどける。猫が乗ってもいいのかしらと不安そうな顔をしながら。
年配女性がバス最後部の座席へ行く。
するとそこには猫がいる。十匹ほど。後部座席を占領し、おじゃましてますと申し訳なさそうな風情で彼女を見あげる。
年配女性は後部座席の前に立つ。
他の乗客がびっくりしないよう、彼女の体で猫たちをガードする。
猫たちは吉祥寺で降りていく。
最後の猫が、彼女へペコリとお辞儀して消える。まるでお礼でも言っていたような雰囲気で。
アリスがインカムへ。
「七班、状況は?」
班長から返答。
「武蔵野方向行きが見つかりません」
「わかった」
アリスの瞳が銀色に光る。千里眼。雪がいないのでそれほどの威力はないが、幹線道路の状況くらいはわかる。
七班は五匹ほど。国道四号にまたがる歩道橋にいる。通行人に踏まれないよう端っこで一列になって、国道を見下ろしている。
班長のインカムにアリスの声。
「後ろからくる緑の幌のトラック、わかるか?」
「わかります。やたら電飾ついててギラギラしてるデコトラですね。演歌歌手の名前と虎の絵が描かれてる、ものすごく、なんというか、派手な」
「そう」
「…」
「わがまま言わない。あれ乗るの!」
しぶしぶ了承する班長の声。
歩道橋から猫たちが、ふわりふわりとデコトラの幌に着地していく。
その横をホームレスの爺さんが、自転車で大八車をひいていく。いつもなら収集した空き缶を積んでるのだろうが今は缶はない。かわりに猫が二十匹ほど乗っている。すこし汚れているが毛布が敷いてあり、猫たちは快適に揺られている。
爺さんはゴキゲンで鼻歌を歌っている。
「なんでぃ、おまえさんから何かねだってくれるだなんて、めずらしいじゃねぇかぁ!」
爺さんのすぐ後ろ、大八車の一番前には、十一班の班長がいる。
爺さんと目をかわして楽しげでいる。どうやらふたりは仲良しらしい。
大八車が保育園の前を通りすぎていく。
保育園の庭のすみっこに、幼児を公園へ連れていく手押し車がある。まだ上手に歩けない子が迷子にならないよう、大きなカゴに十人くらい乗せて押すもの。
カゴには十匹ほどの猫が乗っている。
公園へ行く赤ちゃんみたいに遠足気分のゴキゲンな猫たち。
幼児が群がってカゴを押そうとしている。
ネコタン、ネコタン、と大喜びの幼児たち。
手押し車にカワイイがてんこ盛り。
何事かと保育士さんがあわてて園庭へ出てくる。
そばの道路から梅子の声。
「そっちじゃありません。こっちの車に集合してください!」
猫たちは梅子の声を聞き、いっせいに手押し車から消える。
さびしそうに指をしゃぶる幼児を抱っこして、保育士さんがポカンとしている。
莉々が泳ぐ。
ようやく地下三階。天井で息継ぎをしながら素潜りと探索をくりかえす。
社長室のパーテーションをこじあける。それほど水に強い素材でなかったらしい。ふやけた壁面は簡単に破ける。
天からの光はもうほとんどない。空気も少なくなってきている。
それでも社長室の奥で積みあがったダンボールが浮島のようになり、人ひとりが休めるくらいの酸素と休憩スペースを作ってくれている。
ひと休みして、また潜る。
ついに金庫を掘りあてる。開錠ナンバーは知る必要もない。貴重品もなければ莉々以外には泥棒もいない世界。最初から鍵はかかっていない。
扉をあけると金の鍵が浮いてくる。
水中でつかむ。
上からのかすかな光を頼りにゴーグル越しによく見る。はっきりはしないが他に鍵はない。間違いない。絶対に失くさないよう、チェーンとカラビナで自分の腰にくくりつける。
浮上する。
水音をたてて天井へ出て、水面に顔を出す。おもいきり深呼吸をしてダンボールの浮島に手をつく。
そこに。
人がいる。タカハシ。ウエットスーツに棒状の簡易酸素ボンベを手に持って。遅かったな待ちくたびれたよ、と。
莉々は浮島に手をついたまま、上がることもできない。
「よこせ。その汚い鍵じゃねぇ。情報だ。やつらは吉祥寺の、どこに行くんだ?」
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