第9話「棄てられし遺都、その名は」
上へと落ちるような、左右に昇るような錯覚。
五百雀千雪は、愛機である89式【幻雷】改型参号機のコクピットで不思議な感覚に襲われていた。まるで自分の全てが内側へと開かれるような、裏返されるような。形容し難い時間は一瞬で、そして永遠にも感じられた。
七色の光に包まれた千雪の改型参号機は、その輝きが弾けると同時に外へ出た。
機体の豪腕が抱える【シンデレラ】と一緒に、ゆっくりと地面へと降りてゆく。
「ここは……? 衛星データ、イルミネート・リンク……ッ!? ネットワークが」
先程、【シンデレラ】と一緒に次元転移に巻き込まれたせいだろうか?
改型参号機のコンピュータは、人類同盟所属の全兵器が連なり繋がるネットワークとの回線を失っていた。無線やGPS、IFFの類、こちらからのビーコンも全てネットワークを介して行われる。
現在の地球上で、パンツァー・モータロイドのコンピュータが停止するなどありえない。
何重ものセキュリティを持ち、相互に複数の回路で補完しあっているシステムが、停止した。辛うじて機体制御の機能は動いているが、今の千雪は突然の放浪者……この場所がどこなのかもわからない。
「とりあえず……統矢君。れんふぁさんも。そちらは……【シンデレラ】は大丈夫ですか?」
先に地面へと脚をついて、改型参号機が大地に立つ。
すかさず千雪は操縦桿を握って、あとから降りてくる【シンデレラ】の機体を支えた。Gx感応流素を介して、千雪の繊細な操作が改型参号機のラジカルシリンダーを静かに動かす。そっと手を添える【シンデレラ】の重量は全く感じられない。
やはり先程、御堂刹那特務三佐が口走った言葉は本当のようだ。
重力制御……今の【シンデレラ】は1G下での質量を忘れているようだ。
そして、ふわりと着地する【シンデレラ】のコクピットから、ノイズに満ちて聞き取りにくい声が流れ出る。こうして接触していれば、装甲同士の共振を利用した通信は生きていた。
「大丈夫ですか、統矢君! れんふぁさんは無事ですか? あの」
『ちょ、ちょっと待てれんふぁ! いや、暴れるな……た、頼むっ! お、おい、尻を押し付け……早く俺から降りろっ!』
『ふええ、統矢さんっ! 離れてくださいいいいいっ! なんでわたしのお尻に、お尻に……ヘンタイさんなんですか、統矢さん!』
千雪の無表情が、五割増しで無機質に凍ってゆく。
甘い吐息で鼻から抜けるような声の更紗れんふぁが、もぞもぞとコクピットで暴れる音が聞こえていた。れんふぁは今、裸のほうがどれだけ健康的に見えるだろうか、という雰囲気の薄布を……否、細紐を身に纏っている。
そして、どうやら暴れるれんふぁの下に摺木統矢は押し潰されれいるようだった。
「……れんふぁさん、コクピットではちゃんとハーネスを装着してくださいね」
『ふえ? ああっ、千雪さんっ! よかったぁ、なんか突然【シンデレラ】がピカー! って、ヴイーン! って。そしたら、突然、こんな場所に』
『おい、いいから俺の顔から降りろ! 千雪、ここは? 座標を確認してくれ。なんてことだ、クソッ……俺たちはもしかしたら、人類で初めて次元転移を体験してしまったかもしれない。なあ、れんふぁ! 重いんだよ、頼むよ』
なんだか、面白くない。
すっごく、面白くない。
ぷぅ、と頬を膨らませて唇を尖らせると、千雪は眉間にシワを寄せながら機体を操作する。ゆっくりと身を屈めた改型参号機は、片膝を突いて停止した。
コクピットのハッチを開けば、外の風は湿っている。
空は黒い雲が低く垂れ込め、曇天は稲妻の閃きと共に泣いていた。
真昼なのに薄暗くて、まるで夜の中に出たようだ。だが、まだ昼過ぎの筈……ここが日本皇国ならば。次元転移は空間を飛び越え、遥か遠くからの瞬間移動だと科学者たちは定義している。つまり、ここが東西どちらかのロシアや中国、そしてアメリカや欧州という可能性もあるのだ。
「夜……ということは、ここは海外なのでしょうか」
独りごちて千雪は、ゆっくりと隣を振り返る。
コクピットのハッチに立つ彼女の横で、ぎこちない操作ながら【シンデレラ】も身を屈めた。そしてよろけて地面に両手を突き、そのまま蹲るように両膝を屈する。四つん這いの格好で停止した【シンデレラ】の、その鮮やかなトリコロールカラーが今まで立っていた空間が顕になる。
そして、【シンデレラ】が遮っていた景色が、千雪の目に飛び込んできた。
呼吸も鼓動も、止まった。
強くなり始めた雨の中、雷光瞬くその中にフラッシュバックする風景。
それは……千雪たち日本皇国の人間ならば、誰でも知っている場所だった。
「こ、ここは……もしや、ここは」
改めて千雪は、機体の周囲をゆっくりと見渡す。
二機のPMRが並んで停止したのは、大通りの真ん中だ。嘗て行き来していたであろう車両の数々が、あちこちにひっくり返って散乱している。まるで幼児が苛立ちひっくり返したおもちゃ箱のようだ。
そして、並び立つビル群はどれも崩壊し、歪な尖塔と化して濡れていた。
見渡す限りの廃墟、そして廃都。
破壊の限りに暴力が吹き荒れたであろう、その場所こそは――
改めて千雪は、再び先程の遠景へ目を細める。
轟音を響かせ嵐が近付く中、落雷に浮かぶ赤い鉄塔……それは醜悪に捻れて曲がり、まるで飴細工のように半分溶け落ちている。間違いない、百年以上前に建てられた古い電波塔だ。
「東京、タワー……では、ここは。ここは、遺都……東京」
――遺都、東京。
嘗ての日本皇国の皇都だ。二千万人の都民が息衝く、この地球でも有数の経済と流通のジャンクション。誰もが憧れた先進都市は今、見る影もない。
それもその筈、この場所は滅びて遺棄され、封印されたのだ。
西暦2092年、日本皇国へのパラレイドの初の本土攻撃で、この場所は壊滅した。死者一千万人以上を出した未曾有の大襲撃……セラフ級こそ襲ってはこなかったが、次元転移で現れたパラレイドの大軍は、瞬く間に栄華を消し去った。
灼かれて燃え落ち、放棄された街……東京は誰にとっても親しい者たちの墓標だ。
日本皇国元老院は皇王と議会の承認を得て、新たに廣島の呉を第二皇都へ移した。パラレイドとの恒常的な戦争状態は、日本皇国から既に首都を再建するだけの国力を奪っていたのだ。
世界は、地球人類はもう……戦う力以外を生み出すことができない。
それが悲しいまでに今の時代の現実だった。
「ここが本当に東京ならば……少し厄介なことになりそうですね」
千雪はヘッドギアを脱いで、濡れた空気の中に黒髪を掻き上げる。
同時に、隣の【シンデレラ】のハッチが開いて、蹲る機体から一人の少年が落ちてきた。
「痛ッ! こら、れんふぁ! なんで怒ってるんだ、蹴飛ばしたな? ああ、見ろっ! ズブ濡れになったじゃないか。と、兎に角、お前も降りてこいよ。ほら!」
立ち上がった統矢は、濡れた学ランを気にしながらコクピットを見上げる。彼が手を伸べると、高さ2m程で真下を向いてしまったコクピットから、白い脚が現れた。統矢が優しく手を添え支えてやると、もう片方の脚が遠慮なく彼の頭を踏む。
そうしておっかなびっくり外へ出てきたれんふぁは、寒さに震えながら周囲を見渡した。
「こ、ここは……あれ? わたし、この場所を知ってる……? どうして、記憶が……うっ! あ、頭が」
「おい、れんふぁ? 大丈夫か? 寒いよな、ちょっと待て。おい、千雪!」
統矢はすぐに上着を脱ぐと、それを肩も顕な半裸のれんふぁにかけてやる。己を抱くようにして頭を抱えてしまったれんふぁは、気の毒なくらいに顔面蒼白だった。
すぐに千雪もコクピットから降りると、二人へと雨の中を駆け寄る。
そして、震え出したれんふぁを真っ先に抱き締めた。
「大丈夫ですよ、れんふぁさん。私がついてますから」
「千雪さん、わたし……わたし! ここ、知ってる……ここは、うう、っあ! あ、うう……ここは、この場所は」
「無理しないでください、れんふぁさん。思い出さなくてもいいんです、今は生き延びることを考えましょう。このままでは風邪を引いてしまいます。どこかで雨風を凌がないと」
千雪が抱き寄せたれんふぁは、胸の上に顔を埋めて震えている。まるで、なにかに怯えて慄いているようだ。なにがこうも、れんふぁを戦慄させるのか? 彼女の中で蘇ろうとする記憶とは?
だが、それよりも今はサバイバルが優先だと千雪は心に結ぶ。
統矢を見やれば、彼も大きく頷いてくれた。
「千雪、ここは……俺にもわかる、わかるぞ。ここは東京……嘗ての皇都。皇国の臣民なら誰でも知ってる。ここが……パラレイドに滅ぼされた街」
まるで自分に刻み込むように、その言葉を統矢は重々しく呟く。
自分の中で出血する心の傷へ、乾いて塞がることを許さぬかのような響きだ。
パラレイドに故郷の北海道を消され、最愛の幼馴染を奪われた少年……摺木統矢。
そして千雪は、改めて気付かされる。
彼はやはり、更紗りんなに惹かれていたのだ。
目の前の惨状を見て、また統矢の瞳が暗く燃える。奈落の深淵のように闇に満ちて、曇る空より夜の天よりも暗く暗く、燃え滾る。統矢本人にすら向けられているであろう、憎悪に満ちた眼光の源は、やはりれんふぁと瓜二つな故人、りんなだ。
りんなとの死別を認めて受け入れ、過去に別れを告げた統矢。
彼の中でまだ、その喪失感だけはリアルな今の全てなのだろう。
そんな彼の横顔を見やれば、不思議と千雪は豊かな胸の奥が疼痛に軋る。そして、その胸に顔を埋めて泣き出しそうなのは、りんなと遺伝子的に繋がりがある謎の少女……れんふぁなのだ。
「よし、このままいても埒が明かない。見ろ、千雪……れんふぁも。あの建物、まだかなり大丈夫そうだ。ちょっと見てくる、瓦礫の落下や天井の崩落なんかも危ないからな」
「あ、統矢君」
「れんふぁのこと、頼むぜ? れんふぁ、ちょっと行ってくるからな……寒いだろうから、千雪とコクピットに入ってろ、な?」
四つん這いの【シンデレラ】を屋根にしながらも、肌寒さが這い上がってくる。冷たい雨が降りしきる中へと「っし!」と気合を入れて、統矢は走り出していった。その背中が、雨に煙る中へと消えてゆく。
彼が走る先に、ボロボロになりながらも立ち尽くす巨大な建物があった。
あのライオン像が鎮座する玄関は、千雪も知っている有名な百貨店の気がする。だが、買い物客で賑わっていた過去が嘘のように寂れていて、石の階段は砕けて割れていた。
統矢の背中が百貨店の中へ消えると、千雪は改めて抱きしめる腕に力を込める。
震えるれんふぁの体温を閉じ込めるようにして、優しく頭を撫でる。
長身の千雪より小さなれんふぁは、ようやく少し落ち着いて顔をあげた。
「さ、れんふぁさん。統矢君が戻るまでコクピットに戻りましょう。ここは寒いです」
「う、うん。ごめんなさい、千雪さん……わたし、千雪さんに助けられてばかり。統矢さんにも」
「統矢君は優しいですから。凄く、優しいんですよ? いつも買い食いする時は、なんでも半分にして小さい方を私にくれます。荷物だって軽い方を持ってくれるし、愛機の、97式【氷蓮】の修理で行き詰った時なんか、都合いい奴がいたとばかりに私に声を……あら?」
「ふふっ、千雪さんて統矢さんのこと、凄くよく見てるんですね。でも、わたしも知ってます。統矢さんて、最初は怖かったけど……とても、優しい男の子だなって」
頷き千雪は、少し濡れたれんふぁの髪を撫でる。
だが、ぴたりと身を寄せてくるれんふぁの柔肌が、密着の距離で伝えてくる体温が無性に心細い。弱々しく笑ったれんふぁの不安を、千雪はどうにか払拭できないかと考えるのだが……残念ながら、今は抱き締めてやるしかできない。
「千雪さん、わたし……わたしたち、次元転移? しましたよね」
「ええ。【シンデレラ】自体が、れんふぁさんを乗せて先の戦いで次元転移して現れた機体です。だから不思議はないのですが……驚きました」
「わたし、わたし……千雪さん、わたし。知って、るんです……覚えてる。思い出せない記憶のどこかで、わかってる。千雪さん、次元転移って、本当は次元転移って――」
近くに雷が落ちて、その閃光が不安げなれんふぁの顔に陰影を刻む。
遅れて轟いた音の中で、千雪はれんふぁの言葉を拾い損ねた。
唇を震わせれんふぁは、確かに言った。
本当は次元転移は――
だが、その言葉の意味を聞き返そうとした時、Tシャツ一枚の寒そうな半袖姿が戻ってきた。その手は今、全く似合わぬ上品なベージュ色の雨傘をさしている。
「悪ぃ、待たせた! あの中、割りと大丈夫そうだ。とりあえず、移動しよう」
「統矢君、それ……」
「ん? ああ、ちょっと拝借してきた。中はグチャグチャなんだけど、なんかデパートだったみたいでさ。雨宿りの傍ら、探せば食料や飲水も確保できるかもしれない」
「私の改型参号機に、サバイバルキットが積んでありますが」
「【シンデレラ】は実験用にアレコレ機材を繋げてたからさ……積んでないんだ、サバイバルキット。それに、れんふぁも入れて三人じゃ、あっという間に食べ切っちゃうぜ」
「私は少しで大丈夫ですが……」
「なに言ってんだよ、すげえ食うだろ、お前。いつも見てて、感心する程に食うからな。それに……今後もなにかある、ありそうだからさ。サバイバルキットは温存して、現地調達。これ、サバイバルの鉄則だろ? な? ……なに怒ってるんだよ、千雪」
気付けば千雪は、また頬を膨らませてむくれていたらしい。
無表情のジト目で統矢を眇めるが、彼は悪びれた様子もなく、千雪が何故不機嫌になったかもわからないようだった。
そして、首を捻る統矢を振り返って、ようやくれんふぁが笑顔になる。
「な、なんだよ。千雪が怒って、れんふぁが笑って……俺、なんか変なこと言ったか? いやあ、こいつすげえ食うんだよ、れんふぁ。お前も知ってるだろ?」
「ふふ、いや……そうだなーって。でも、よく見てるなーって。わたしも、千雪さんの食べっぷりのいいとこ、好きです」
「……なんだか、私……恥ずかしい、です、けど」
れんふぁがようやく千雪から離れると、代わりに統矢が傘を押し付けてきた。
きっと、買えば数万円はしそうな高級品に見える傘だ。この時代、物価は上がって嗜好品は高く、逆に低下した文明力のせいか、生活必需品は品質や種類の低下とともに安くなっている。
千雪たち幼年兵の世代はしらない……嘗てこの日本皇国が、世界に名だたる経済大国だったということを。食べ切るより多い食品を生産して捨て続け、株価と証券でやり取りする見えない金銭が莫大な富を生んでいた。
全て、過去の話だ。
パラレイドとの戦いが始まってから、ゆるやかに日本皇国は世界と共に衰退した。
そして、この場所が……東京が壊滅して、それは決定的になったのだ。
「あっ! ……俺の分の傘も持ってくればよかった。いや、婦人用しかないからつい……そんなこと言ってる場合じゃないのにな」
「統矢君……」
「だからな、千雪……かわいそうな奴を見る優しい目はやめろって。お前、れんふぁとその傘でこいよ。俺、ひとっ走りして先に行ってるからさ」
そう行って統矢は走り出す。
自然とれんふぁの笑みが千雪にも伝染して、異変続きの緊張感が和らいだ気がした。
そして、れんふぁの意外な一言が千雪をドキリとさせる。
「ふふ、わたしってば少し御邪魔虫、かな? 統矢さんと相合傘だったらよかったですよね、千雪さん?」
「そ、それは……れんふぁさん、そういうこと言う人、嫌いです」
「だって、なんかわかっちゃったんだもん。千雪さんってぇ、ふふ、うふふふ。かわいいなぁ、千雪さん。わたしは好きだなぁ。千雪さんって」
「さ、行きますよ」
千雪は頬が熱く紅潮するのを感じて、プイと目を反らして歩き出す。
傘を持つ千雪の腕に、嬉しそうにれんふぁは腕を絡ませ、身を寄せて歩くのだった。