1-9 ここから先は土足厳禁です
「むぐもご、うー!」
くぐもった声にハッとして、手を外す。そんなに強く抑え付けていたつもりはなかったが、苦しい思いをさせてしまっただろうか。
「ようじ! ぎゃくたい!」
キッと眦を攣り上げて、リラは開口一番そう叫んだ。ご立腹だ。ごめん、と和馬は謝る。今度は心から。
「悪かったよ」
それでもリラは尚もお怒りの様子で続ける。
「ほんとうにそう思ってるの? 一番いいところでとめたりして……!」
「いやだってあんまり容赦なく言い立てるから」
「自分のしたことが、かえってきただけじゃない」
それはそうかもしれないが。
「向こうが納得しなくて腹を立てたら、リラに手を出してきたかもしれない。皆が賢く理性的に生きてる訳じゃないって分かってるだろ」
人付き合いは難しい。正論だけでは却って自分の身を危険に晒すこともある。責め立てるにも、程度を見極めなくてはならない。
「まぁ、あのポカンとした顔は見物だったけど」
ハトが豆鉄砲を食らったところを実際に見たことはないが、実演するとあんな感じの顔になるのかもしれない。
「ふん、いいきみだわ。おのれの愚かさにのたうちまわればいいのよ」
「お前、一緒にいた子のことも引き合いに出しただろ。今頃一緒に腹立つーって盛り上がってればそれで終わりだろうけど、下手したら仲違いの種になるかもしれない」
「だって見てた? とちゅうまではあっちの子もおもしろそうにしてたのよ。あのうるさい方の言うにまかせて。同罪よ」
それは見ていなかった。早々に嫌がって顔を背けてしまったと思っていたのに、和馬よりずっと周りを観察していたらしい。
「リラ、ありがとな」
不快感は示しても、和馬ならあんな風に言い返すことはできなかっただろう。多少過激さは感じたが、リラの並べ立てた数々の言葉達は、和馬だって返してやりたいものだった。あの女子がクラスメイトだったとして、明日から何を言われるのか言われないのかは分からないが、リラが言ってくれたことは和馬をスカッとさせた。どう思われたって構わない。
「べつに和馬のためじゃないわ」
けれど和馬の謝意に、リラは澄まし顔でツンとした声を返してくる。
「私はうるさくて、しつれいで、品のないものがだいきらいなの。ひどい騒音だったから、それに腹がたったのよ」
それはそうだろうが、本当にそれだけが理由だろうか。
この小さなお嬢様は気難しいところがあるし、好き嫌いは激しいし、決して和馬に懐いている訳でもないのだが、それでも心の柔らかいところで和馬のことを見つめてくれている。
「私は、和馬がべつにどういう人生をあゆんでいても、とくべつこだわりはないわ」
リラが訊ねてきたのなら、きっと和馬は答えただろう。
バイトは、将来の学費を貯めるために沢山していた。
実家は、ここからは電車で三十分以上かかる場所にある。
ちなみに家族は飲んだくれの家に居つかない父親が一人。母親は、和馬が小学三年生の頃に家を出て行った。
父は飲んだくれでもアルコール依存症ではないし、酒が切れてとか酔った勢いに任せて和馬に手を上げるなんてことは一度もしたことがない。ただ、あまり和馬に興味がないというか、親としての自覚にはかなり欠けている。
自分のことはできる限り自分でした方がいい、頼るべきは自分自身だと、早いうちから気が付いて、それを実践して生きて来たつもりだった。
リラが訊いてきたのなら、和馬はそれらを答えただろう。けれど、当の彼女は訊いてはこないのだ。
「どうでもいいとは言わないし、知っておいたほうがよいこともあるでしょうけど」
彼女の青い瞳に見つめられる。深い深い海の色。
相手は五歳児だ。そう思うのに、いや違うと気圧されてしまう。
「人と話をするときには、てじゅんがいるものよ。土足はげんきんなの。じょうしきよ」
彼女は和馬よりずっと思慮深く、沢山を知っている顔を時折する。