1-3 顔色の悪い不審者
「リ~ラ~」
「…………」
今日も朝からお嬢様は大層不機嫌だ。
「ほら、もう少しメープルシロップかけてやろうか」
スクランブルエッグ、プチトマト、野菜のポタージュにミニパンケーキ。
直径五センチくらいのひと口パンケーキを量産して、どうにか最短ルートで口まで運ばせようという作戦だ。
食事を嫌がるリラは、もちろん自分にとって不要と思っている行為に労力を割くことを嫌う。切って分けたり、食べにくかったりするものを出すのは愚策だ。あとは液体に比較的抵抗が少ないのを狙って、スープから栄養を補給する作戦。
「べとべとするからいらない」
鈍って来た手の動きを見て琥珀色の瓶を持ち上げたが、すげなくお断りされた。
「…………」
普通の子どもに効く小技が一切効かないのが辛い。
床には遥か遠く及ばないリラの短い足の揺れが、段々大きくなってきていた。これは苛立ちのバロメーターだ。そろそろぐずり出す。
「リラ、食後のジュースにしよう」
朝から消耗してもさせてもお互い辛いだけなので、和馬は戦略的撤退を決めた。半分ほど食べている。どちらかというとこれは快挙だ。
「ジュースとかいらないわ」
食後、という言葉にホッとした様子を見せたが、普通は喜ばれるジュースの提案にまた渋い顔。
「まぁまぁ、喉にもそもそした感じが残ってるんじゃないか? ここは一つ、洗い流すつもりで」
「和馬、グウェンは?」
言えばコップを手にはしたが、明らかに持て余しながらリラがそう問う。
「じーさん?」
ちなみにリラは和馬を呼び捨てにする。君とかさんとかお兄さんとか付けるように散々言ったが、
“どうしてグウェンの下働きをよびすてにしちゃいけないのよ”
と全く聞き入れられなかった。
何でも、序列を付けるとリラが一番偉くて、グウェンはその下らしい。だからグウェンの下で働く和馬はこの屋敷で一番立場が低いのだとか。
グウェンの方も自分よりリラが偉いと位置付けちゃってくれているので、宜しくない。
前世の話だろ、その理屈で言うと色んな人間が下の位置付けになるだろうし、そういうの教育上良くないぞと散々思ったが、この屋敷に和馬の考えを支持する他の誰かはいない。
まぁ攻防の果て、お互い呼び捨てで妥協することとなった。
ちなみに最初、リラを呼び捨てにすることに関しては、当の本人よりグウェンがとんでもないと反対していた。本当に疲れる。
「朝、へやにいったらいなかった」
「あぁ、何か用事があるからって随分早くから出掛けたぞ」
ちなみにそれを告げるためだけに、和馬は明け方起こされた。昨日の内に言っておいてくれという話である。
「ふーん……」
「ほら、それ飲んで。それでお終い。オレはそろそろ家出る準備しなくちゃだから」
他の食器を片付けるために手に取り、間に合うだろうかと時計を確認したところで、はたと和馬は動きを止めた。
リラをどうする。
リラは現在幼稚園に通っていない。社交性も大事だからゆくゆくは通わせたいとグウェンは言うが、それには最低限スムーズに食事を摂ってくれるようにならないと通う先で大変な苦労が発生する。今の状態ではなかなか難しい。
ということで、彼女は一日中家にいるのである。
「……今日は、休むか」
グウェンがいないのだ。そうするしかない。この屋敷に他に人はいない。和馬だけだ。
「どうして」
和馬の発言に、リラは小首を傾げた。
「どうしてってそりゃ、小さい子どもを一人家に残すような真似ができないからだよ」
当たり前だろ、と告げると、何故か憤慨された。
「私をそこらの五歳児といっしょにしないで」
確かに、リラは五歳にしては驚異的な語彙力を持っているし、知恵も回る。食事に関しては手を焼くが、分別もあるし、随分大人びている。五歳児にはあり得ない言葉、機知に富んだ返しを目の当たりにすると、和馬もリラの前世の記憶が~という話を信じるべきなのではとも思うほどだ。
「お前の中身がどれだけ成熟していようと、世間にとっちゃ等しくただの五歳児だよ」
「心外だわ。このからだは不便すぎよ」
「仕方ないだろ」
とにかく、グウェンがいないなら今日は高校には行けない。
事実リラが前世吸血鬼でその記憶を忠実に継いでいようと、身体は五歳児。できることが限られていれば、降りかかる危険だってそれなりにある。
「べつに、いいわよ」
ぴょん、と軽い身のこなしで椅子から飛び降りる。
「人間はがっこうに行ってべんきょうしないと、色々とたいへんなんでしょ」
そうしてぐいぐいと和馬の背中を押し出した。
「こらこら、何するんだ。物事には優先順位があるんだから、この場合はいいんだよ」
「食器も洗わなくていいわよ。はやく行きなさい」
「そういう訳には!」
いかんのだ、と言い差したところで、ふと異質な気配を感じて振り返っていた頭を元に戻し、
「!」
そこに燕尾服を着こんだ見知らぬ男の姿を見止めて、和馬は肝が潰れそうになった。
「不審者!」
「ちがうわよ」
反射的に叫ぶと、何故かリラが至極平静にそう返す。
「いや、どう見ても不審者だろ、不用意に顔を出すな」
影に立つようにひっそりと男はそこにいる。顔色は今一つ良くなく、故に目つきも何だか濁って見える。どこか陰鬱な空気を感じると言うか。
男はきょろりと眼球を動かし和馬をその目に捉えると、
「リラ様のお世話は私が」
とのたまった。
「いやいやいや、その前にお前は誰だよ」
「イザックよ」
詰問すれば、本人ではなくリラがそう言う。
イザックとは、つまり名前だろうか。確かに濃いグレーの髪に鈍い緑色の瞳には、太郎とか次郎よりもそちらの方がしっくりはくるが。
「なぁに? 和馬ったらイザックをしらないの?」
「知らないよ。今まで一度だってこの屋敷の中で見たことないぞ」
「必要がありませんでしたので」
今度はイザックなる男がそう答えた。
それは必要がなかったからこの屋敷に顔を出さなかったという意味が、今までずっと屋敷にいたのに和馬の前に姿を現さなかったという意味か。
後者なら、同じ屋根の下にいながら一切気配を感知できない何者かがいたことになる。普通に怖い。
「ほら、これでがっこうに行けるでしょ」
「いやいやいや、こんな得体の知れないヤツに」
「これはグウェンの眷属よ。だいじょうぶなの」
ぐいぐい太ももを押される。
「私に悪さができるようなものではないの」
イザックの方はいつの間に持ってきたのか、和馬に通学カバンを押し付けてきた。
「リラ嬢は安心してお任せを」
結局、和馬はリラに押し切られ家を出る羽目になったのである。