2-5 一進一退
「それ、もう冷めてて美味しくないだろ」
彼女が三分の一でもう嫌だと言い出したグラタン。
朝は量もそれほどではないので別個に作ってもらっているが、昼や夜は自分の分は基本的には用意しなくて良いとグウェンは伝えている。
昼や夜に食事を口にするとすれば、それはリラ嬢の拒絶したその残りだ。
彼女の食事への拒絶ぶりが想像以上だったこと、毎度毎度和馬が連敗していたこと、残された食事を見て、これをこのままにしておいたら早晩和馬の心が折れる方が早いなとグウェンは察知し、それからは残ったものは自分が責任を持つという形を取っている。
量は少なくとも構わないのだ。食べなかったところで支障があるものではないし。残り物を、という風にも思わない。
見知らぬ他人ならお断りだが、他ならぬ彼女からのものならグウェンには苦にならないどころか喜びと言い換えることさえできる。
「冷めていても、食べるに支障はないが」
「熱々が一番美味しい食べ物なんだよ。食事にはそれぞれ最適なタイミングってものがあるんだから」
せめて温め直すよ、と一度お皿を回収される。
ちなみに彼女は長い長い食事タイムの途中で、体力が限界に達してしまったらしい。寝落ちしてしまい、先ほどグウェンが私室まで抱いて運んで行ったところだ。
小さな身体には制限が多い。パワフルだなぁと思えば、すぐにそのパワーを配分お構いなしに使い切ってしまう。だが子どもは寝て育つとも言うし、眠るのも仕事のうちの一つだろう。
「最近思うに、あんまりこってりこっくり濃い味のものが好きじゃないのかもしれない」
しばらくして、和馬はグラタン皿片手に戻って来た。
「ホワイトソースとかチーズとかバターとか。ケチャップ、マヨネーズ、揚げ物、肉汁。そういうの、食い付き悪いんだよなぁ。子供向けのメニューは、ここで大抵淘汰される」
ほんのり黄色に色付いたとろりとしたソースは、湯気を放っている。
「あんまり出したことなかったけど、案外和食とかの方が良かったりしてな。出汁の、すっと入って来る感じの方が、飲み込みやすいかもしれない。明日から試してみるか」
時折彼女との攻防に疲れやさぐれた様子も見せる和馬だが、基本的には向上心が強い。めげない。作ったものを無駄にされるという意識より、美味しく楽しく空腹を上手く解消できない彼女の困難の方に心が寄っているのだろう。
和馬を見つけたのは本当に偶然のことだったが、幸運な偶然だったし、老いたとは言えこの人間を捕まえるべきだと直感した自分の勘は未だ馬鹿にできないものがある。
「その内に小学生になるからなぁ」
「小学生」
ポツリと零された和馬の発言には、ふと驚かされた。
「忘れてたのか?」
「そういう訳では」
ないのだが、そんなに間近に迫るものだという認識はなかった。
だが、時の流れは早いし、人間の子どもの成長はあっという間だ。きっと瞬きをしている内に、小学校入学というイベントはやって来てしまうのだろう。
「小学校は義務教育だぞ。絶対必要なやつだぞ」
「分かっているとも」
日本という国に生まれた人間の子として。必要な全ては用意するつもりがある。
「毎日給食だろ。それまでに一通りの食べ物はOKな状態になっておかないと、辛いのはリラだし。…………一通り、いけるかな」
かなり難しそうなんだよなぁ、と悩ましげな吐息が落ちる。確かに、給食というシステムはかなり難易度の高い壁ではある。
「その辺りは少し考えているところだが」
だが、考えがない訳ではなかった。
「給食のないとことかある? リラだけお弁当にできるように掛け合うとか? 悪目立ちしない? 小さい頃はしょうもないことでいじめに発展したりとか、残念ながらあるぞ?」
ついでに言えば、大人になっても残念ながらしょうもないことでいじめに発展することは多々ある。まぁ、子どものうちは大人より些細なことが世界の全てになってしまうのは事実だが。
「お弁当か食堂を自由に選べたり、食堂は食堂でもビュッフェスタイルの食堂があるところなどもあるらしい。そういうところを、今選定しているところだ」
「ビュッフェェ?」
言ったら、すごい顔を返された。
「それ、どこの学校」
知人から取り寄せたパンフレットの山が自室にはある。将来に関わることだから、迂闊な選択はできない。
「入学に際して、お受験というものがある。多少ハードルはあるが、リラ嬢には前世の蓄積がある分、ほとんどの試験は有利にこなせるだろう」
「さいですか……」
「あまり締め付けが厳しいところは彼女には合わない気もしているので、自由な校風というのを要件に加えているのだが」
設備や制度も大切だが、校風も無視はできない。彼女は品は重んじるが、型に押し込むような一方的な規律というものは嫌う。
自由たれ、美しくあれ、決して固執することなかれ。
それが彼女の口癖だったから。
「まぁどういう学校に入るにしても、今の状態ではまだ安心できる段階ではない」
「この間のぶどうジュースから、正直あんまり進展ないからなぁ」
「飲めるぶどうジュースの幅は広がっただろう?」
和馬お手製のぶどうジュースを始め、市販品でもいくつか好むものができている。好みの幅があるというのは良いことだし、進歩だとグウェンは思う。
「ぶどうそのものだって、二粒三粒は食べてくれるではないか」
「いや、ぶどうから他の何かへ発展してないじゃん」
彼女の前世の好みの狭さを知るグウェンと完全人間視点の和馬とでは、感じ方が違うらしい。和馬はもどかしくて堪らないのだろう。
「例えばさぁ」
向かいの席で頬杖を突きながら、難しい顔をしながら訊いてくる。
「本当に前世リラって人間の食べ物を一切口にしなかったのか? あ、ワイン以外で」
その問いかけは、少し意外に思えた。
「お酒のアテとかでもいいんだけど。常に口にはしなくても、ごく稀に、たまーになら口にしてたもの、あるんじゃないか? だって一緒にいたじーさんは人間の食事も楽しみとして口にしてたんだろ? 傍にいたならひと口ふた口、試してみることがあってもおかしくないはずだとオレは思うんだけど」
「そうだなぁ……」
「ナッツとか、チーズとかさ、そういうのでもいいんだ。記憶にある味があるなら」
この間から、和馬は少し変わった。
初めは前世という単語を口にするだけで、頭ごなしに否定したりはしないもののその目は眉唾ものだなぁと語っていた。けれど最近の彼は、彼女の前世は吸血鬼という部分を受け入れているようだ。自らその話題に触れてさえみせる。
何が彼の懐疑的だった考えを変えさせたのだろう。少し、興味がある。
「何でも良いからヒントがほしいんだよ」
単に彼女の食事トレーニングの成果の出なさに、疲れているだけだろうか。
だが、和馬は問いかけを続ける。
「というか、これ、訊いていいことかよく分かんないんだけど」
「何だね」
「じーさんには前世、同じく吸血鬼の恋人同士がいた。その生まれ変わりがリラ。OK?」
「間違いはない」
食べ物とは、関係のない問いかけ。
「昔からそんな感じ?」
「そんなとは?」
グウェンや彼女個人への興味。知らなくても困らないけれど、知ってみたいという思い。
「じーさんの方が敬い傅き、メロメロな感じ」
無遠慮に踏み込まれているとは感じなかった。元々、和馬はそこらへんのバランス感覚は良い。自分にもきっと、踏み込まれたくない領域があるから。
「まぁ、今と昔で私の彼女に対する態度に変わりはないが」
「向こうの方が偉い人、な感じがするよな」
確かに、傍からは奇異に映るかもしれない。老人が幼女に傅く図はそうそうないだろう。だが、グウェンにとっては身体に染み付いた自然な振る舞いだった。
「それはそうだろう。彼女は吸血鬼の中でも特に優れ、秀でて、他を率いる存在だった。ヒエラルキーの頂点に君臨する、吸血鬼の中の吸血鬼だったのだから」
「やっぱ吸血鬼って序列みたいなのがあるのか? リラは吸血鬼の総裁、みたいな?」
「序列はあるし、まぁ簡単に理解するならその解釈はそう間違いでもない」
すんごい吸血鬼だったんじゃん、という呟きが吐く息と一緒に漏れる。
そう、彼女は素晴らしく高貴な吸血鬼だった。彼女がただそこにいるだけで背筋が伸び、あるいは憧憬の溜め息が漏れ、時に背筋が凍り、その美しさに触れたくなり、また触れられたくなったものだ。
“ねぇ、グウェン”
特別な意味でそう呼びかけられる度に、どれだけ甘い心地がしたことか。
「…………そのさ」
和馬はまた訊きたいことができたのかそう切り出したが、そのまま言葉を止めてしまった。
その間にグウェンは和馬の拵えた料理を全て平らげて、水を一口含んでは口の中に残った味を流してしまう。ナプキンで口許を軽く拭き終えて、一つ息を吐いたところで、ようやく問いかけは再開された。
「そのすんごい立派で優れた吸血鬼の彼女が、じーさんより先に亡くなってるんだよな」