2-2 幾年を超えたその先で
その気配を察知してからは、大忙しだった。
グウェンは地球儀をぐるっと回して、太平洋に浮かぶ小さな極東の島国に照準を当て、必要なものの手配に奔走した。
現地に飛んで場所の絞り込みを行い、人外の知り合いの伝手を辿ってその国での住まいを手配、言語の習得、文化の理解、現代人の生き方、彼女のための環境作り、時間はいくらあっても足りないくらいだった。
けれどそうやって忙しくしている時間は幸福だった。
耐えて、待ち、潰すだけの時間。毎日毎日延々と続く。彼女を待つ時間はそのほとんどが苦痛に満ちていて、寂しく、物足りず、全ての物事に意味がなかった。
ただ、待ち続ければいつかは巡り合える。そう思うといつもほんのひと掬いの希望が胸に残って、その僅かな甘い光に縋ってグウェンは気が遠くなるほどの時間を過ごしてきたのだ。
それが、もう今は違う。彼女は長くを経て再びこの世に生を享けた。
彼女のためにできることがある。グウェンのする一つ一つには意味があり、希望があり、十分に明かりに満ちていた。やることがある、忙しいことは幸福なことだった。
正確な居所を掴んだ時、彼女は既に施設にいた。人を使って調べて、生い立ちを知るのはそう難しいことではなかった。
父親と母親の結婚生活は長く続かず、彼女が生まれて半年も経たない内に離婚したこと。不慣れな土地で母親は馴染めず、生活も苦しく、やがて心を病んでいったこと。リラを育てられなくなって、施設に預けたこと。そのうちに娘を置き去りにして国へ帰ってしまったこと。父親が今はもう新しい家庭を築いていること。
全部、知っている。知って、心の底から怒りが湧いた。せっかく享けた新しい生を、何の罪もない子どもを、こんなにも蔑ろにして。
生きていると色んな事情が生まれる。綺麗事だけでは生きていけない。理不尽は常に共にある。
だが、彼女は何の罪もない子どもだった。次の生こそは幸福な、愛に満ちた人生を送るのだと、そうであるべきだと思っていた。
しかし実際、彼女は愛されるべき相手にすっかり手を離されてしまっていた。
けれど、それはある意味で幸福だったのかもしれない。彼女にとってではない。グウェンにとっての幸福。
人間として生まれた彼女の人生にどう関わるか、それは大きな難題だった。
人間社会は難しい。様々な制約がある。何の関係もない他人が、深い仲は築けない。年代が近ければまたチャンスはあっただろうが、生まれたばかりの幼女と年老いた男だ。何の血縁関係もない。
正攻法では、難しい状況だった。
だからリラ嬢が親の庇護下にいないことは、グウェンが彼女を自分の元に呼び寄せるのに実に都合の良い展開だったとも言える。
そう、周りの必要な人間が彼女を守らないのなら、愛さないのなら、自分がそれをすれば良い。この世の誰より自分はそれができる存在のはずなのだから。
もちろん、急にポッと出た老人が幼い子を引き取ろうと思ったら、かなり難しいことが山ほどあった。あの手この手、使える人脈と力を全て使って、けれどグウェンは何とか状況を整えてみせた。彼女と共にいられるのなら、それは大した苦労でも困難でもなかった。
「各務リラちゃんと言います」
こっそり施設を訪れて間近で彼女を見た時の感動を、彼は今でもまざまざと思い出せる。あの胸の震えを、頭がおかしくなってしまいそうな歓喜を、生涯忘れることはないだろう。
「先月五歳になったばかりですが、とても大人びた子で」
彼女は施設の他のどの子どもとも触れ合わず、外から聞こえる歓声を尻目に部屋で積木を組み上げていた。
楽しそうではなかった。時間を潰すためなのか、淡々とどこか苛立ちさえ感じさせる表情で、細長い積木を上へ上へと積み上げる。
「あまり、外で走り回るような遊びは好みません。どちらかというと、部屋の中でじっくりと何かに向き合うことの方が好きなようです」
お城を作るのでもない。高さを出したいと慎重に組むのでもない。倒れてしまえと言わんばかりに、バランスそっちのけで適当に積み上げる。
「それから、その……」
事前にお話しした通りですが、と職員が歯切れ悪く続ける。
「あまり、食べる楽しみというものをまだ会得できていないと言いますか、食事が、その」
「聞いているよ。皆さんも随分苦労しておられると」
彼女の偏食については聞き及んでいて、大きな課題だとは思っていた。理由はよく分からないが、食事が全般的に嫌いだと言う。嫌だと、食べたくない、食べるものじゃないと拒むと。
理由は分からず、しかし食べなければ栄養は摂れず、周りの大人達は毎食毎食かなり苦労しているらしい。彼女の唯一にして最大の難点。
「でも、それ以外は本当に聞き分けの良い、我儘を言ったりぐずったりということをしない子でして」
職員のフォローにはあまり意味がなかった。何故なら、グウェンの答えは決まり切っていたから。
「私は彼女のその難点を、彼女を拒む理由にする気はない」
「そう、ですか」
今日はそっと顔を見るだけ、と話していた。声をかける予定はなかった。
かけるとして、どんな言葉を向けたら良いのか、グウェンには分からない。
彼女に告げる、最初の一言。何と口にするべきか。
彼女はグウェンを知らない。今のこの彼女は何も知らない。新しい命を、名前を、身体を生きているから。
いつかきっと思い出してくれる。そんな一方的な期待はあっても、今の自分はただの見知らぬ年寄りだ。
そう、見目も変わってしまった。随分年を取ってしまった。例え彼女が記憶を取り戻したとしても、今のグウェンを自分の愛したグウェンとは結び付けてくれないかもしれない。そういう可能性だってある。
それでも。それでも彼女の今世に、自分は関わりたいのだ。
「あっ」
「ん?」
職員が不意に声を上げたので、グウェンも意識を現実に引き上げる。
「っ――――」
彼女が、こちらを見ていた。部屋を仕切るガラス戸を通して、ただ真っ直ぐにその視線がこちらを射抜く。
変わっていないと思った。彼女だ、と思った。
彼女だ。間違いなく彼女だ。
沢山の時代を越えて全く別の国で全く別の人間として生まれたけれど、艶やかな銀髪、意思の通った澄んだ青の瞳、顔の造作一つを取っても似ている、と感じてしまう。
「――――」
逢いたかった。逢いたくて逢いたくて、こんなに時間が経ってしまった。
でも。でも彼女は正確には“彼女”ではないのだ。混同してはいけない。彼女は今、各務リラという女の子として、きちんと人格を持って生まれてきているはずなのだから。
だが、グウェンを見止めた彼女はその視線を逸らさない。びっくりするくらいにまじまじとグウェンのことを観察している。
「リラちゃん、こちらは……」
あんまり彼女がこちらを見つめるからか、職員はその場をさっと離れるのではなく説明の体勢に入った。
あぁそうだ。自分の見目も日本人のそれではない。見慣れない風貌の人間が珍しいのか、いや、自分と近い見目だから親近感でも感じているのか。
「……ぇん」
「え?」
結局グウェンのその考えは外れていた。
丸く澄んだ声が、何事か呟く。もっとその声を聞きたいと思った。
「グウェン!」
思ったが、その声がまさか教えてもいない、知りもしないはずの自分の名前を口にするとは露ほども思わず。
「………え?」
聞き間違いだと思った。願望の生み出した幻聴だと。だが。
「グウェン!」
「リラちゃん!?」
彼女はもう一度確かに彼の名前を叫んで、それから短い手足を懸命に交互させて勢いのままに突っ込んで来た。
「おっと……!」
抱き上げると言うよりかは、それより早くよじ登られる。驚きで、頭がろくに回らない。回らないが、心がはち切れそうなほど大声で叫んでいる。
彼女はよじ登り切ると、次の瞬間思い切りグウェンの首筋に噛み付いた。
「いやぁあぁ! リラちゃん、何してるの! ダメ、放しなさい! リラちゃん!」
職員が真っ青になって何事か叫んでいたが、グウェンの耳には全く入って来ていなかった。それどころではなかった。噛まれた首筋に広がる牙もない柔な感触には、感動だけが詰まっていた。
覚えている! 彼女は、覚えている!
彼と過ごした一つ前の生を、彼との約束を覚えている!