2-1 グウェン公の優雅な朝食
鼻腔をくすぐるまろやかながら濃厚な香り。
バターと卵に熱が通ると、朝だなぁと感じる匂いが部屋に広がる。
グウェンは眠い目を擦りながら食卓に着く。和馬は手際良くグウェンが着席するその直前を狙ってコーヒーを淹れてくれるので、手持無沙汰になるようなことはない。
「リラ嬢、おはよう。昨日はよく眠れたかね」
「……まぁまぁよ」
向かいの席では愛しのリラ嬢が眉間にシワを寄せながら、ジュースの入ったコップをちびちびやっていた。飲んでいるのはぶどうジュースだ。
先日の一件から、彼女はぶどうジュースには拒否反応を全く示さなくなった。昔からそうだが天邪鬼なところがあるので本人は決して認めたがらないが、随分お気に召しているらしい。
今はツンデレと言うのだったか、とグウェンは現代用語を引っ張り出して彼女に当てはめてみる。
ツンデレ。そう、彼女は澄ましていても愛らしく笑んでいても、いつでも完璧に魅力的だ。
「それは和馬のお手製かね」
「らしいわね」
本日のぶどうジュースは、和馬が一から作ったものらしい。食費は一切惜しまなくて良いと告げているので、和馬はリラがどんなものならより好んで口にするかを丹念に研究している。
ぶどうジュースなら飲むからそれを出せば良い、ではなく、市販のものでもどういう味が好みか、手作りの方が微調整が利くのか、そういうことまで気に掛ける。今日のものは果実をまるまる絞って作ったようだ。手間もかかるし贅沢なのかもしれないが、必要経費だとグウェンは思っている。それから、和馬を選んで良かったとも。
人間はこの世にごまんといるが、こうも身近にニーズに合った人間がいたことは僥倖だった。
「できたぞー」
キッチンから和馬が出て来る。スクランブルエッグ、ハムにサラダ。それから香ばしい匂いを放つクロワッサン。
「これはまた良い香りだな。いつものパン屋かね?」
「朝にさ、限定の焼き立てクロワッサンが出るんだよな。一回食べてみたくて今日は早起きしてゲットしてきた。めちゃくちゃ美味しそうだろ?」
確かに、食欲をそそる匂いである。
「いただきます」
と三人手を合わせ、グウェンもさっそくクロワッサンに手を伸ばした。
マメに食事を摂るということを、彼女を引き取ってからグウェンも習慣として身に付けた。規則正しく人間らしい生活を踏襲している自分に、おかしみを覚えることもある。
確かにグウェンは人間の食事を面白いものと捉えているので好んで口にするが、それは気まぐれなもので、今まで習慣化されたことではなかったのだ。
けれど、生き物というのは変わる。吸血鬼のような化石みたいに長い年月を生きる存在でも、必要に迫られれば自分の在り方を変じてみせる。今回のグウェンの場合は違うが、そうしなければ変化の多い世の中で生き残っていけないから。
だから、リラ嬢にも適応してほしい。人間としての生き方を、彼女の健やかな人生のために。
「おいリラ、コップから手を離したらどうなんだ」
「……なによ、ちゃんとのんでるでしょ」
「こっちが全く手付かずじゃないか」
さっそく見咎めた和馬が指摘する。確かにフォークすら手にしてはいないが。
「リラ嬢、このクロワッサンはなかなか美味しいよ。ひと口試してみてはどうかね」
「…………」
「焼き立てだぞ、一番美味しい瞬間だ」
「…………」
口々に言われ、渋々といった様子で彼女がクロワッサンを手に取った。端の方をほんの僅かだけ齧ってみせる。
「…………食べにくい」
「そうか?」
「ぽろぽろぱさぱさ落ちるの、うつくしくないわ」
あまり好意的な感想ではない。
確かに皿の上には剥がれた表面の生地が細かく落ちていて、それがお気に召さないらしい。だが、食べにくいと言っているだけで、味が嫌だと言っていないのは良いことだと思う。
「細かいなー、別に多少破片が落ちたっていいじゃないか。そういうものだよ」
「…………」
「分かった分かった、ほら、ひと口大にちぎってやるから。そしたら口に入れる時ぽろぽろしないだろ」
「あー! やだ和馬、けっきょく和馬がぼろぼろしてるだけじゃない! お皿がぶさいく!」
「お皿がぶさいく……斬新な表現だな」
「もー、やだぁ」
二人のやり取りはいつも軽快だ。グウェン一人ではとてもこのテンポでは彼女の食事を進めることはできないが、二人の気の置けないやりとりを見ていると、どこからか嫉妬心が湧き上がって来るほどで。
いい年、本当にいい年だと言うのに、彼女のことに関してグウェンは驚くほど心が狭い。
「たまごは」
「……びみょう」
次に得たこの新しい生を謳歌してほしいと、心の底から思っている。
リラ嬢自身の為だけに、存分にその人生を使い切ってほしいと。
「何が微妙なんだ、何が」
「なんか濃いにおいがするんだもの」
だけれど、同時に思うのだ。
次のその生も自分と共に在ってほしいと。その心を自分に向けていてほしいと。
ようやく、ようやく長い長い気が狂いそうなほどの年月を経て、また見えることができたのだから。
今度こそ、最後の最後まで共に在りたい。
「濃い匂い? バターのことか? えー、でも今食べてるクロワッサンもバター結構使ってるけどなぁ……ん? じーさん、どうかしたか?」
「うん?」
「いや、手が止まってたから。なんか変な味でもした?」
言われて皿に目を落とす。確かに彼女同様一向に減っていない。
「いやいや、いつもと変わらず美味しい」
意識して、口の端に微笑を浮かべる。
穏やかで、和やかであれと、グウェンはいつもそう己に言い聞かせている。
牙は隠しておけば良い。必要な時にだけ剥くから、その役割を果たすものなのだ。
和馬はリラ嬢に必要な人間だ。それはつまり、グウェンにとっても必要な人間だということ。
グウェン自身だって、和馬を気に入っている。つまらない感情を抱くべきではない。そもそも、これは兄と妹のやり取りみたいなものではないか。
「そう言えばリラ嬢は最近、具体的にあれこれ言ってくれるようになったね。何が嫌だと、その中身が分かれば、効率的に別のものを試せる」
「あー、確かにそれはそうだな。今までは嫌と食べたくないしか言わなかったもんな。そう考えると進歩だなぁ」
「髪がみだれるからぽんぽんしないで。あと、上から目線なのがきにいらない」
最初は困難を極めると思ったリラ嬢の偏食も、和馬のおかげで光明が見えてきている。粘り強く取り組んでくれる協力者がいれば、彼女も段々と食事の幅を広げていくことができるだろう。
「お口の方も、もう少しまろやかな方向に進歩してくれるといいんだけど」
「ふん!」
焦らず、ゆっくり進めば良い。
人間の生はあまりに短いが、それでも彼女はまだこの世に生まれたばかりだ。沢山のことを積み重ねていける。