1-1 リラ嬢のやんごとなき(ややこしい)事情
初日以外は毎朝7時に1話分、夜22時に2話分投稿していく予定です。
「やーだ――――っ!」
響き渡る絶叫。だだっ広い食堂はついでに天井もとても高いので、まぁよく響く響く。
この部屋、電球が切れたらどうやって換えるんだ? 脚立とか? 随分高いのが必要そうだけど。
嫌だな、まさかその時オレに頼んできたりしないよな。
現実逃避がてらにそんなことを考えながらも、和馬はお子様用チェアから脱走を試みようとしているちびっ子を見た途端、その肩を押さえにかかる。
「やだじゃない! ちゃんと食べなさい!」
ちびっ子はそれでもじたばたし続けるが、高二男子と年齢で言うと幼稚園児の力の差は歴然だ。
「はなしなさいよぅ!」
涙目で振り仰ぐは深い青色の瞳。一瞬その悲壮な表情にぐらっと心が揺れたが、その庇護欲をそそる見目に誤魔化されてはいけない。
「ほら、フォーク持って」
「食べたくないぃ」
食べる気がないことを示すためか、ちびっ子は今度はテーブルに突っ伏して足だけジタバタさせ始めた。ふわっと広がる銀の髪が電灯の光を反射して、その光沢を主張する。
そう、彼女の見目は銀髪、青い目、透き通るような白い肌、薄く色づいたピンクの唇と、一体どこの西洋人形かと見紛うほどの可憐な女の子だった。いや、今盛大に駄々を捏ねているので、いくらか可憐さは損なわれているが。
各務リラ。
母親がヨーロッパ出身らしいので、この子はハーフなのだ。と言っても全部伝聞で、和馬はその母親を直接見たことはないのだが。
「全部食べろとは言ってないだろ」
食卓には見目鮮やかな夕食が用意されていた。
メインはハンバーグ。ニンジンのグラッセ。玉ねぎのソテー。有機栽培されたレタスやベビーリーフ、それから甘くて人気の高い品種のミニトマト。スープはコーンポタージュ。タイミングを狙って買って来た焼き立てのパン。デザートはりんごのゼリー。ゼリーだってちゃんと手作りだ。和馬の、手作り。
だが、そのどれもを嫌だと言ってこのちびっ子は拒否するのである。
「この際、にんじんもたまねぎも別にいいから! とにかくほら、ハンバーグだけでも口に入れてみろ?」
お子様用フォークで小さくひと口大に切り分けてやる。だが、ちびっ子の態度はちっとも軟化しない。
「おいしくない口に入れたくない食べる気にならないー!」
そう、この子は単に野菜が嫌いだと言う訳ではないのである。
作った食事を拒否されるのは毎度のこと。もう何食も何食も連敗している。
ちなみに別に機嫌が悪いから食事を食べたがらないのでもない。そうではなくて。
「リラ!」
強めに名前を呼ぶと、
「こんなの、私の食べ物じゃない」
彼女はそう言って突っ伏したまま籠城体勢に入ってしまった。
こうなると、長い。
「勘弁してくれよ……」
“こんなの、私の食べ物じゃない”
その発言にはさすがに和馬の感情も反射的に波立ってしまう。
料理なんて食べるのは一瞬だ。
でも、作るのにはその何倍、何十倍もの時間がかかる。例え手抜きメニューだろうと時短レシピだろうと、一日二十四時間しかない中で他の物事と折り合いをつけて時間を捻出するのだ。それを、マズイと言われるどころか口にすらされないなんて。
虚しさと腹立たしさが湧き上がるのを、それでも和馬はグッと堪える。
怒るな。この子の事情を考えろ。考えろ、考えろ。
そこへ――――
「リラ嬢」
渋みのあるバリトンボイスが割って入った。
「リラ嬢、そんなに嫌かね」
「いやよ!」
「あっ、こら!」
その声を聞いた途端、バネを跳ね上げるように身体を起こし、目にも留まらぬ素早さで彼女は食卓からの脱出を成功させた。
伸ばした手も虚しく空を切り、リラは現れた老人へと勢いよく飛び付く。
おいおい、じーさんにそんな勢いで飛び付いたら……というような心配は要らない。老人は幼児のタックルを物ともせず受け止め、そのまま軽々と抱き上げた。
シルバーグレーに染まった髪、シワの刻まれた目元、たっぷりと蓄えられた口髭。愛おしそうに視線を注ぐその瞳の色は緑。
齢がいくつかは知らないし、聞いてもあまり意味がないのだが、その見た目はそれなりの老いを感じさせる。だが腰は未だピンと伸び、慎重は一七五ある和馬よりほんの少し高い。
グウェン・ギース。
遥々海を渡って今はこの日本に居を構える老人だ。取り敢えず資産は腐る程あるらしく、この郊外の立派なお屋敷で日々悠々と過ごしている。
「リラ嬢」
柔らかく名を呼ぶ声は慈愛に満ち溢れている。だがこの男は少女の祖父でも何でもない。それどころか、血縁関係も一切ないときた。
「しかし和馬も色々と工夫はしてくれているみたいじゃないか」
胡散臭いじーさんだとは思っているが、正規の手段で(小細工の恐れはあるとは言え)少女を引き取っているらしいので、和馬もあれこれ余計な口は出さないようにしている。
「一口、試してみては?」
「やだ!」
グウェンの提案にも、彼女は断固拒否を示した。
「においがむりなの!」
グウェンの首筋にぎゅうぎゅうしがみ付いて、これでは口にスプーンを宛がうこともできない。
「しかしリラ嬢、人間の身体は色々なものをバランス良く摂取しないと健康を保てないようにできているのだよ。食べてもらわなければ、生きてはいけない」
そうだ、その通りだ。もっと言ってやれ。今日こそこのお嬢様に人間の身体の仕組みを理解させてくれ。
彼女が自分の言葉など聞かないことをここしばらくでよく学習したので、和馬は心の中で投げ遣りな気持ちで応援する。
「リラ嬢」
「い・や・よ」
だがまぁ、懐いている相手であってもリラの食事拒否は軟化を見せない。
そうだよな、このじーさんもリラの偏食がえらいことになってるって分かってたから、人間の料理を作れるヤツを探してたんだし。
「リラ嬢、空腹は覚えているのだろう?」
覚えているはずだ。けれど、空腹以上に受け入れられないものがあるらしい。
食べねば、生きてはいけない。
もう一度グウェンが繰り返した。その声に妙な熱が灯り出していて、何だか様子が怪しくなっていく。
そもそも、初老の男性が幼女に向かってリラ嬢、と懇切丁寧に言葉をかけるのも、和馬からしたら違和感ありありだ。グウェンは別にリラに仕えている訳ではない。……そのはずだ。
「リラ嬢、今度こそ寿命の限り添い遂げようと約束したことをお忘れか?」
次にグウェンはそんなことを言い出した。
どう聞いても幼い女の子にかける言葉ではない。不適切だ。
添い遂げよう、というのは夫婦的な意味、連れ合いだという意味を含んでいる。寿命の限りというのも、あと何年先のことだ、そっちに合わせたらリラの寿命は随分不公平なことになるじゃないかとツッコミどころ満載なのだが。
「――――」
突っ込んでも無駄無駄。
和馬はグッと堪える。
グウェンの発言に、リラも眉を寄せながら顔を上げた。
「……それ、グウェンがかってに私にちかったことじゃない?」
うん、こっちの返しも何かおかしい。五歳児の返しではない。
「あぁ、何と言うことだ。転生の際に抜け落ちた記憶がまだ沢山あるようだ」
「…………」
更なるグウェンの返しに、リラはますます呆れた顔をした。和馬も聞いていられない、と思った。
「じーさん……」
世の中には不思議なことがあるものだ。自分の脳みそでは理解しきれないことも沢山ある。和馬はそれを認めている。
だが、この屋敷に敷かれている設定には、正直まだ納得しきれていない。
「心は痛むが、それより何よりリラ嬢、貴女にきちんと食事を摂って頂かなくては。誓いがあろうとなかろうと、リラ嬢とて不健康に苦しみながら生きたい訳ではないだろう?」
広いお屋敷に暮らすのは、老人、幼女、雇われアマチュアシェフの高校生。
「せっかく気の遠くなるような時を経て再び見えたというのに、すぐにお別れだなんてそんな酷いことにはしないでおくれ」
老人と幼女は虚言でなければ添い遂げる約束をしており、幼女の方は転生しているときたもんだ。
「だってむりよ、ぜんぶぜんぶ私の口にはあわないの」
どこのラノベの設定だよ! と和馬が心の中で大いにツッコミを入れたところで、最もツッコミを入れなければならない発言をリラがかました。
「だって私は吸血鬼なのよ!」
リラの食事拒否の理由。
「私、血液いがいは口にいれないわ!」
そう、何でも吸血鬼は血液以外を摂取しないらしい。だからリラは和馬の用意した食事を、いや、それ以外でも全ての食べ物を拒否する。自分の食べるべき物ではないからと。
いや、お前は人間だろ! というツッコミは、もうし疲れたのでしない。