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運命の糸

作者: 森巣リコ

   1

「真莉! 康二!」

 ついさっきまで二人がいたはずの空間に向かって俺は叫んだ。

 土の腐ったような気持ち悪い匂いがする。夏の日差しは厳しく、俺は目眩を覚える。高い湿度が不快な汗を呼ぶ。

 いや、目眩も、嫌な汗をかいているのも、夏の暑さだけが理由じゃない。目の前の凄惨な光景のせいだ。

 川沿いの人気のない道路を三人で歩いていた。

 真莉と康二の二人は、俺より高々十数メートルほど先を歩いていた。ただそれだけが二人と俺の運命を左右した。

 左手側に山の斜面、右手側に川を臨む道を歩いていると、何の前触れもなく土砂崩れが発生したのだ。二人はなす術もなく飲み込まれ、ひとり俺だけが無傷のまま残された。


 こんな時、どうすればいい?


 絶望感に押しつぶされそうになりながら、俺は二人を助ける方法を考えようとしていた。だが、二人を飲み込んだ土石流は川まで流れ込み、自分一人の力だけではどうしようもなかった。

 震える手でスマホを取り出し、どこかへ電話をかけようとしたが、うまく指が動かない。


 何がいけなかった?


 後悔が頭の中を駆け巡り、取り返しのつかない思いはじりじりと焦燥感を膨らませていた。


 どうすればよかった?


 一学期最後の日に三人で余計なことを企てることなど、しなければよかったのだ。



   2

「それでさ、この後どうする?」

 あれ? ここは……?

「何ぼんやりしてるの? さてはゆうべ夜更かしでもしてた?」

「おいおい、ひとりだけ受験勉強に勤しむなんて友達甲斐のない奴だな」

 真莉と康二が、弁当を片手に話しかけてくる。

 夏服の制服に身を包んだ康二が目の前に座っていて、その向こう側には規則正しく並んだ机と椅子、さらに向こうには黒板があった。同じく夏服のブラウスの真莉が左手側に座っていて、その後ろにはカーテン越しに日光が教室を明るく照らしていた。

 教室ではエアコンが効いていたが、設定温度の高さから、屋外の殺人的な暑さがいちおうは人道的な暑さに変わっていただけだった。要するに暑いままの教室に俺たち三人はいた。

 それでもさっきまでの不快な暑さではなかった。


 さっきまで?

 いったい何の話だ?


 いや、そうだ。今日は高校三年の一学期最後の日だ。終業式が終わって、三人で教室で弁当を食べているのだ。

 褐色の肌の康二は長身でガタイがよく、高校に入学した頃はよく運動部の勧誘を受けていた。もっとも、康二は見た目に反して運動神経がからきし伴っていなかった。真莉はボブヘアに編み込みを加えてハーフアップにした髪型だ。何かと不自由な校則がある中でいつも精一杯のおしゃれでその身を飾っている。

「ひょっとして、友里、この後、抜け駆けして補習を受けるつもりか?」

「いやいや、教科書もノートも持ってきてないでしょ。少なくとも私は持ってない」

 いつもの二人の様子に、俺はわけもなく安堵を覚えた。

 だが、なぜ、安心しているのかは自分でもわからない。

「俺だって持ってないよ」

 苦笑しながら俺は二人に答えた。

「ゆうべだって日付の変わる前にさっさと布団に入ってたよ。早々に夢の中だ」

「だよな。受験勉強の本気を出すのは夏休みが始まってからだよな!」

 康二は元気いっぱいに言うが、それは堂々と言う台詞でもない気がする。

「明日から本気を出す、という台詞を堂々と言うなっつーの」

 真莉も笑いながら突っ込みを入れる。自分たち以外に誰もいない教室に、三人の笑い声が響く。補習を受ける生徒は早々と昼食を食べ終えて各科目の教室に向かっていた。補習を受けない者はホームルームが終わると足早に帰っていった。俺たち三人は補習は受けないが、弁当だけはしっかり持ってきて、駄弁りながら長々と昼食の時間を楽しんでいたのだ。

 俺たちは幼馴染で高校も同じ、受験勉強を先送りにする性格まで一緒だった。

「それにしても友里は良いよな。予備校に行くまでもない成績で」

 康二は羨んできたが、実際にはその言葉の中に嫌味はこもってない。

「特に苦手科目がないってだけで、余裕のある成績ってわけでもないよ」

「そうは言っても、康二と私が予備校通いの夏休みだなんて。はっきり言って憂鬱だわ……不公平にも程がある」

「二人とも得意科目があるだけでも、進路の決定や受験の方針なんかが見えてくると思うんだけどな」

「俺は得意科目なんてないぞ。歴史上の物語や和歌に興味があるだけで、古文漢文の成績は決して良くない」

「だから、堂々と言い切るんじゃないって。まあ私は数学が得意な方だけど、地理歴史が壊滅的にダメだから……」

 真莉は流石に自分のダメなところは小さく言っていた。

「俺だって苦手科目がない一方で得意科目もないんだけどな……」

「だよね!」

「だよな!」

 二人は目を輝かせて同時に言った。いや、そこは目を輝かせるところじゃないだろう……。

 結局のところ、俺たち三人は現時点でやりたいことも人生の目標も見つからないままだ。ただ、きっとこのままでは何者にもなれない、という焦燥感だけが日々募っているのだった。


「まあ受験勉強の話は今日は置いといて、本題に戻ろうぜ」

「本題?」

 どうも頭がうまく働いていない。

「今日、この後どうするの? って話」

「ああ、それか」

 思い出してきた。勉強は夏休みに入ってからするとして、今日の午後は何をやろうかという話だった。

「せっかくだし、夏らしいことしようぜ」

 乗り気満々の康二は言う。

「夏らしいことって?」

「たとえば……肝試しとか」

「ええー……そう言うのは、やめにしない?」

 真莉は笑いながら言ったが及び腰だ。

「おや、真莉さんや。お化けとか幽霊が苦手と見える」

「いやいや、私はそんな非科学的なものは信じないわよ。ただちょっとばかり背中が寒くなるのが嫌なだけであって……」

「そうか。ならこの話をしても大丈夫だな」

「ええー……」

 真莉は消え入りそうな声とともにため息をついた。

「この話って?」

 俺は別に幽霊が苦手でもなく怖くもないので康二に聞いた。

「この高校から少し歩いたところにある古い屋敷に、一人の女性が住んでいるんだけど。名前は確か周防って言ったかな、まあSさんとしよう」

「伏せる意味がまるでないっつーの」

 声のトーンを少し下げてそれらしく話し始めた康二に、真莉が恐怖に戸惑いながらも突っ込む。

「まあそう言うな。で、そのSさん、一人暮らしのはずなのに、なぜか妙齢の女の子の洗濯物を干しているそうな。さらに言うと、毎日女の子が帰ってくるのを食事を作って待っているらしい……」

「ちょっと、それって」

「そう。そのSさん、帰らぬ人となった我が娘を今もずっと待っているんだよ。悲しいねぇ……」

「いや、Sさんに、というか娘さんにも失礼じゃない? その話。勝手に死んだ人にして」

「ま、まあそうだよな。でもSさんが一人暮らしらしいってのはホントらしい。知らんけど」

「知らんけど、って言いたいだけだろ」

 真莉も俺も笑いながら突っ込む。

「何? じゃあ肝試しってのは、そのSさんの家まで確認に行くってこと? 傍迷惑極まりないよね」

「だよな! なので肝試しに行かないかってのは別の場所」

「その別の場所、とやらも傍迷惑じゃないんだろうな?」

 半ば呆れて康二に聞く。

「それは、まあ、たぶん。廃ホテルだっていうし、誰にも迷惑はかけないだろう、たぶん」

「ずいぶんと、たぶん、の多い話ね」

「廃ホテル? また怪しげな話だな」

 真莉も俺もそれぞれ言いたい放題だ。

「まあそう言うなって。ここから山沿いに数キロ行ったところに古いホテルの跡があるだろ? そこで肝試ししないかってこと」

「ええー……」

「肝試し、って夜までそこにいるつもりか?」

 相変わらず及び腰の真莉に代わって俺が聞く。

「いやあ、それは流石に危ないだろう。日が暮れる前に帰る。何なら、ホテルに入らず、遠巻きに眺めるだけでいい」

「肝試し、とは一体」

 呆れて呟いた俺に、真莉がたまらず吹き出す。

「細かいことはいいんだよ」

 康二も笑いながら答えた。

 そうだ。何をするのかはこの際どうでもいいのだ。ただ三人で同じ時間と同じ思いを共有するだけでよかった。それが、ほかのなにものにも代えることのできないものなのだと、三人ともわかっていた。



   3

「暑い……」

「暑いな……」

「お前ら、暑い暑い言ってると、余計に暑く感じるぞ」

 真莉と俺のぼやきに康二が精神論めいたことを言ったが、康二も相当ばてているようだった。

 高校から廃ホテルまでの山沿いの道を歩いているが、七月の日差しは、梅雨が明けた数日前から急に激しくなっていた。太陽と高気圧はヒトがタンパク質でできていることを無視した暑さを投げかけていた。

 真莉は折り畳みの日傘をさして日差しを遮っていたが、康二と俺はハンドタオルを頭の上に載せているだけで、小さな布一枚ではマイナス27等星の太陽の前には無力だった。真莉の日傘も同程度に無力ではあった。

「梅雨の時分には大雨が続いていた気がしたんだがなぁ」

 康二は呟いたが、大雨は梅雨明けとともに雲散霧消していた。

「それにしたって暑すぎだろう。もう水筒の水はないぞ」

「私も」

「お、あの別れ道の先に自動販売機があるぞ。廃ホテルとは逆方向だけど」

 康二が指差した先に小さく自販機が見える。

「遠回りだなあ……」

「もう日差しの下で歩きたくないよう」

 俺は少しぼかして言ったが、真莉はストレートに心情を吐露した。だが歩かねば水は手に入らない。水分を摂らなければ歩けない。あれ? 肝試しってこんなにハードなものだったか……?


 ちゃりん、ガタガタン。

 今は小銭以上に価値のありそうなスポーツドリンクと等価以上の交換である。

「ああ、生き返る!」

「まったくだ」

 自販機の前でたむろする三人は通学用の鞄を下ろして、ペットボトルを片手に一息ついていた。

 口に含んだ冷たいスポーツドリンクがあっという間に溶けてなくなっていくのを感じる。それほどまでに身体が水分を欲しているのだ。

「……暑いし、もう帰るか?」

 康二が身も蓋もない提案をする。

「いやいや、ここまで苦労して手ぶらでは帰れないでしょ。肝試しに手土産になるものは普通ないんだけどさ」

 肝試しには終始及び腰な真莉だが、自分で突っ込みを入れている。

「そうだよなあ。せめて遠巻きにでも廃ホテルの姿を拝まないことには無駄足の三文字である」

 康二が真莉に答えていると、ふと人の気配がした。

「あの、良かったらなんですけど……」

 フリルつきの日傘を差した少女が俺に声をかけてきた。傘の下はストレートのボブヘアで白皙の少女だ。もし彼女が着物と番傘なら肝試しに相応しい気もしたが、Tシャツにジーンズ、スニーカーとあってはさにあらず。

 少々失礼なことを想起していた俺に構わず少女は続けた。

「このペットボトル、間違って二本買ってしまったのだけど、良かったら一本もらってくれませんか?」

「はあ、それくらいなら別に構わないよ」

 どうすれば間違って二本も買うことができるのだろうかと、俺は疑問に思いはしたが表情にも声にも出さなかった。そして自販機の値段と同じ金額の小銭を財布から出して、冷たいペットボトルと交換しようとする。

「どちらが良いかしら」

「どっちでも良いよ。好きな方を選んで。選ばなかった方をもらうから」

「ありがとう。そうね……」

 少女はお礼を言ったが、少しの間考え込んでいた。何をそんなに迷うのだろうと思ったが俺はただ待っていた。

「じゃあ、こっちをどうぞ」

 そう言ってスポーツドリンクを手渡してきた。さっき飲んだやつだが、この際それはどうでもよくて、実はさっきから俺はどうにも気になることがあった。

「ええと、どこかで会ったことがあるかな……?」

 妙な既視感を覚えたが、全く思い出せない。だが確かに会った気がするのだ。


 でも、いつ? どこでだ?


 そんな俺に構わず、少女は答える。

「いいえ。会ったことはないわ」

 寂しそうな表情だったが、そんな表情をする人物は俺は知らなかった。寂しさの理由を知らないその時は、記憶からは何も辿れなかった。

 二人の間にはしばらく沈黙が流れていたが、俺は次の言葉が見つからなかった。

「もういいみたい。ありがとう」

 深々と頭を下げて少女は俺たちがこれから向かう予定の道と反対方向に歩いて行った。


 何がもういいみたいなんだ?


 そのことも、人気のないはずのこの道路で会ったことにも、俺は疑問にも思ったが特段深く考えることはなかった。

「どうした? 一人でぼんやりして」

「暑さにやられた? 大丈夫?」

 康二と真莉が心配げに声をかけてきて、俺はさっきまでの疑問を払いのけた。しかし、康二の、一人で、と言う言葉に新しい疑問が生じた。まるで少女を見なかったような言い草だなと、俺は応えようとした。だが、それどころではない事態が生じた。

 数十メートル先で何かがが地面を揺らし、さらに不安を催させる音が俺たちの身体と鼓膜を揺らした。

 土砂崩れが発生したのだ。



   4

「おっはよー」

「おっす」

 夏休みの初日、早朝から元気な真莉と康二である。

「おはよう」

 俺の家を訪れてきた二人に朝の挨拶を返す。

「いやあ、昨日は危なかったなあ。運が悪ければ土砂崩れの中だ」

「日頃の行いが良いからとかそういうのはいいから」

 康二の言葉の先を読んで真理が突っ込んでいた。

 昨日はすんでのところで大惨事を逃れた俺たち三人だった。面倒なことになるはごめんだと、あの場からは一目散に逃げ帰ってきたのだった。そして昨日はそのまま解散して、夜にSNSでやりとりをした後、今朝、二人は俺の家に来ることになっていた。

「まあ、そういうなよ。玄関先じゃなんだし、上がっていくか?」

「それはまた今度でいいよ。この後の予備校に行く気がなくなると思う」

 先程の真莉の言い草に少々出鼻を挫かれた康二ではあったが、笑いながら俺の提案を断った。

 よく晴れた朝、気温はこの後さらに急上昇する気が満々のようだ。

 太陽さんや、もう少し手加減してくれないかな。

「そっか。で、予備校にはまだ時間がありそうだがどうすんの?」

「それよ。今日は私の最新作を読んでもらって、感想なんかが欲しいかな、と」

 真莉はそう言いながらA4の用紙の束を鞄から取り出して康二と俺に手渡した。

 真莉はよく自作の絵本を描いては俺たちに読ませて感想を要求していた。

 真莉曰く、別にプロになりたいってわけじゃないけど、描くのが好きだし、描いたからには読んで感想をもらわなければ上達しないのよ、らしい。

「昨夜はさ、昼間のこともあって妙に気が高ぶっていてあまり眠れなかったのよ。それで、眠れない時間にさ、昨日まで描いていた絵本の続きを描いて完成させて。朝に出来立てのホヤホヤ、生きのいいのを読んでね」

 絵本に生きの良し悪しがあるのだろうか、とも思ったが口には出さなかった。描いた本人がそう言ってるのだから、そうなんだろう。

「それはよく眠れない中、がんばったな。俺は日付が変わる前に早々に夢の中だったけど」

「友里はこう見えて豪胆なんだよな。まあ俺も普段より寝付きが悪かったけれど、それでもぐっすり寝た夜だったが」

 コピーされた絵本の原稿を受け取りながら、俺たちは思い思いのことを口にする。

「それで、感想は今ここで読んだ後でいいのか?」

「うん。絵本だしそんなに読むのに時間かからないでしょ。感想も読んだ直後の率直な意見が聞きたい」

「なるほど」

 真莉にそう言われて俺たちは絵本を読んでいく。

 物語はこうだ。


 ある古い街のおもちゃ屋に一人の少女が通っていた。

 そのおもちゃ屋には種々の動物のぬいぐるみ、おもちゃの兵隊、煌びやかに飾られたいくつもの人形などが売られていた。

 少女は毎日のようにそのおもちゃ屋に通い、目を輝かせて子供の時間を過ごしていた。

 ある夜、一人の老魔法使いが人気のないおもちゃ屋に訪れて、魔法を使った。

「この命は希望の灯火」

 魔法によって人形たちは命を得る。

 少女に対して最も希望を抱いていた少年の人形が最も強い命を宿らせて、他の人形たちを従えた。

 そして命を得た少年たちが列をなして、夜の街に繰り出していく。

 街の裏路地では人形たちにとっては巨大なネズミに出会うが、兵隊や獅子たちの活躍によって退ける。

 少年は、ついに夢の中でお城に住んでいる少女のところまで辿り着く。

 そこで少年は少女の前に跪いて愛を告げる。

 頬を紅潮させた少女であったが、その時に気づいた。

 ああ、これは夢。

 夢の世界から離脱していく少女に、少年は絶望して息絶える。

 最も希望を抱いていた少年の命は、絶望とともに失われるのだった。

 翌日、夢をことをいっさい覚えていない少女は、いつものようにおもちゃ屋へと来て普段と同じく目を輝かせていた。

 おもちゃ屋の裏では老魔法使いが、一体の人形を手にため息をついていた。


「最後の方までは、どこかで見たことのあるような話だと思ったけど、最後は独創的だな。こういう終わり方でいいのか俺には判断がつかないけど」

 俺がこう言うと、康二が続ける。

「だよな。途中で十面埋伏の計とか使えば映えたんじゃないか?」

「三国志じゃないっつーの」

「他人様の作品に自分の趣味を押し付けるんじゃない」

 康二のアイデアの方がよっぽど独創的ではあったかもしれないが、真莉も俺も反対した。

「それじゃ、最後に少女に自作の和歌を詠んでプレゼントするってのは……」

「却下!」

「ですよねー」

 二人のやりとりに思わず俺は吹き出した。

「まあ、康二のアドバイスはなんだけど、どこかで見たことのあるような話ってのは別にいいのよ。今はセオリー通りのお話が描きたいかなと思ってるから。型を知らないことには、型破りなことをやろうとしても、それは形無しにしかならないからね」

「なるほど」

 創作者の卵はよくよく考えながら創作しているようだ。康二も俺も舌を巻いた。

「なんだかんだ言いたい放題口にしたけど、おもしろいかおもしろくないかで言うと、とてもおもしろかったよ」

「だよな。これだけ描けるんだから、プロになるつもりはないってのはもったいないと思うが。まあ真莉がそう言うならそうなんだろう。いずれにせよ、おもしろい作品を描くのは応援するぜ」

「ありがと」

 俺たち二人の賛辞や応援の言葉に真莉は、にかっ、っと顔をほころばせた。こういう表情の真莉は、誰から見てもとても魅力的に映るだろう。

 康二や俺と違って、真莉はすでにやりたいことを見つけているのかもしれない。一歩先を進み始めた真莉を、康二も俺も、羨んではいけなかった。俺たちにできることは、己がやりたい道を一日でも早く見つけることだ。


 それにしても、一つ気になることがあった。

 家の敷地から外の道路に一人の少女が朝からずっと立っていた。フリルのついた日傘にTシャツとジーンズ、スニーカーの姿は、昨日自販機で会った時とほとんど同じだった。

「あの、何か用かな?」

 こんな時間にずっといるのだから何か用なのだろうと俺は思い、真莉と康二の向こう側にいる少女に声を掛けてみた。

「ちょっと、何……?」

「おいおい大丈夫か? 誰に向かって言ってるんだ?」

 真莉も康二も不審に思いながらの言葉だ。ただしその不審な思いの方向は俺に対してである。

「何言ってんだ、二人とも。そこに女の子が立ってるだろ」

「ちょっと、もうそういうのはいいって」

「肝試しは昨日でおしまいだぞ」

 俺の言葉に、真莉は戸惑い、康二は担がれないぞと言わんばかりだ。

「昨日も自販機のところで会っただろ?」

「無駄よ。その二人に、私は認識できないわ」

「なん……だって……」

 無機質な少女の声に俺は息を呑む。

「二人には私は見えないし、声も聞こえない、と言ってるの」

 寂しげな表情に変わり少女は言う。

「ああっ、そろそろ行かなきゃ、予備校に遅れちゃう」

「友里! 肝試しの続きは、また今度時間に余裕がある時にしようぜ」

 二人はスマホで時間を確認すると、ばたばたと駆けて行った。

 静寂と夏の日差しの下、後には謎めいた少女と俺が残された。

「二人には見えないってことは……それじゃまるで幽霊だ」

 笑い話にもっていきたいところだが、真莉と康二は冗談でもなく本当に見えていなかったようだ。

「そんなところよ」

「そういう話は見ず知らずの人間にすることじゃないと思うけどなあ」

「だったら……私は周防沙耶香よ。これで見ず知らずってわけでもないでしょ」

 少女は名乗ってきたが、俺はその周防というのに聞き覚えがあった。

「周防って……まさか」

「知っているなら、たぶん、あなたの考えている通りよ」

 昨日の昼に康二が話していた人物の娘、ということらしい。

「だったらなんでまた俺に取り憑いたりしてるんだ?」

「あなたに良くないことが起きるからよ」

 沙耶香と名乗った少女は沈痛とも言える表情で言ったが、その時にはまだ俺は少女の深刻さを読み取れなかった。

 俺はただ、表情の乏しい白皙の少女とその言葉に戸惑うばかりだった。



   5

「で、何する? と言っても大したものもないけど」

「お構いなく」

 沙耶香を部屋に招き入れてみたものの俺は何をするか考えあぐねていた。

 不吉なことを言うこの少女を俺は最初は相手にするつもりもなく、一人で自室に戻っていた。だが、午前からうだるような夏の日差しである。炎天下に少女を一人放っておくわけにはいかなかった。たとえ幽霊だったとしてもだ。

「ゲームでもするかな……」

 そんなわけで沙耶香と二人で冷房の効いた部屋で、一昔前のRPGでもすることにした。真莉と康二といるときはテキトーに駄弁っていると時間があっという間に過ぎてしまうが、昨日今日出会ったばかりの沙耶香とでは特に話題になるようなこともなかったのだ。

「お構いなく」

「まあ、そう言わずに」

 俺がプレイしていたRPGの途中からの続きを見せても面白くないだろうと思い、沙耶香に最初からはじめてみるように勧めた。

「私、テレビゲームはやったことないの。ボタンもいっぱいあるし、よくわからないわ」

「だったら、なおさらだよ。コントローラーはこう持って、ボタンも最初はこの二つだけ押せば良いから。あとは画面を見ながらで。大抵のことはチュートリアルで身についていくから」

 初めて触るゲーム機の説明をしながら、有無を言わさずゲーム機の電源を入れる。口で説明しても面白くないだろうし、実際にプレイしてみるのが一番楽しいだろう。習うより慣れろである。


「面白かったけど、ちょっと疲れたわ」

「休憩でもするかぁ」

 小一時間ほどゲームをしていたがあっという間に過ぎたようだ。オープニングを見て最初の街でいろいろ見て回って、街の外でバトルを経験して冒険の始まりだ、ってところだ。確かに一休みしたいと思うだろう。初心者なら尚更だ。

「ところで、幽霊はアイスとか食べるの?」

「お構いなく」

「そんなこと言われても、女の子を放っておいて目の前で、自分だけアイスを食べるのもどうかと思うのだけど」

 そう言う俺に沙耶香は軽くため息をつきながら肩をすくめていた。器用なものである。

「あなた変わってるわね。幽霊だと思うのなら、たいてい気味悪く扱うばかりだと」

「別にそこまで気味が悪いなんて思わないよ。変わってると言われたらまあそうかもとは思うし、言われ慣れてる気もする。で、食べる?」

「……頂くわ」

 そんなわけで冷蔵庫からアイスを二人分取り出してきて、二人で食べていた。バニラの味が口の中に広がっていく。部屋は冷房を効かせて暑過ぎず寒過ぎずだったが、暑い日が続く季節柄、甘さとそれ以上に涼を欲する身体が冷えていくのを感じた。

 夏休みに入ったら受験勉強をする、と言っていた気もするが、まあ今日くらいは良いだろう。

「沙耶香は、何か未練とかあるの? 聞いて良いかどうかわからないけど」

 幽霊である。未練があるから成仏できないのだろう。

「未練というか……。やらなくちゃいけないことがあるの。私にしかできないこと」

「それは、俺に良くないことが起きる、と言ったのと関係がある?」

「そんなところよ」

「良くないこと、って具体的には?」

「それはわからないの。その時になってみないと」

 幽霊も流石に未来予知ができるわけではないようだ。幽霊をなんだと思っているのかと言われれば、確かに未来予知なんて無理な話である。

「それで俺に取り憑いている、ってわけだ。それじゃいつまで取り憑いているかもわからなさそうだなぁ。あ、取り憑いているって表現に気を悪くしたらごめん」

「別に気にしないわ」

 そう言いながら沙耶香は苦笑した。幽霊も苦笑するんだなと妙に感心した俺だった。

 そんな会話をしながらアイスを食べて、ゲームの続きをして、俺が作った二人分の炒飯を昼食にして、午後もゲームをして一日が終わった。暑さがまだ残りながら街が茜色に染まる夕方、沙耶香は母親の待つ自宅に帰るそうだ。康二の言ってた噂話の通りなら、まあそうするよな。

「ひょっとして明日の朝も来る?」

「ひょっとしなくても来るわ」

「はあ」

 間の抜けた返事をした俺に沙耶香はくすくすと笑った。子供っぽい仕草ではあったが、初めて笑顔を浮かべた表情は見ているこっちまで楽しくなるようなものだった。ちょっとばかり明日が楽しみになるような笑顔だ。


 その日から一週間ほど、沙耶香が朝にやって来て夕方には帰っていくという夏休みだった。

 うちは父親が単身赴任で少し離れたところに住んでいて、母親も平日は仕事、土日祝日は父親のところへ行ってあれこれ世話を焼いている。仲の良い夫婦なのは良いことなのだろう。

 真莉と康二のそれぞれ二人のうちは少し古い木造の大きな家で、お盆と正月には親戚が帰省して集まって、というタイプの夏休みを毎年送っている。今はまだお盆には早いが、お盆には予定が合わない親戚が早めの帰省をする、ということでなかなか忙しいようだ。受験生なのもあるが、同年代の子供たちの相手をしなければいけないという意味でだ。

 そんなわけで俺は沙耶香とゲームをしたりトランプをしたり駄弁ったりで受験生とは思えないぐうたらぶりだった。しかし、ゲームもそれほど熱心ではなかったので、クリアすることもなく途中で飽きが来ていた。

「音楽でも聞くか……」

 とは言うものの俺が持っているCDやダウンロード購入した歌なんかは大したものがなかった。流行りの歌、というのを追いかけているわけでもない。そこで、さっきまでやっていたRPGのサントラを選んでみた。この何日か沙耶香と二人でゲームをしながら聞いた曲が部屋に流れる。

「沙耶香は退屈してる?」

「別に。ゲームは楽しかったわ。この曲も、切ないけど、良い曲だと思うわ」

「それは良かった。なになに、この曲は……なんて読むんだっけ?」

「『憧憬』ね。しょうけい、あるいは、どうけい、とも読めるけど」

「なるほど」

「ドイツ語のSehnsuchtの訳語らしいわね。誰の造語だったかな」

「良く知ってるなあ」

 俺は舌を巻いた。相当理知的な幽霊である。

「それにしてもこの言葉、あこがれ、と読める二つの漢字を重ねて造語するなんて」

「なんて?」

「造った人は相当ロマンチストね」

 なるほど。言われてみれば確かにロマンチストだ。それにしてもそういう感想を抱く沙耶香だってやっぱりとてもロマンチストに思えるのだが。俺は素直にそのことを伝えてみた。

「そうかな。そんなこと言われたの初めて」

 すると沙耶香は、照れ臭そうにはにかんで笑った。

 その笑顔は純粋な嬉しさを体現したものだった。見ているこっちまで嬉しくなるものだ。そんな笑顔になれるものを、もっともっと贈ることができたならと思った。

 始まったばかりの夏休みは、その日も暑く一日は長かった。



   6

 迂闊だった。

 いや、こうなることは予想できたはずだ。それなのになぜ……。

 沙耶香と昼食後、アイスを食べようと冷凍庫を覗くと、そこには常備していたはずのアイスがなかった。母親が時々補充してくれてはいたが、消費が倍になっていたとは思うまい、ついに底がついたのだ。

「まあ、買いに行けば良いだけの話だな」

 それにしても今日も外は暑いだろう。リビングの薄いカーテン越しに覗く日差しが無言で圧をかけてきている。

 暑さを恐れて、買いに行くのをやめればアイスは手に入らない。アイスがなければ、甘さと涼を得ることは叶わない。単純な話だ。

 あれ? そこまでしなければアイスって食べられないものだったかな……。

「ちょっと近くのスーパーまでアイスを買いに行くけど、沙耶香はどうする? うちで待ってる?」

「私もついていくわ」

「すぐ戻ってくるんだけど……。ひょっとしてそこまでの道でも良くないことが起こるかもって話?」

「そんなところよ」

「はあ……」

 外出前に、良くないことが起こるかもしれない、と言われたら、流石の俺も二の足を踏みそうになった。だけど、一週間も部屋の中でだらだら過ごしていては、窮屈でたまらなかった。身体と精神が外の空気を欲していたのだ。

 玄関のドアを開けて沙耶香と二人で一歩外に出ると、七月下旬の太陽の光と、太平洋高気圧がもたらした暑い、いや熱い空気がまとわりついてきた。沙耶香はフリルのついた日傘で暑さの原因を半分ほどカットしていたが、熱気の方はどうしようもない。

「今日も暑いなあ」

 ぼやきながら炎天下の街を歩く俺と幽霊だった。

 それにしても、この二人を街の誰かが見たらどう映るのだろうか。

 まあ、多分、暑さに半ばのぼせながら男子高校生が妙な独り言を言いながら歩いていると映るのだろう。あまり外で沙耶香に話しかけるのはよしたほうが良さそうだ。

「ちょっと、あの子……」

 俺がひとり奇行を抑えようと思案しているのと裏腹に、沙耶香が声をかけてきた。

 沙耶香が指す方向に一人の少年が立っていた。バス停の傍である。バスを待っているのだろう。

 だが、沙耶香が言いたいのはそんなことではないようだ。

「何? ひょっとしてあの子の身にも良くないことが起こるってんじゃないだろう?」

 俺は冗談っぽく言ってみたが、沙耶香の表情は一ミリも冗談を滲ませるつもりはなかった。

「本当に、良くないことが起こるってんだな?」

 沙耶香は無言で頷く。

「だったら、あの少年についていけば良いんじゃないかな。俺のことは別に気にしなくても……」

 そこまで言って、沙耶香がひどく困った表情をしているのに気づいた。

 ああもうわかったよ。

「じゃあなんだ。俺があの少年について行けば良いんだな? そうすれば沙耶香は少年と俺と、良くないことが起きる二人から目を離さなくて済む。そう言うことだな」

「……ありがとう」

 沙耶香は小さく礼を言った。それにしたって、良くないことは起きて欲しくないものである。

 二人でバス停に並んだが、都会から離れたこの街ではバスは一時間に一本か二本だった。炎天下で長時間は待ちたくないなと思いながら、時刻表とスマホの時計を付き合わせようとした。

 そこにタイミング良くバスが到着した。

 バスに乗り込む少年を逃すまいと、俺は沙耶香と行き先も確認せずに乗り込んだ。

 一体いつぶりだろうか、バスに乗るのは。走り出したバスに揺られながら思う。小学生の頃は街外れの閑静な場所にある子供向けの学習塾に通うために、よくバスに乗っていたものだ。行き先を確認しなかったけれど、このバスもどうやら同じ方向に向かっているようだ。

「このバス、どこに行くのかな?」

 しばらくバスに揺られていると、沙耶香が小声で聞いてきた。

「多分、中学校、市役所あたりを巡って、街外れまで行って終点、かな」

 俺もつられて小声で答える。

 バスの乗客は少年と沙耶香と俺の三人だ。だが公共の場で大声で会話する趣味はなかった。

「街外れには子供向けの学習塾があるんだよ。俺も小学生の間、通ってた」

 その時分に勉学に目覚めていれば、今、受験だなんだと勉強に苦労することもなかったのかな、と考えもしたが、そうはならなかった。水に棲む魚の子供が空を飛ぶ鳥に育つことがないように、俺も自分の持って生まれた性分からは逃れられないようだ。

「なんだ? 兄ちゃんたち、カップルでイチャイチャして。デートならもっと場所を選べば良いじゃない?」

 少年は俺たちに声をかけてきた。カップルと来たもんだ。その言葉に俺はひどく驚愕した。いや、決してカップルと言われて良い気になったのではなく。

「お前……沙耶香が見えるのか?」

「変なこと言ってるなあ。カノジョはそう言う扱いをするもんじゃないとオレは思うよ。ほら悲しそうな顔してる」

 少年に言われて沙耶香を見ると、確かに悲しげな表情を浮かべていた。それも沈痛といったものだ。

「あ、オレは次で降りるから」

 そう言って少年は停車ボタンを押す。次止まります、というアナウンスの後しばらくしてバスは停まった。

 バスから降りていく少年を見ながら真剣な表情に戻った沙耶香も、俺を見て頷いた。俺たちも降りていった。

 小さな鞄を手に下げた少年は、バスから降りるとすぐに、かつて俺も通っていた塾の方向へ歩き出した。数分歩けば塾がある閑静な場所である。そんなに危険なことはないと思うのだけどな。

 そんなことを考えながら後をついていく。

 だが、数ヶ月前の春の日差しのような呑気な考えはすぐに打ち砕かれた。

 後ろから来た一台の乗用車がスピードを出したまま、一軒の民家の門につっこんだのだ。数メートル先を歩く少年を巻き込んで。

 少年のところへと駆け出そうとする俺よりも早く、沙耶香が前に出て何かを手繰り寄せようとしていた。俺の目には沙耶香の手に一本の細い糸が握られているのが見えた。


    *    *    *


 気がつくと俺はバスの座席で揺られていた。


 あれ? ここは?


 隣には沙耶香が無言で座っていた。少し離れたところに少年も座っている。

 バスの窓の外では中学校の校舎が後方へと流れていった。


 ああそうだ。沙耶香と一緒にバスに乗っているんだった。

 それにしても、さっきのは一体……。

 さっきまで? 何の話だ?


「沙耶香、俺たち、さっきバスから降りて……。あれ? なんだっけ」

 要領を得ない俺の言葉に沙耶香は俺を見返して寂しげに訴えかけてきた。

「友里、お願いがあるの。バスから降りたら、その少年と少しの間、おしゃべりしていてくれないかな」

「それは別に構わないが」

 沈痛な表情を浮かべた沙耶香の申し出を俺は承諾したが、それくらいなら沙耶香自身ですれば良いのでは、とも思った。

「なんだ? 兄ちゃん、一人でつぶやいたりして。顔色もあまり良くないし、大丈夫か?」

 少年は俺に声をかけてきた。その言葉に俺は驚愕した。なぜ驚いたのか、その理由は自分でもわからなかった。

「お前……沙耶香が見えないのか?」

「変なこと言ってるなあ。沙耶香って誰だよ。あんまり体調が良くないなら暑い中無理せず家で休んでいたら?」

 少年は本当に沙耶香が見えないようだ。いや、そうだ、幽霊のはずだ。自分以外見えないのが当たり前なのに、なぜ俺は少年が沙耶香を見えないことに疑問を抱いたのだろう。

「あ、オレは次で降りるから」

 そう言って少年は停車ボタンを押す。俺の疑念とは無関係に。そして、次止まります、というアナウンスの後しばらくしてバスは停まった。

 微かな既視感を覚えながら俺は沙耶香と一緒に少年を追ってバスを降りた。

「なあ、少年。その様子だとこの先の塾に通ってるのか?」

 俺は沙耶香に言われた通り、少年としばらく駄弁ってみる。

「なんだ? 兄ちゃん、塾に用でもあるのか?」

 少年は、沙耶香には一切目もくれず俺に疑問を投げかけてきた。

「いやあ、用があるってわけでもないけど、なんだか懐かしいな、と思って。工藤先生は元気にしてるかな?」

「あ、先生の知り合いなんだ。てっきりオレは不審者かと思ったよ。バスの中じゃ独り言呟いていりるし、なんか妙な様子だったしさ」

 俺も世話になった塾の先生の名前を出すと、ようやく少年は警戒心を解いてくれたようだ。

「まあ俺も小学生の間、六年間世話になったしなあ。勉強はほとんど身に付かなかったけれど」

「ダメじゃん」

 俺も少年も笑いながら会話を続ける。かと言って特に話題になるようなこともなかった。

 沙耶香の言う少しの間って、どれくらいだ?

 そんなことを考えて次の言葉を口に出そうとすると、突然、後ろから来た一台の乗用車がスピードを出したまま、数十メートル先の一軒の民家の門につっこんだ。

 突然の出来事に民家の住人が飛び出してきた。俺と沙耶香も少年と共に事故車両に近づいていって、運転席を見る。飛び出したエアバッグに助けられた様子の運転手だが、それでも意識がないようだった。

 俺も少年も動転して咄嗟に何をすれば良いのか判断がつかなかったが、民家の住人はスマホでどこかに連絡をとり、その指示に従いながら、運転手に心肺蘇生を行っていった。

 そしてしばらくして救急車が来て運転手を乗せて病院へ向かっていった。

 その後、俺も少年も現場検証に訪れてきた警察に幾つかの質問をされて答えていた。

 その場に居合わせた沙耶香には誰も目をくれずにいた。やはり誰も沙耶香を見ることはできないようだった。

 事故から小一時間ほど経ち、幾分天候が怪しくなって暑い日差しが遮られた頃、ようやく俺も少年も解放された。

 少年は塾に向かっていった。ずっと沈黙を守って様子を見ていた沙耶香は少年については何も言わなかった。

 解放された俺はバス停に戻り、さっきから抱いていた疑問を沙耶香に尋ねることにした。

「なあ、沙耶香。あの少年は追わなくて良いのか?」

「ええ」

「それは、あの少年にはもう良くないことは起きないってことか?」

「それはもうわからないの。ただ、私にできることはもうなくなったってことなの」

 どういうことだろうと沙耶香に尋ねようとした時、俺のスマホが鳴動した。

「あ、ちょっと待って。出ても良いかな?」

「どうぞ」

 電話は真莉からだった。

 真莉も康二も、昨日今日あたり親戚の子供たちの相手から解放されたらしい。そして今日は朝から二人、予備校に通い、それもさっき終わり、今は川沿いの公園近くの東屋でジュースを飲みながら駄弁っているようだ。そして、俺も来られるなら来るように、と誘われた。その東家は、俺が今いるこの辺りから歩いてすぐのところのようだ。久しぶりに二人にも会いたくなった俺は、二つ返事で応諾した。

「悪い、沙耶香。二人がこの近くで駄弁っているらしい。俺も行くことになったけど、沙耶香はどうする?」

 スマホをポケットに入れた俺は沙耶香に聞く。

「私はいいわ。どうせ二人には見えないのだし。この辺りで時間を潰しているから」

「そっか。雲が出てきたけど、まだまだ暑いから無理しないようにな」

 この後の天候も悪くなる一方のように見えた。

「それは友里もね」

 日傘の下で微笑んだ沙耶香が小さく手を振った。俺も手を振ってそれに答えて二人のいる東家へと向かった。


   7

「あら、思ってたより早く来たじゃない。ホントに近くまで来てたんだ」

「まあな」

 真莉と康二に再会した俺は答えた。

「気分転換を兼ねてアイスを買いに散歩でもしてるって聞いたけど、お前のうちからはこんなところまで普通来ないぞ」

「それは事情があるんだよ」

 康二の鋭い突っ込みに俺は笑いながら答えた。だけど、沙耶香のことはどう言えば良いのか。辻褄の合う説明を考えようとした時、遠くの空で雷が鳴り、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。

「天気が悪くなってきたな」

「ええー……」

「おや、真莉さんや。その様子だとお化けだけじゃなくて雷まで怖いと見える」

 三者三様の反応である。

「いやあ、怖いっていうか圧迫感を覚えない? 集中豪雨とか、雷とか」

「確かに轟音を伴うと怖いよなあ」

 俺は真莉に同意した。天気の方も同意したのか、実例を見せようとしたのか、雨は時間と共に豪雨へと変わってきた。

「空気を読む天気だな、オイ」

 康二はそう呟いたが、真莉は少し怯えはじめ、いつものように康二に突っ込みを入れることもなかった。

 雷の音は近づいてきて、豪雨も、真莉の言うように圧迫感を覚えるほどになってきた。

「これはちょっと、いや、かなりシャレになってない天気だな」

「俺は傘を持ってないから、どの道、止むまでここから離れられないなあ」

 康二も俺もなんとか平静を保とうとしていつも通りに軽口を叩くことに努めていた。

 近くで空が光り、ほんの少し遅れて轟音が鼓膜と体を揺らす。

「きゃっ」

 真莉は消え入りそうな悲鳴を上げた。

「大丈夫だよ、真莉。いざとなったら俺たちがなんとかするから」

「おうよ。具体的にどうするかは、まあその時になってみないとわからないけどな」

 俺も康二も真莉を安心させようとするが、雷の方はその気がまるでないらしい。

「ありがと」

 真莉は今にも泣きそうな表情だ。そんな真莉を俺はどうにかしたかった。


 でも、どうすればいい?

 どうすればよかった?


 今にも身の危険を感じそうな様子に俺は自分にできることは何かと考えようとしていた。

 その時。

 視界が真っ白になった。

 そして全身に衝撃を感じた。


    *    *    *


 気がつくと俺はバス停に立っていた。

 雨は降っていない。雷も聞こえない。

 目の前には沙耶香がいた。

 沙耶香もまた半ば泣きそうに見えた。


 沙耶香もまた?

 誰が泣きそうだったんだ?


 疑問が浮かぶが、いったい何の話なのか自分でもわからなかった。ただとても良くない、いや、壊滅的に苦しく悲しい出来事のような気がしたが、思い出せなかった。

 ああ、そうだ。沙耶香には聞きたいことがあったんだ。危うく自動車事故を免れた少年のことだ。

「なあ、沙耶香。あの少年は追わなくて良いのか?」

「ええ」

「それは、あの少年にはもう良くないことは起きないってことか?」

「それはもうわからないの。ただ、私にできることはもうなくなったってことなの」

 いつかどこかで交わしたかのようなやりとりに既視感を覚えた。そのことも含めて俺は沙耶香に尋ねようとした時、俺のスマホが鳴動した。

「あ、ちょっと待って。出ても良いかな?」

「待って。出ないで。話があるの。とても大事な話」

 沙耶香は深刻さと沈痛さを伴った表情で、俺が電話に出るのを止めた。

「ん? それは今しなきゃいけないことか?」

「そう。今しておかないといけないの。先送りにはもうできないの」

 妙な言い回しだな、と思ったが、沙耶香の表情には余計な突っ込みを入れる余地はなかった。

「まあいいさ。俺も沙耶香に聞きたいことがあるしな」

「そう。じゃあそれから答えるわ」

「ん? 別に俺の話は後でいいんだけど」

「いいのよ。私の話は後にさせて」

 どこまでも真剣な表情と口調の沙耶香だった。そこまでされたら沙耶香の話を後にしないわけにはいかなかった。しばらくしてスマホの受信メロディが途切れる。

「それじゃ、聞くけどさ。あの少年、本当は自動車事故に遭ってよな? 何を言ってるのかわからないかもしれないけど、俺は確かに見た気がするんだ。少年が事故に遭って、その後、沙耶香が何かを手繰り寄せてる光景も」

「ええ。その通りよ」

「いったい沙耶香は何をしたんだ? 少年に良くないことが起きるって言っていたけど。俺の既視感と何か関係があるのか?」

「私は相手の運命がわかるの。生死に関わる場合だけ。そして一度だけ、その人の運命を変えることができるの」

「だから、少年は事故に遭わずに済んだってのか、沙耶香のおかげで」

「ええ」

「それなら、あの運転手の運命だって変えられたんじゃないのか?」

 俺がそう尋ねると、沙耶香は今にも泣き出しそうな表情で答える。

「私が運命を変えられるのは一度きりなの。私が、その人との運命の糸を手繰り寄せると少しの間だけ時間が戻る。それで命を救うことができても、それは一度きり。二度目はないの」

「それじゃあ、あの運転手は、以前どこかで沙耶香に助けられたことがあるのか?」

「ええ」

 どこか遠くで雷の音が聞こえ始めた。

「それじゃ、あの少年が沙耶香を見えなくなったのは……」

「本当は私は幽霊じゃないの。私は、私とあの少年とを結ぶ運命の糸を手繰り寄せて事故から救った。でもそうすることで糸は切れてしまうの。運命が交差することのない相手となった私を、彼らは認識できなくなるのよ」

 沙耶香は悲痛な声で説明する。

 ぽつり、ぽつりと、雨が降り始めた。

「ちょっと待った。だったら真莉と康二が沙耶香を見えないのは……。いや、それよりも、さっき俺は……」

「その二人の糸はもうすでに一度手繰り寄せてしまっていたの。だから私を認識することができない。そして、さっき私は友里の糸を……」

 そこまで言われて沙耶香の手に糸が握られているのを見つけた。

 その糸の先は……どこにも繋がっていなかった。

 沙耶香と俺を繋ぐ運命の糸は、もう途切れてしまっていた。

「待ってくれ沙耶香。俺はいい。二人は、真莉と康二の二人はどうなるんだ」

「無理なの。二度目はもうないのよ」

 今にも消え入りそうな沙耶香の声だった。

 いや、実際に沙耶香の姿は、この季節の陽炎のように儚く消えていった。

 声も、姿も、涙を浮かべたその表情も。

 待ってくれ。沙耶香。

 行かないでくれ。やっと仲良くなれたんじゃないか。笑顔を見せることができたじゃないか。沙耶香にやりたいことがあったように、俺にだって沙耶香のためにもっともっとやりたいことがあるんだ。だから……行かないでくれ。


 もっと?

 誰に?

 いったい何の話だ?


 土砂降りの中、一人残された俺は思い出せない何かを思い出そうとしていた。大切な、何よりも大切な相手のことだった。

 だが記憶からは何も辿れなかった。頭の中からその相手の全てのことが失われていた。失われていたことさえ考えられなくなっていた。


 そうだ。

 真莉と康二が。

 二人の身にこの後……。


 なぜこの先二人に訪れる運命を知っているのか、自分でもわからなかった。だけど、著しく視界の悪い集中豪雨の中、俺は東屋に向かって必死に走り出した。そうしなければいけないと確信して。

 空が白く光る。圧迫感を覚えるほどの激しい豪雨。


 だめだ。

 間に合わない。


 このままだと自分だけがまた助かって、今度もまた二人が助からない。


 また?

 今度もまた?


 どうしてそのことを知っているのだろう。だが、そんなことを考えている余裕はなかった。一刻も早く二人の元へ行かなければ。

 次の瞬間、東屋の方向に激しく光る雷が落ちた。

 そして俺は……二人の運命の糸を手繰り寄せた。



  8

 あれから、街中で何度も真莉と康二の二人とすれ違うことがあった。だけど二人は俺に気づくことはなかった。

 ごめんな、二人とも。俺もやりたいことが見つかったんだ。自分にしかできないこと。

 一見平穏無事に見えるこの街でも、意外なほど頻繁に人は命の危機に晒されていた。事件、事故、ちょっとした手違い。そんなことがありながらも、人はすんでのところで命拾いをしたと思っている。

 その中には沙耶香の活躍があった。沙耶香が運命の糸を手繰り寄せることで、その人が破滅の淵から後一歩で助けられていた。

 そして俺もこの夏休み中、街の中をあちこち駆け回っては、薄氷の上を歩んでいるような人たちの運命の糸を手繰り寄せていた。

 今なら、沙耶香が動きやすい格好をしていたのも良くわかる。

 それだけじゃない。やらなくちゃいけないこと、自分にしかできないことだと言っていたのも。


 そうだよな。

 自分が誰かを助けられると知っていながら、見て見ぬ振りはできない。

 自分にその術があるのに、助けられる相手を助けないなんて、許せないよな。


 俺が再び沙耶香のことを認識できるようになったのは、きっと俺もそっちの側の人間になったからだろう。

 それじゃ、行こうか。沙耶香。

 今日も誰かのために街の中を駆け回ろう。


  了

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