前編
「コラァ――!!! 私に勝てると、思うなぁ――!」
路地に響いた絶叫に僕はピクリと身を震わせていた。
ヤクザ集団がうろつくこの地域はあまり治安が良くない。
よって、このような争いは日常茶飯事である。ヤクザとヤクザの諍い。僕のような健全なる一般市民はそれを遠目から眺め、遭遇してしまった場合はなるべく見つからないように隠れるか撤退するのが吉である。
現に僕は今、電信柱に身を潜めていた。そして一歩も動けないまま、目の前で繰り広げられる激闘に釘付けになっている。
しかしそれはただのヤクザ同士の喧嘩ではなかった。
つい先ほどまで五人のヤクザに取り囲まれ、脅されていたはずの若い女性。彼女が驚異的な力によって五人全員を吹き飛ばしていたのだ――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
僕の通うH高校の事務員、依馬さんは何の変哲もないどこにでもいるような女性である。
まあ、強いて特徴を上げれば、神出鬼没だということくらいか。
どこからともなく現れて、素行の悪い生徒をやんわりと叱責する。
その表情はとても穏やかで、叱責というよりは諭すという方が正しいだろう。しかし彼女に注意されると誰もかもが大人しくなるという噂があった。
実際僕は一度もそんな場面に出会したことはないが。
……そしてその噂を除けば、依馬さんは平凡中の平凡な女性。
別に美人なわけでもない。いつでもダボダボな服を着ているし、なんというか……そう、パッとしないのだ。
だから僕は今まで彼女の存在を特段気に留めたことなど一度たりともなかった。学校で数日に一回顔を合わせ、「おはようございます」と挨拶を交わすだけの間柄だった。
――なのに今の依馬さんはなんだ!?
「ま、参った……」
「見逃してくれっ。お願いだからっ」
「ぐふ、ぅ」
「…………」
「……」
一度投げ飛ばされただけではなく、立ち上がって逆上しながら依馬さんを襲おうとしたためにさらに何度か彼女にボコられたヤクザたちが息も絶え絶えに懇願している。
その中央で傷一つなく立っている依馬さんは、ダボっとした服の袖をまくり、恐ろしく逞しい筋肉を晒していた。
――え、あれは隠れマッチョというやつでは!?
僕はあまりの驚愕に思わず声を上げそうになったが、寸手のところで堪えた。
パッと見たところ普通の体型に思える依馬さん。しかし僕はこの瞬間、彼女が隠していたであろう真実を知ってしまったわけである。
そんな僕の驚きをよそに、依馬さんは鬼のような顔で彼らを見回しながら言った。
「この辺りは学校があり、生徒が通ることもあります。こんな場所で悪事を働いたからには許すことはできません。あなた方は警察に突き出します」
「勘弁してくれよぉ……」
「何を言っても無駄です。せいぜい自分の過ちを反省することですね」
動けない男五人に構わず、依馬さんはスマホを取り出し、警察へ電話し始めた。
僕はそれでハッと我に返った。もうすぐここに警察が来る。となれば現場を見てしまった僕は事情聴取を受けることになるだろう。
ああ、どうしよう。逃げなくちゃ。できるだけ依馬さんに見つからないように、こっそりと……。
「そこに誰かいるんですか」
「ヒィィィィィィ!」
――簡単に見つかった。
ダメだった。電信柱の影から一歩動いただけで見つかった。
僕が恐る恐る振り返ると、そこには依馬さんの顔。僕の襟首をがっしり掴んでいた。
「…………? あなた、ヤクザじゃないですね。というかその制服はH高校の生徒では?」
眉を顰める依馬さん。僕は震え上がって、情けないことに声すら出ないでこくこくと必死で頷いた。
「もしかして、いいえ、もしかしないでも、さっきの私の行動……隠れて見ていましたよね?」
「――っ」
「ですよね?」
ダメだ。壁ドンされた。これは嘘を吐いたら殺されるパターンだ……!
ヤクザ並み、いや、ヤクザ以上に怖い依馬さんを前にして、とても生きた心地がしなかった。僕は壊れた人形のように首を縦に振り続ける。改めてとんでもないものを見てしまったのだと思った。
が――。
「え、見られた!? 見たんですか、私を! えっ、どうしようっ? 私の隠れマッチョを見られたなんて!」
依馬さんは予想に反して慌てふためいていた。え? どういうこと? ますますわけがわからない……。
でも依馬さんが必死なのは伝わって来た。そのまま彼女は悲鳴のような言葉を続けたのだ。
「絶対、このことは秘密! 絶対、絶対内緒ですからね!」
「は、はい……」
「絶対ですよ! さあ、警察が来る前にとっととお逃げなさい」
僕はそのまま、流れるような動作で逃げさせられてしまった。
――まったく、どうなってるんだ一体?
僕は混乱する頭を押さえながら、どうにかこうにか帰途に着いたのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――引き締まったボディ。鍛え上げられた筋肉が美しく、輝いて見えた。
僕は依馬さんのマッチョな体つきを思い出す度、悶絶していた。僕のタイプの女性はほっそりしたほんわか可愛い系女子などではなく、マッチョで背の高い女性。つまり好みのドンピシャが依馬さんだったのである。
……と言っても、普段は二次元で堪能しているものだから僕がマッチョな女子を見るのは初。でも三次元は想像以上に凄まじかった。
故に、恐怖から解放された僕はたいへん興奮していた。
「まさかあの依馬さんが、マッチョだったなんて……信じられない! しかもいつもは穏やかなのに土壇場で馬鹿力を見せるギャップとか、カッコ良さすぎだろ!! 反則! 反則だぁッ!」
一方で僕はこの気持ちを一体どうしたものかと考えた。絶対、次に依馬さんに会った時、平静を保てなくなってしまうだろう。
もしかしたら依馬さんの目の前で鼻血を出してしまうかも知れない。いや、まさかそんな漫画みたいなことにはならないと思うが、それでもやらかしかねないので怖いのだ。
「落ち着け僕。いつも通りにすればいいだけだろ。もしもバッタリ出会してしまったとして、普通に挨拶すればいいだけなんだから。なんなら無視してもいい。ああ、でもそんなことが僕にできるのか……?」
しかしいざ依馬さんを前にして変なことでも口走ってしまえば、最悪殺されかねない。何せたった一人でヤクザ五人を跳ね飛ばしたくらいだ。穏やかだと思い込んでいたがあっちが依馬さんの素なのかも知れないし。
そう考えている間にも僕の脳裏にチラチラと蘇る依馬さんの姿。あぁ、三次元のムキムキボディに埋まってみたい。
ダメだ、これは本気で鼻血が出て来そうだ……。