一つのお節介
落ち込んだ時に自分自身の背中を押す。
これはたぶん、一つのお節介。
誰もが一度は考えること。
自分という存在に対しての、その「存在意義」。
あるいは「人としての価値」。
何故、生まれたのだろう。
何故、生きているのだろう。
そう漠然と思いながら、日々を過ごしていく。
昔の賢く、偉人と呼ばれる人も、生涯の中で考え、苦悩していただろう。
彼らは答えのような言葉は残している。
だけど、それはぼんやりとしていて、掴みどころがない。
掴んだと思ったら、ひょろりと抜け出してしまう。
何故なら、その答えの多くは、なし得た者の言葉であって、自分とは違うと感じてしまう。
なりたいもの、得たいものために努力はするが手には届かず。
優れた者に追い越され、自分が求めるものを容易く手にした相手を、羨望と嫉妬の眼差しで見つめる。
「努力が足りない」「すぐに諦めるからだ」と言われ、その言葉に背を押されるも結果はともなわず。
時間だけが過ぎ、それと共に聞こえてくるのは嘲りと中傷の言葉。
「無駄な努力」
「負け組」
そんな言葉が投げかけられ、己という存在は蝕まれていく。
心がズタズタに引き裂かれたところに、「精神・心が弱い」などと追い討ちをかけられる事さえある。
そんな、絶望といえる状況で「愛」「思いやり」「優しさ」などの言葉を投げかけられても、空虚な響きでしかない。
自分だけが世界から取り残されたと感じ、自己の存在意義を価値を見い出せず。
戻ることもできず、行くことも憚られ、ただ途方にくれる。
そう思う、そう感じる時こそ笑って欲しい。
目元が赤く腫れ上がっていても笑って欲しい。
そこにある羨みや嫉妬、妬みなどの負の感情というものを含めて笑い飛ばして欲しいのだ。
ただし、それは笑い飛ばしても良いが、投げるものではない。
笑って飛び散る分には何も問題はないが、自分の意思でその感情を他者に向けて投げ出すとそれは刃となる。
実はそれ、宝なんだ。
感情っていうのは宝なんだ。
神さまのくれた、扱いにくい、最高の贈り物。
それは重く鋭い宝剣のようなもの。
それを持つと言うことは、ときに重く、苦しいことでもある。
そして厄介なことに非常に扱いが難しい。
だから手放そうとする人もいる。
だけど重いからだと、苦しいからだと、その宝を言葉にのせて放つ行為は、容易に向かいの相手を傷つける。
放った時はスッと軽く感じるかも知れない、けど同時に宝を失っている事でもあるんだ。
だから、そのような行為は、相手からは心に宝を持たぬ、貧しく軽い人間であると思われる。
その宝は投げれば投げるほどに失われていく。
必然的に、自らの価値を下げることになる。
だから、それは大事に胸にしまってもらいたい。
そっと静かにしまってほしいんだ。
だけど、この宝に執着してもいけない。
重く鋭いから、執着して溜めすぎると自分自身を大きく傷つけることもある。
そんな時は、信頼できる人に少しだけ漏らしても良い。
もしかしたらその人が一緒に支えてくれるかも知れない。
でも、相手はよく見なければいけない。
心ない人だったら、逆に酷く傷つけられることになるからだ。
結局、どのようにすれば良いかなんてその時の状況でも変わるし、「あのようにすれば良かった」と後悔がついて回ることもある。
それほどまでに扱いが難しいものなんだけど………
だけど、それを持つということが人というものなんだ。
それが生きるということなんだ。
光があれば闇がある。
それと同じように、喜びもあれば悲しみもある。
「そんなこと分かりきっている!」
憤りの感情と共に、そう叫ぶ人がいるだろう。
何せ、その叫びは私の心の内にもあるのだから。
だけど、だからこそ、できれば怒りのままに叫ぶのではなく。
ボヤくように呟くように「バカが……」とでも笑ってもらいたい。
その笑いの中に嘲りを含んでいたとしても、その程度なら、誰も気にもとめない。
誰も傷つけない、誰も傷つきはしない。
結局、何も変わりはしない、自分の心の内に小さな決着がつくだけ。
だから、これは一つのお節介。
「生きる」って本当に何なんだろうね?