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CODE:I  作者: 一木 川臣
第3章 〜欠けた歯車〜
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黒煙

 ——ドンッ!


 爆音が、雷鳴よりも鋭く、零佳の鼓膜を貫いた。空気が一瞬で張り詰め、頭蓋の奥まで音が響き、意識が揺さぶられる。


 反射的に身をかがめ、腕で顔を覆う。視界が瞬時に闇に包まれ、耳がキィンと高音を響かせる中、零佳は必死に状況の把握に努めた。


 ——煙幕だ。


 すぐに察した。夏希が仕掛けたものだ。あの間合い、あの爆発のタイミング。すべてが計算され尽くしていた。視界を遮り、混乱を生むための、完璧な布石であった。勝つためなら、手段は徹底する、夏希の冷酷なまでの甘えの無さを物語る攻撃だ。


 爆風で泥が舞い上がり、右目に直撃した。瞬間的な痛みと涙で視界が霞む。反射的に顔をしかめ、後ずさる。辛うじて左目だけは開けていたが、その先に広がるのは墨を流し込んだような濃い闇——濃煙だった。


 視界ゼロ。どこを向いても、ただの黒。


 その異様な煙の量に、思わず零佳は咳き込んだ。空気を吸うたびに喉の奥が焼け、肺が悲鳴を上げる。煙はただの霧ではない。何かが混ざっている——そう直感できるほどに、咳は止まらなかった。


 夏希の姿は、どこにもなかった。


 まるで闇そのものに溶け込んだように、気配すら消えていた。霧と煙と雨。あらゆる“遮蔽”が視覚と聴覚を奪っていく。


 ……っ……見えない……聞こえない……


 こんなに静かなのに、何も聞こえない。耳に届くのは、ただ雨が地面を叩く音だけ。煙が立ち込める中で、夏希の気配すら探知できない。研ぎ澄まそうとする感覚が、無力なまでに外界と断絶していた。


 どこから来るのかも、まったく分からない。


 上か、右か、あるいは左か——何もかもが霧に飲まれ、視覚も聴覚も信じられない。煙はただの視界妨害ではない。そこには恐怖すら含まれていた。


 息をするたびに喉の奥が焼け、泥と血の匂いが鼻に届く。その中で、たった一つだけ確信できることがあった。

 ——“あの刃”は、確かにこの中にいる。


 樹海に溶け込むように、夏希は零佳を狙っていた。


 零佳の周囲を、静かな音が流れる。かすかな枝の揺れ、濡れた地面を踏む足音、あるいは風に紛れた衣擦れか——どれもが錯覚のようで、どれもが確信めいていた。

 見えない相手は、何の感情もなく、ただ静かに、確実に、煙の中を彷徨う自分を狙っているのだ。

 心が震えた。


 雨の寒さではない。恐怖だ。冷たく、身体の芯から凍らせるような恐怖。


 売木夏希——あの名が、なぜこれほどまでに敵から恐れられていたのか。その理由が、いま、零佳の全身を包んでいた。完全に自分の知っている姉ではなかった。


 この“見えない殺意”そのものが、夏希の真骨頂なのだ。気配も音も、その全てが削ぎ落とされ、ただ“刃としての存在”だけが、煙の中に潜んでいる。


 ——けれど。


 それでも零佳は、崩れなかった。


 震える心を、呼吸で鎮める。腹の底からゆっくりと息を吐き、刀を持つ手に力を込める。


 瞳を閉じた。


 視界など、最初から頼るつもりはなかった。


 静寂の中、五感を研ぎ澄ませる。わずかな風の乱れ、葉の揺れ、泥の跳ねる音。そのすべてに集中し、自分の周囲に広がる空間の“密度”を測る。

 この空気のどこかに、“殺意の点”があるはずだ。


 その矢先——


 猛然と接近する気配が、空気を切り裂くようにして零佳の背を打った。雷鳴のように鋭く、突風のように疾い“殺気”。それは、言葉ではなく感覚で届くものだった。


 咄嗟に、零佳は上段に構えた。身体が、意識よりも先に反応していた。


 刹那。


 頭上から、鋭い音と共に気流が裂ける。


 空の方角——そう、まるで空中そのものから振り下ろされるような、正確無比な斬撃。


 夏希が煙を切り裂くようにして、零佳へと襲い掛かってきた。


「--くっ!!」


 反応は間に合った。致命傷は免れた。だが——その一撃の重さは、尋常ではなかった。


 衝撃が全身を貫き、胸が内側から押し潰されるように圧迫された。そのまま零佳の身体は宙を舞い、重力に抗うこともなく、弧を描いて吹き飛ばされた。


 次の瞬間、雨に濡れた傾斜に背中から落ちる。ぬかるんだ土が滑り台のように零佳の身体を運び、彼女は斜面を転がるようにして転落していった。


 枝が肌を裂き、石が骨を打ち、服が泥に沈む。


 どこかの木の根元にぶつかるようにして、ようやくその身体は止まった。


 森の静寂が戻る。


 上空の雨は止むことなく降り注ぎ、倒れた零佳の上に冷たく落ちてきた。


「はぁ……はぁ……」


 浅く、苦しげな呼吸。意識はある。だが、全身が悲鳴を上げていた。


 白い服はすでに見る影もない。泥と水と血にまみれ、ぬかるみに沈み込むようにして、零佳は横たわっていた。手も、足も、顔までも——あらゆる部位が雨と泥に塗れ、戦うための体勢など取れたものではなかった。




「はぁ……」


 息が浅く、冷たく、喉の奥にひっかかる。どこまで転がったのか、自分でも分からなかった。全身を鈍い痛みが這い回り、骨の内側からじわじわと灼けるような感覚が広がっていた。


 だが、それ以上に零佳を蝕んでいたのは、身体の痛みではなかった。


 心が軋んでいた。


 ただの肉体的な損傷ではない。言葉にならない無力感と、どうしようもない喪失が胸の奥からじわじわと広がっていく。冷たい水がじわじわと服の中へ染み込んでいくように、精神が冷え、重く、沈んでいった。


 零佳は、辛うじて首だけを動かして空を仰いだ。


 空は、まるで怒りを露わにするかのように雷鳴を轟かせていた。墨を流したような雲が空一面を覆い、夕刻の色さえ見えなくなりつつある。冷たい雨が、容赦なく零佳の顔を打ち、髪を濡らし、目の中にまで入り込んでくる。


 全てが、零佳を拒絶していた。


 風も、雨も、光すらも。この樹海という場所がまるで「生きる資格などない」と言い放つように、彼女を冷たく包囲していた。


「ここで、死ぬのだろうか」空を見上げながら零佳は思う。


 身体が動かない。指すら満足に握れない。息をするのもやっとだった。このまま、雨に打たれて朽ち果てていくのだろうか——そう思ったときだった。


 ザッ、と、濡れた地面を踏む音が響いた。


 反射的に、零佳は視線だけをそちらに向けた。重く濁ったまぶたの隙間から、ぼんやりと黒い人影が揺れて見えた。


 ——夏希。


 それは、間違いなく夏希だった。


 腰に下げた小さな骨壺。あの祠にあった、皇女の遺骨。雨で黒く染まった衣装の裾が風に揺れ、彼女の立ち姿が、まるで幽鬼のように静かに浮かび上がって見えた。その顔には、いかなる感情も浮かんでいなかった。まるで機械のように、冷たく、無機質だった。


 その無表情が、かえって何よりも恐ろしかった。


 とどめを指すつもりなのだろうか……?


 殺される——そんな予感が、頭の中をかすめた。


 けれど夏希は、無言のまま、ただ静かに、仰向けに倒れた零佳を見下ろしていた。


「夏希……姉さん……」


 声にならないほどかすれた声。それでも、零佳は祈るように問いかけた。答えが欲しかった。たとえ刃を向けられるとしても、姉の“心”を知りたかった。


 しかし、返ってきたのはただ一言。


「絆はどこだ」


 低く、冷たい声。まるで機械が言葉を再生したような、感情のこもらない響きだった。


 零佳は、しばらくその言葉の意味を咀嚼した。そして——静かに首を横に振った。


 知っている。今、絆は桜と共に長野の北城村にいる。だが、言えなかった。言うべきではなかった。たとえこの場で命を落とすことになっても、その情報を、絆を渡すわけにはいかなかった。


 ……たとえ殺されるとしても……


 その覚悟は、もうとっくに定まっていた。


 夏希は、すべてを察したようだった。小さく息を吐き、ふっと顔を横に向ける。そして、ゆっくりと背を向けた。


 その背中に向かって、零佳は、か細い声で問いかけた。


「絆と会って……どうするつもり……でしょうか……?」


 雨に紛れるほどの、弱い声。それでも、夏希は立ち止まったまま、黙って零佳を見つめた。


 答えはなかった。ただ、その無言のまま、夏希は一歩、また一歩と歩き出し、樹海の奥へと静かに消えていった。


 静寂が戻る。


 残された零佳は、雨に打たれながらも、空を仰ぎ続けた。己の選択が正しかったのかどうか、それを考える余裕すらなかった。ただひたすらに、自責の念と後悔が波のように胸を打ち続けていた。


 もう一度、あの皆の笑顔が見たかった。


 桜に、絆に、皆に、死ぬ前に、もう一度会いたかった。


 しかし今、零佳の目に映るのは、灰色の空だけだった。


 冷たい雨が顔に落ち続ける中、徐々に意識が遠のいていく。視界が白く滲み、音も鈍くなる。


 ——そのときだった。


「ねえ! 女の人が倒れているよ!!」


 少女の声——透き通った、しかしどこか遠くで揺れているような声が、ふいに耳へ届いた。


 ここは、富士の樹海の奥地。人など入らぬはずの場所で。雨の音を切り裂くように響いたその声は、まるで幻聴のように、零佳の意識に沁み込んできた。


 ……誰……?


 それを確かめる前に、零佳の瞳は、ゆっくりと閉じられていった。

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