樹海の斬光
【山梨県・富士山麓 青木ヶ原樹海 午後5時半過ぎ 雨 気温15℃】
雨の勢いが、じわじわと、しかし確実に増していた。葉を打つ音、ぬかるみに落ちる滴、冷たい粒が首元から服の内に入り込むたび、体温は少しずつ削られていく。
前方に立つ人影。その輪郭は、かつて記憶していた“姉”のものと、確かにどこかが違っていた。全体のシルエットは以前よりも痩せ細り、体の線は影のように儚い。そして、何より——佇まいが明らかに異様だった。
そこに立つのは、もはや「かつての姉」ではない。
零佳の中で、名が浮かび上がる。
——夏希だ。
確信と共に、胸の奥が強く波打った。間違いない。表情はまだはっきりとは見えなかったが、それでもわかる。この場に漂う気配、まとう気高さ、そして漂う沈黙の“質”——そのすべてが、記憶にある
夏希そのものだった。
売木夏希。零佳の姉。そして、三年前に皇女暗殺事件を起こした張本人。
まさか、本当にここで再会するとは。
三年という歳月があったはずなのに、その間に溜めた想いや疑問の数々を、零佳はすぐに口に出すことができなかった。
「なぜ、あのようなことを——」
「なぜ、こんなところに——」
そんな言葉すら、まるで喉を締め付けられたように、零佳の口からは出てこなかった。
ただ、黒い影は、問答無用とばかりに低く一言だけを放った。
「絆はどこだ……」
唐突なその問いに、零佳の思考は追いつかなかった。なぜ今、絆の名を問うのか。なぜ、その問いが“怒気”や“敵意”を孕んで聞こえるのか。
しかし、体はすでに反応していた。
無意識のうちに、零佳は腰の鞘に手を添えていた。身体が、本能的に“危機”を察知していた。目の前にいるこの存在が、単なる再会の相手ではないということを、肌で感じ取っていた。
「答えると……思いますか……?」
零佳は目を細めながら、静かに、静かに応じた。雨音がその声をかき消そうとしても、それは確かに届いていた。
夏希は、わずかに息を吐いたように見えた。
「ふっ……」
そして、一言だけ、呟くように言った。
「そうか……」
そのまま、ゆっくりと腰の刀に手を伸ばす。そして、音もなく抜かれた刃が、樹海の空気を裂くように姿を現した。その所作には一分の乱れもない。まるで儀式のように、静かで、厳かだった。
「……っ!」
零佳もまた、反射的に動いた。夏希の呼吸に合わせるかのように、鞘から刀を抜き構えた。姉妹であるがゆえに、相手の気配や間合いを感じ取る力は研ぎ澄まされていた。
冷たい雨がさらに強まっていく。滴は顔を打ち、服を濡らし、刀身に細かく跳ねて光を弾く。風が木々を煽り、枝のざわめきが不気味に共鳴していた。そして——
雷鳴が、空を裂いた。
富士の山に轟くような雷の音が、樹海の全体を震わせる。まるで、この地そのものが二人の対峙に共鳴しているかのようだった。
二人の間には、もはや言葉はなかった。
ただ、お互いの目を見つめ合い、無言の時間が流れる。剣を抜いたまま、沈黙が張り詰める。
——夏希……姉さん……
零佳は、心の内でつぶやいた。
本当はこんな場所で、刃を交えたくはなかった。再会の言葉を交わし、すべてを聞きたかった。怒りも、悲しみも、懺悔も、赦しも、すべてを——姉と分かち合いたかった。
だが、現実はそれを許さない。
富士の豪雨が、それらすべてを遮るかのように激しさを増していた。
「……」
夏希は静かに、刀を上に持ち上げた。その動きは、まるで儀式の始まりのようだった。刃先に雨が当たり、細かな水滴が静かに地へと滴り落ちる。
その後、ふらりと風を受けたように、夏希がわずかに刀を揺らした——その瞬間、
ーー来るっ!
直感が、雷のように零佳の全身を駆け抜けた。
同時に、轟音が大気を裂いた。雷鳴が樹海に響きわたり、眩い光が木々の影を一瞬だけ真昼のように照らす。その刹那、夏希の姿が空間を裂くように零佳の懐へと飛び込んだ。
祠との間合いは、およそ十数メートル。にもかかわらず、その距離はほとんど一瞬で詰められていた。稲妻のような踏み込み——そして、
ガンッ!
鋭く甲高い金属音が、湿った空気の中に響き渡る。二振りの刃が激しく交差し、火花が散る。零佳は本能的に構えていた刀で、夏希の強烈な一撃をかろうじて受け止めた。
「くっ……」
零佳は奥歯を噛み、腕にかかる衝撃に耐えながら、力を振り絞って夏希の刃を振り払う。間髪入れず、身体を捻ってバックステップ。呼吸を整える暇もなく、その場を跳ね退き、距離を取った。
ーー速い……!
驚愕すべき速さだった。視線が、思考が、身体が、追いつかない。ほんの一太刀。だが、その一撃に宿った圧倒的な技量が、夏希が「売木夏希」であることを決定的に物語っていた。
零佳は咄嗟に判断した。このままでは太刀打ちできない。足を返し、雨の中、樹海の奥へと走り出す。濃くなる霧と茂る木々を盾に、まずは態勢を立て直さなければならない——付け焼き刃かもしれないが、それしかなかった。
背後で風が鳴る。夏希が追ってきている。だが、その動きは地を走る零佳とは根本的に違っていた。
夏希は地面を蹴らない。枝から枝へ、幹から幹へと、森そのものを駆けるように縦横無尽に移動していた。まるでこの霧深い樹海を、彼女だけの戦場として扱っているかのようだった。
地の利は、明らかに夏希にあった。未開の地ですら、夏希によって支配されていた。
零佳の目も、かろうじてその動きを捉えていた。木々の上から飛び込むように舞い降りる夏希。殺気と共に刀が振り下ろされる。
刹那、零佳は身を屈めてしゃがみ込み、紙一重でその一撃をかわした。
直後、風を裂く音と共に、背後の大木が、刃に両断される。
ブゥン、と耳元で空を切る音が聞こえた。幹がスローモーションのように倒れていった。圧倒的な剛力。その威力の凄まじさに、零佳の背筋が凍る。
だが、それは同時にチャンスでもあった。夏希の振り下ろしに生まれた一瞬の空隙——零佳はそこを突こうと、踏み込んだ。
だがその瞬間、
「っ!!」
地面に足を取られた。雨でぬかるんだ地盤。思った以上に深く沈んだ足が、予想外の抵抗を生んだ。身体の重心が崩れ、踏み込みの勢いが削がれる。視界が一瞬ぐらつき、よろめいた。かろうじて、重心を修正し立て直す。
ここは富士山麓、青木ヶ原の樹海だ。そして今は豪雨。地盤は緩み、滑りやすく、どこを踏んでも地滑りの危険がある。
零佳自身、雨は決して嫌いではなかった。
幼い頃から、しとしとと降る雨の音や、静かに濡れてゆく町並み、葉に弾かれて落ちる水滴——そうした自然の織りなす情景に、心を委ねるのが好きだった。雨は孤独を包み込んでくれる存在だったし、過去を静かに洗い流してくれるような気さえした。
しかし、今——この瞬間に限って言えば、雨はまるで零佳に牙を剥く“敵”そのものだった。
濡れた地面が足を取る。降りしきる豪雨が視界を遮る。身体を冷やし、判断力を鈍らせ、精神を蝕む。それはまるで、自然そのものが彼女を拒絶し、追い詰めようとしているかのようだった。
その一方、夏希は、その雨の中を一切苦にせず縦横無尽に駆けていた。木々を跳び、幹を蹴り、まるで水の精でも宿しているかのように、滑るような身のこなしで樹海を支配していた。
この環境を支配し、楽しむが如く。
濃霧と雷鳴に包まれた幻想のようなこの空間で、どこから強襲がかかるか分からない。気配も殺され、音もかき消され、視覚すら狂わされる。そんな中で夏希の刃だけが、静かに、鋭く、零佳に忍び寄っていた。
ーー雨女
零佳の脳裏に、その異名が浮かんだ。
“雨女”。それは夏希につけられた戦場での異名。悪天候になればなるほど彼女は真価を発揮し、むしろその混沌の中でこそ、凄まじい力を解き放つ。
土砂降りでも、濃霧でも、雷鳴でも——むしろ歓迎するかのように、夏希の刃は研ぎ澄まされていく。足元も、視界も、感覚すら奪われるこの状況で、彼女は一分の狂いもなく斬撃を放ってくる。
明らかだった。すべての要素が、夏希にとって有利に働いていた。
この場所で、今この瞬間に、夏希と対峙すること——それは、あまりに無謀だった。
再び距離を取り、零佳は森の奥へと走る。乱れた呼吸を抑え、必死に思考を巡らせる。
……全力で挑んだところで、ようやく死を免れるかどうかだろう。
零佳は察した。まともに正面からぶつかれば、まず勝ち目はない。この場は退きながら、一旦体勢を立て直すしかない。
——絆はどこだ?
夏希は、絆の居場所を求めている。
だとすれば、彼女の目的は——?
零佳の思考がそこで止まる。
次の瞬間、風が鳴った。
夏希が、雨音に紛れるようにして再び距離を詰めてきていた。今度は真上——上空からの奇襲。雷光が一瞬、その姿を照らす。
空を斬って落ちてくる白刃。
首元へと迫る一閃。
——ガキンッ!
鋭い金属音が、樹海全体に木霊した。
「っ!! くっ!!」
零佳は咄嗟に刀を構え、刃と刃が交差した。圧し掛かる夏希の剣圧に、膝がわずかに沈む。濡れた服が肌に貼りつき、呼吸が浅くなる中、それでも零佳は踏みとどまっていた。
至近距離で交差する視線。夏希の鋭い眼差しが、静かに零佳を捉えていた。
……その瞳に、迷いはなかった。
「……」
零佳は歯を食いしばりながら、強く刀を振り払う。反撃の一手。袈裟斬りを仕掛けようと、踏み込んだ。
だが——地面がそれを許さなかった。
濡れた地に靴が沈む。ぬかるんだ土が踏ん張りを奪い、刀に力が乗らない。バランスが崩れる。まともに斬れない、いや、斬らしてくれない。
目元の雨を拭いながら、零佳が振り返った。
そのときだった。
——ドンッ!
爆音が、零佳の耳を劈いた。
鼓膜を震わせる衝撃。そして、それと同時に——視界が、真っ黒に染まる。
あたり一面が、黒煙に包まれていた。
……煙幕。
零佳がそれを察するに、さほど時間は要らなかった。