富士の樹海
前回のあらすじ
磐梯荘にてエイトの襲撃にあった零佳。宿にかかった電話の声に導かれるかのように、磐梯荘を後に富士の麓まで行くことになる。
古びたバスの中、零佳は一人、窓の外をじっと眺めていた。
車内は薄暗く、時折ギシリと車体が軋む音だけが耳に届く。隣の座席も、前の座席も誰もいない。乗客は零佳ただ一人だった。窓の外には、長く続く杉林と傾きかけた夕陽が流れていく。赤く焼けた光が木々の間を縫い、窓ガラスに柔らかな影を落としていた。
今の零佳は、いつもの和服姿ではなかった。身にまとっていたのは、かつて福島まで逃げ延びた際に着ていた、白色の旅人の服だった。袖口はところどころ擦り切れ、旅の年月がそのまま縫い込まれているかのようだった。この服を着るのは何年ぶりだろうか。懐かしさというよりは、ある種の儀式のような感覚があった。
そして——あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
福島を発ち、バスを乗り継いで、ここ山梨の富士の麓へと辿り着いた。正確な目的地があったわけではなかった。だが、何かに誘われるようにして零佳はここまで来た。ただ、漠然とした直感に突き動かされるようにして『辿り着いてしまった』のだった。
「あの声はいったい……」
彼女は、小さく呟いた。磐梯荘でのあの奇襲——そして、あの電話。電話越しに聞こえた“謎の声”が頭から離れない。声の主は、明らかに零佳自身のことを知っていた。だが、零佳にはまったく心当たりがなかった。その声は、まるで彼女の記憶の深淵から響いたような、既視感すら伴う不思議な感覚を与えた。
日がだいぶ傾いてきた。窓の外はすっかり夕暮れの気配に包まれ、赤焼けが林の奥まで染み込んでいくようだった。
乗っているバスも相当に古びていた。座席は擦り切れ、床には砂がうっすらと積もり、まるで時間が止まったような車内には、やはり他に誰もいない。静寂の中に、どことなく哀愁が漂っていた。
……なぜ、自分が知っていたのか。
ふと、零佳は思った。自分の目指している場所、それは皇女の『もう一つの祠』だった。三年前——暗殺された皇女の遺骨は、表向きには八王子の陵墓に納められたとされている。だが、その全てではなかった。皇女自らの遺志により、その一部はこの富士の麓にひっそりと埋葬されたという。
だが、それをなぜ自分が知っているのか。その情報を聞いた記憶も、教わった記憶もなかった。ただ、確かな“実感”として、その場所を知っているような感覚があった。記憶を辿るようにしてここまで来た。この先に何があるのかも分からないまま——それでも、足を止めることができなかった。
あの宿を離れるのは、正直、苦しかった。化物によって荒らされ、声も影も奪われたあの場所。けれど、それでも“呼ばれている”という感覚が零佳の背を押し続けていた。
しばらくすると、目的のバス停が見えてきた。乗客を知らせるベルを押し、バスがゆっくりと減速する。ドアが開く音が、山間の静けさに溶け込んだ。
足を踏み出すと、外の空気が一気に肺を満たした。高地特有の澄んだ空気が喉を通り、冷たい風が頬に触れた。零佳は、ふっと小さく息を吐く。
「ここね……」
独りごちるようにつぶやいたその先には、うっそうとした森が広がっていた。
――富士山麓、青木ヶ原の樹海。
“未だ未開の地がある”とされる秘境。この地に、確かに皇女の遺骨があるはずだ——零佳はそう確信していた。
時刻はすでに五時を過ぎていた。日は短く、森の奥ではすでに薄暗さが忍び寄っている。それに加えて——
「雨……?」
しとしとと雨が降り始めていた。バスの中ではそんな気配はなかったが、山の天候は変わりやすいというのは本当だったらしい。降り出した雨は細かく、森の葉を湿らせるように静かに地面を打っている。
一瞬、中へ入ることをためらった。雨に濡れた地面、迫る夜の帳、不気味な静けさ。だが、零佳は思い直す。今夜はこのまま戻ることもできる——それでも、「明日」にするのは、なぜか気が引けた。
「今でなければならない」
そう感じた。理由は分からない。だが、それは確かな直感だった。
零佳は、決意を込めて一歩を踏み出した。雨に濡れながら、青木ヶ原の樹海へと、静かに消えていった。
歩きながらも、零佳はじわじわと体温が削られていくのを感じていた。雨が濡らす肌から、風が熱を奪っていく。外気は思った以上に冷たく、青木ヶ原の樹海はその鬱蒼とした景色と共に、静かに侵食してくる寒気で包まれていた。
足元はぬかるみ始め、木々は密生し、視界はますます悪くなっていた。空を覆う雲も、今や闇のように厚く、わずかな夕暮れの名残すら飲み込もうとしている。雨も徐々にその勢いを増し、霧雨だったものが、しだいに本格的な降りへと変わりつつあった。
確か、もう少しこの先であったはず——
零佳は記憶を頼りに、奥へと進んだ。かつて聞いた話、あるいは自分の中に残された何か。それらが導くように、彼女の足は止まらなかった。
もう少し歩けば、皇女の祠があるはずであった。表向きには八王子の陵墓に埋葬された皇女——その一部の遺骨が、実は秘密裏にこの地に運ばれていた。皇女自身の遺志により、ひっそりとこの地に祀られたという話。誰に聞いたのか、いつ知ったのか、定かではない。それでも零佳は“知っていた”。そして、そこへと向かっていた。
皇女様を化物に取られてはいけない——
その行為は罰当たりかもしれない。だが、それでも零佳は、その遺骨を自分の手で守りたいと願っていた。それは恐らく、過去を償うことでも、亡き人に報いることでもなかった。ただ、そうするしかなかった。それしか、残されていなかった。
一歩、一歩。足元を噛み締めるように進む。雨に濡れた土の感触が靴を通じて伝わってくる。風の音に紛れて、小枝が時折パキリと折れる音が響く。
そして、ついに——それは現れた。
木々の合間に、小さな構造物がぼんやりと姿を現した。八王子の壮麗な陵墓とは対照的な、粗末な、だがどこか丁寧に手入れされた石の祠だった。苔がびっしりと這い、年月の重みをそのまま纏っているような佇まいだった。
だが——見えてきたのは、祠だけではなかった。
「……人?」
思わず、声が漏れた。そこには明らかに人影があった。祠の前に、じっと佇んでいる。黒色の服をまとい、長い髪が雨で濡れてしっとりと垂れている。輪郭から察するに、恐らく女性。そして何より、その存在から漂う空気が、異質だった。
零佳は思った。「誰……」と——だが、その問いは口に出る前に霧散した。
違う。知っている。誰なのかなどではない。
「どうして——」そう、心の中で問いかけていた。
黒の人影は、ゆっくりと振り返る。雨に濡れた髪が滑るように動き、こちらに顔を向けた。表情までははっきり見えなかった。だが、その瞬間に走った感覚は、確かなものだった。
——間違いない。
矢のような視線が、零佳の全身を貫いた。警戒でも敵意でもない。ただひたすらに、真っ直ぐな“認識”。しかも、それはむしろ——懐かしさに近いものだった。
——そういうことだったの……
あの電話の意図、なぜここに誘われたのか。そして、目の前の女が握るもの——
女の手には、小さな骨壷があった。朱色の紐で封が施されている。間違いなく、それは皇女の遺骨だった。
「零佳か……」
低く、湿った声が雨音を切り裂くように響いた。その声音は、零佳の記憶の深層に染みついていたものだった。聞き覚えがあった。思い出したくない記憶のどこかで、確かに交わした声だった。
なぜ、彼女がここにいるのか。なぜ、彼女が皇女の遺骨を持っているのか。すべてが理解の外だった。零佳の中で、あらゆる思考が混乱し、構築し直されていく。
だが、その時間は許されなかった。
「絆はどこだ」
再会の言葉などなかった。女は、ただ一言だけを口にした。その声音には、余計な情も、戸惑いもなかった。思考の隙を一切与えない。まるで機械のように整った、淡々とした口調だった。
なぜ、彼女が絆を求めるのか。なぜ、今、その名を問うのか、零佳には分からない。
ただ——
零佳は、ゆっくりと腰に手をやり、鞘に添えた。冷えた柄の感触が、指先に重さをもって伝わってくる。
震えはない。冷静に、確かな意志を持って、その身構えをとった。
「答えると、思いますか……?」
低く、静かに、だが明確な拒絶を込めて——零佳は応えた。