幕間:奪われた皇女の遺志4
「──ヒカリ?」
その名前を耳にして、蜜柑は思わず目を細めてしまった。
過去何度その名前を口にしたか分からない。未だに蜜柑の中で名前の感覚が残っているほど、聞き慣れた名前であった。
懐かしさすらも感じられるような響きを前に、蜜柑は呆然としてしまった。
奇しくも、あの方と同じ名前だ……
「うん、皇女様と同じ名前なんだ。だけど漢字が違うの。皇女様は『星』と書いて『星』って読むけど、わたしのは『光』という漢字と『里』という漢字を合わせて光里って読むの」
「光里……」
ヒカリという名前の女性は、別に珍しい事でもない。それどころか、皇女の影響により同名をつける人も増えてきたくらいだ。
そうと分かっているのに、なぜだか蜜柑の心は震えてしまう。自分自身の前に『ヒカリ』と言う名の少女が突然現れてしまったことを…… 何かの縁と感じてしまったからである。まるで、皇女の意思によって彼女が引き寄せられたみたいだ。
だが、光里の前であまり大袈裟な仕草を取ることもできない。蜜柑は口ごもりながらも「素敵な名前ね」と動揺を誤魔化すようにして呟いた。
「うん、漢字は違うけど皇女様と同じ名前。自分でも気に入ってるんだ。だからさ、皇女様が殺されちゃった時…… すっごく悲しかったんだ……」
徐々に表情を曇らせ、光里は奥へ佇む墓石へと顔を上げる。
「星様、わたしも大好きだったんだよ。同じ名前だったから余計にさ……どうしてこうなっちゃったんだろうね」
「本当に……そうね」
蜜柑も知らない光里の疑念。その答えはきっと、墓に眠る皇女なら知っていることだろう。
墓石の中には皇女の遺骨が収められている。元々、皇族は火葬ではない別のやり方で埋葬されていたが、経費や負担を考え、先々からこのような形で埋葬されることとなったとのことだ。
結局、蜜柑も納骨まで立ち会うことができなかったが……
柔らかな風が吹き、光里のワンピースが靡いた。
「お姉さんは? お姉さんの名前はなんて言うの?」
「私……? 私は……」
聞かれてもすぐに返事が出来なかった。このまま正直に答えて良いのだろうかと迷ってしまったからだ。
一瞬、偽名を名乗ろうかとも考えた。でも、そんな思考はすぐに消えた。
もう、過去の自分ではないのだ。栄光に満ち溢れた自分とは……
……何を躊躇することがあるのだろうか。こんな無垢な少女に向かって偽名を名乗って何になると言うのか。
それに、自らのことを打ち明けて、蜜柑のことを『友達』としてくれた光里に対し、偽名は名乗れない。
だから、蜜柑も素直に答えた。
「──蜜柑」
「……え?」
光里は口を開いたまま、動きが硬直してしまった。
「蜜柑よ。私の名前。これからよろしくね、光里さん」
フードのつばを摘みながら会釈をするが、光里は地蔵のように固まったままであった。
「えっ 蜜柑って……」
「どうしたのかしら?」
ゴクリっと光里は唾を飲み込んだ。まさかと思ってしまう。
あの蜜柑だとすれば……
フードが深くかぶられており、顔がよく見えない。光里は覗き込むように彼女の顔を見上げたが……すぐに顔を逸らされてしまった。
「嘘……蜜柑って…… あの騎士の静岡──」
「──違うわよ。残念ながら、貴方の思っている蜜柑じゃないわ」
否定する。光里の中にいる静岡蜜柑は恐らく、目の前に存在している自分ではないからだ。
「貴方と同じよ。私も静岡さんと同じ名前なの。漢字も一緒だからよく間違えられるわ」
「な、なんだぁ......びっくりした。 だって、皇女様のお墓だからさ、もしかしたらって思っちゃったよ」
胸に手を立てて光里は一息吐いた。
この驚きようから察するに、恐らく光里は、皇軍騎士である静岡蜜柑のことをよく知っているのであろう。以前は名を馳せていた静岡蜜柑のことを……
──こんな時でも、騎士である静岡蜜柑を思ってくれているなんて……
「そう、彼女は同名の人物。私とは全くの別人よ。驚かせちゃってごめんなさい。それとも……ガッカリしたかしら?」
「そ、そんなことないよ。ただ、凄い偶然だなって思っちゃったからつい……」
恥ずかしそうに自分の黒髪を撫でた。『蜜柑』という名前を聞いて、気が動転してしまったのは認めているようだ。
「まさかね、そんなわけないもんね。本物の静岡さんが目の前に現れるわけ……ないもんね」
自分が本物であると、打ち明けることなんて出来なかった。光里の中にいる静岡蜜柑は過去の自分だ。何も知らず、ただ上を目指し続けた純粋な軍人。
そして今、光里の前に立っているのは汚名を被り、逃げるように彷徨っている亡霊のような静岡蜜柑だ。少女の前ですらも正体を明かすことができない臆病な蜜柑。
せめて、光里の中では輝いてほしかった。そんな気持ちが『別人』を作り上げてしまった。
「静岡さんのことは随分とご存じなのね」
「うん。だってわたし…… 騎士の中では静岡さんが一番好きだから」
その言葉を聞いて、蜜柑は目を強く瞑る。
「わたし、強くてカッコいい静岡さんに憧れていたから…… 自分もあんな美人で強い人になりたいなって……思ってたんだ」
──ごめんなさい。
心の中で、何度も光里に謝る。その憧れに応えることが出来なかったこと、憧れてくれたのに使命を果たせなかったこと、使命を果たせずに皇女を死なせてしまったこと…… 何もかもだ。
子供の夢すら守れずに、自分は堕ちてしまった……
光里がよく知る静岡蜜柑の本当の姿は、彼女の語る『それ』とは全く違う。臆病で、何もできず、逃げるように今を過ごしている自分こそが、本当の蜜柑であると自身で思う。
だけど、蜜柑は勇気付けられていた。ただの少女の言葉に、背中を押されていた。
3年経っても忘れないでいてくれたこと、そして今でも憧れていてくれることに……胸の中で幾度なく「ありがとう」と感謝を込めた。
「もう3年前に騎士は解散したわよ。それなのに、静岡さんこと想ってくれているのかしら?」
「うん! 皆は騎士のことを悪くいうけど、わたしの中で静岡さんは最強の騎士だよ。その気持ちは今でも変わらないかな」
『わたしの中で静岡さんは最強の騎士だよ』
光里の言葉が蜜柑の中で繰り返される。
『史上最強の騎士』、そう呼ばれたことも確かにあった。だが、蜜柑は知っている。現実はそう甘くはないのだと。そんな華やかなものではないと。
しかしながら、少なくとも光里の中で自分が『一番強い』存在であるのだ。こんなに惨めな姿で彷徨っていても、光里は『最強の騎士』と信じてくれているのだ。
そして、その信仰心こそが、今の蜜柑にとって必要な糧であった。少女の思う心が『最強の騎士』であった静岡蜜柑の原動力となるのだ。
──もう、負けるわけにはいかない。
改めて心に誓い、光里を見据えた。
「……本人が聞いたら、きっと喜ぶでしょうね」
「うん。届くといいな」
届いている。間違いなく。自分の中で閉じこもり続けている、あの静岡蜜柑にも……
「そうだ、お姉さんに聞きたいことがあるの」
「聞きたいこと?」
暫く続いた雑談の中、ふと光里がそう言いながら切り出した。光里の身の上話が丁度始まろうとした時であった。
「──実はさ、こうして外を散歩しているの……もちろん、孤児院に戻りたくないっていう意味もあるんだけどさ」
汚れた靴で地面を突きながら、恥ずかしそうに話し始める。
「……妹を、探しているんだ……」
「妹? 光里に妹がいるの?」
「うん。今年で9歳になるのかなぁ。私に妹がいるの」
聞けば、光里は今年で13歳になるそうだ。そんな彼女には4歳離れた生き別れた妹がいるとのことであった。
「もう小さい頃の話だよ。正直、私もあまり覚えていないくらいの時かなあ……」
「そんなことが……」
いつ頃かもあまり思い出せない程の前の話とのことだ。けれど、自分には妹がいたことは知っていた。唯一、自分と血の繋がった妹が……
だから、懸命に探していると光里は語った。孤児となった今、唯一の血縁者である妹が何処かにいると分かっていたから、ずっとずっと探しているとのことであった。こうして公園にふらつくふりをしてどこかにいないか、知っている人がいないか聞いて回るという、途方もないことを続けながら、光里は妹を追っていた。
「蜜柑さんも知らない? よくね、小さなお人形を持っていたんだ。今はどうか分からないけどさ、おかっぱ頭で着物を着た布人形。そんな人形を持っていた子、見たことないかなあ?」
「布人形……?」
おかっぱ頭の人形……見れば特徴的なのかもしれない。だが、 蜜柑の記憶の中には現れず、静かに首を横に振った。
「……存じないわ。力になれなくてごめんなさい」
蜜柑の表情から察し光里は「いいよ、気にしないで!」と元気よくフォローを入れてくれた。
「そうだよね、偶然見た人なんてそうそういないよね。こちらこそごめんなさい、変なこと聞いてしまって」
光里は誤魔化すように笑いながら「おかしいよね、見つかるわけないのにね」と続けた。
「それに、おかっぱ頭の布人形だけじゃ、ヒントが少なすぎるよね。でも、私にはこれぐらいしか分からないの。一緒にいた時、手に持っていたからさ。 難しすぎるよね、今どこにいるかも分からないのに……」
「でも、そうして毎日光里は妹さんを探しているのよね。何か、手掛かりになりそうなことがあればすぐに伝えるわ」
確かに彼女の言う通り、人形を持っているだけじゃヒントにもならないだろう。写真か何か無い限り、光里の妹を見つけるのは至難の技だ。更に数年前の過去の話、妹の容姿も大きく変わっている可能性が高く、現実を考えれば不可能と言っても過言ではないだろう。
だけど、諦めなければ必ず見つかる。光里がやっているように一人ずつ聞いて回る。気が遠くなる話だが地道にやっていくしかない。生きている限りでしか、人は会えないのだから。
「ありがとう、蜜柑さん。私も、もっと思い出せるように頑張るよ」
「ええ、会える日が来ることを信じているわ」
同じ妹を持つ立場だからこそ、蜜柑は光里に共感を得たのだろう。可能な限り、光里に協力したいという気持ちが芽生えた。
少ないヒントでも、ずば抜けた洞察力で敵を見つけた人間が皇軍には何人もいた。それを知っている蜜柑だからこそ、光里以上に見つかる可能性を感じていた。
「おかっぱ頭のお人形ね。心に留めておくわ」
騎士であるなら、影響力が高すぎて力になれなかった事かもしれない。
──けれど、今の私なら。何の柵もない私なら……
「ところで、妹さんのお名前は分かるかしら? 見つかった時、名前が呼べるように教えていただければと思って」
「名前? あ、そうだね。名前を伝えていなかったよね、私の妹の名前はね──」
光里が名前を口に出そうとした時であった……
突然、とてつもなく高い、叫びに似た声が公園内を響かせた。
人の発する声ではないと、すぐに分かった。けれど、背筋が凍りつきそうな悍ましい声……
静かな公園を切り裂くような、鋭い叫び声が、2人の鼓膜を貫いた。
「──っ!?」
「……!? な、何、この音!?」
気づいた光里が声を震わせ、顔を強張らせる。怯えるように、身を屈めて周辺を見渡し、そして蜜柑の方へ顔をあげた。
蜜柑も、耳を澄ませて音の主が何であるかを分析していた。索敵行為は慣れている、音だけでもある程度の情報まで絞り込める…… はずだが……
「……分からないわ」
今まで聞いたことのない音だ。長い軍の経験を持つ静岡ですら耳にしたことのない音。だが、彼女は光里とは違い、冷静さを保っていた。この程度で正気を忘れるほど、ヤワではない。
「──だけど、離れないで光里。この音は異常だわ」
「う、うん……」
ローブにしがみ付くように、光里が身を寄せる。
音が止むことはなく、それどころか共鳴するように大きくなっていった。
音の正体は分からない。分からないが、これは恐らく自分自身にとって脅威であると、本能が察知した。
そして、気配を感じた。何か大きな気配が…… ヒトではない、何かの気配が……!
「怖い、怖いよ……」
「じっとしていて、大きな音を立ててはダメよ」
囁くように、蜜柑が声をかける。顔は厳しいが、優しい声色だ。
何故だか分からないが、光里はとても強い安心感を得られたような気がした。とてつもない安心感。
この人なら、絶対なんとかしてくれる……
この人なら、絶対守ってくれる……
根拠の無い安心感が、光里の肩の震えを徐々に取り除いてくれた。
──来ている!?
物音が徐々に大きくなり、ドスンと鈍い音が広場を轟かせる。足音にしては随分と大きいと感じてはいたが、その姿を見れば蜜柑も納得をせざるを得なかった。
墓所の方に静かに佇む、歪な形をした大きな陰。
見たこともない、化物が……
今、この光景をどう表現しろというのか……
「こんなことって……」
吐き漏らすように蜜柑が呟けば、またも向こうは、耳障りな狂音を奏で始めた。




