幕間:奪われた皇女の遺志3
再び墓所に静けさが戻った。
都会の中にあるとは思えないほどの、静寂。二人だけの特別な時間。
先程は思わぬところで刺客が入り込み、二人の時間に水を刺されてしまった。一番会いたく無かった人物との邂逅。皇女の前で、あまり見られたくない姿を見せてしまった。
だが、邪魔者はもういない。皇女と二人で存分に通わせることができる。
──できれば秋香の件は忘れたかった。
もう自分は騎士ではないのだ。ただの一般人。権威や名誉という名のベールを失った一人の女だ。今できることは、こうして皇女を密かに偲び、そして皇女の遺志を引き継ぐことが自分の役目である。
過去は捨てられないのだから、せめて自分にできることをやっていくしかないのだ。
悔やむことなんて、山ほどある。謝っても許されないことだって分かっている。
それでも、こうして墓石の前で思い遣れば何かが見えてくるのではないかと……淡い期待を抱いていた。
秋香がいなくなってから数分が経過した。
ふとした瞬間、背後に人の気配がするのを肌で感じた。気配と言っても敵意は感じられない、恐らく普通に墓参りをしにきた人だろう…… 秋香と違って。
気に留める必要はないと蜜柑は察し、祈りを続けた。こんな夜でもお参りに来てくれる…… 自分と同じ熱心な人がいるのだろう。
だが、その気配は一向に近づく様子は感じられなかった。それどころか自分と距離を置いたままうろうろしており、時折砂利を踏む物音が耳に入る。
明らかに、自分を意識しているような動きをとっている。警戒している感じでもなさそうだが、気配はどちらかと言えば墓石よりも自分へ向いているのだけは分かる。
もしかして、順番でも待っているのだろうか? そうだとしたら……
蜜柑は目を開き、その場で振り返る。
そしてすぐにその『気配』の正体が判明した。目に映る小さな人影……
「──女の子?」
仄暗い光を受け、姿を見せたのは白色のワンピースを着た少女であった。
黒色の髪を腰あたりまで伸ばし、幼さがある顔立ちから推測するに恐らく10代前半。足にはボロボロの赤い靴を履いており、よく見れば白のワンピースも所々汚れていた。
そんな少女が、公園に植えてある樹木の幹に隠れるようにして顔を出し、こちらへ目を向けているではないか。
「──こんなところで……?」
蜜柑は眉を顰める。こんな夜に少女が一人で出歩くなんてあまりにも不用心だと感じたからだ。ここは皇女の陵墓とはいえ、街の治安はあまり良くない。暴漢に襲われるリスクだってあるのに…… あんな少女が悪い人に見つかったら格好の的になってしまうだろう。
少女は蜜柑に見られたことに気づいたのか、幹から離れて恐る恐るこちらへ歩み寄ってきた。そして腰を折り曲げながら上目遣いで蜜柑を見やる。
「……こんばんは」
少女が小さな声で挨拶をしてくれた。高めの可愛らしい声、警戒しているわけではなさそうだ。
蜜柑は戸惑いながらも、少女と同様に挨拶を返して目を合わせた。
「──お姉さん、最近よくここに来ていますよね?」
「え、ええ……」
少女は蜜柑の側まで近づいてくる。勿論、相手は無垢な少女だ。『剣の間合い』が許せる人間であり、先程みたいに距離を置いたりなんてしない。
薄汚れた頬を軽く撫でながら、少女は見上げるようにして蜜柑の顔を見つめた。だが、今はフードを深く被っているため、少女の目から顔の全容は見えないであろう。それでも、疑うような顔つきは作らずに屈託のない眼差しを浮かべていた。
夜の公園で白のワンピースを着た少女。あまりにも不似合いな組み合わせであると感じてしまう。それに、こんなローブを着た人間に自ら近づくだなんて、かなり度胸が据わっているものと感じられた。
「詳しいのね」
「うん。わたし、この時間いつも通っているから分かるの。お姉さん、最近になって毎日来ていることも知ってる」
話した感じ、普通の少女だ。ややみずぼらしい格好を見るに裕福な家庭ではなさそうであるが……
それ以前に、裕福な家庭であれば少女を外に出すなんてことはしないだろう。
「──だから話しかけてみたの。毎日熱心にお祈りしているからさ、気になっちゃって……」
「そうだったのね。でも知らない人に疑わずに声をかけるなんて、怖くないの?」
尋ねてみれば、少女は「うん」と首を縦に振った。
「だって皇女様を想う人に悪い人はいないもの。それに、なんとなくだけどお姉さんは危険な人じゃないような気がしたの。当たり……かな?」
首を傾げる少女へ蜜柑は「間違えだったら悲しいわね」と微笑みながら返した。秋香へ見せた厳しい表情ではない、女神のような柔らかな笑顔だ。
「お姉さん絶対にいい人だよ。毎日ここで皇女様のお墓参りをしているもの。だから勇気を出して声をかけてみたんだ」
「あら、私も同じよ。貴方のこといい人だと思ったから隣を譲ったの。悪い人だったら逃げるもの」
少女は黒髪を揺らしながら「えへへ」と嬉しそうに身体を拗らせた。ややあって少女が前かがみになり、声を落とす。
「だけど、今日初めて見たなぁ…… さっきまでお姉さんと一緒にいた怖いお姉さん…… もう、いないよね」
辺りを見渡しながら、注意深く囁くようにして蜜柑へ問いかけてきた。『怖いお姉さん』これは恐らく秋香のことだろうと蜜柑は推測する。素人目から見ても、彼女は危険人物であるとわかってしまうようだ。それに関しては間違いないのだが……
「お姉さんの友達だったらごめんなさい。だけど、あの人が怖くて近寄れなかったんだ」
「私の友達じゃないから安心して。それに『怖いお姉さん』はもうここにはいないわ」
蜜柑は優しくそう言い聞かせ、怯える少女を宥めた。安心したのか少女は「よかったぁ」と肩を撫で下ろすことに。少女の言い分から察するに、どうやら秋香と話していた時から、遠くで様子を伺っていたようだ。
もしかして、やり取りまで聞いていたのだろうか……? あんまり聞かれたくない内容であっただけに、少しだけ気になってしまう。だが、少女を見るにそのような様子は無さそうであった。人の気配も感じられなかったから、かなり遠くで見ていたのだろう。
──秋香に近寄らない方が身のためだ。
「それにしても貴方、毎日この時間…… ここに訪れているの?」
「うん、そうだよ。わたし、毎日この道を散歩しているんだ。雨の日は出ないけどね」
「えへへ」と笑みを溢す。最近見ていない少女の笑顔に、緊迫した心が解れるような気分になった。
「毎日? こんな夜に危険よ。ご両親が心配するわ」
「大丈夫。だってここは『皇女様の加護』があるもの」
『皇女様の加護』……その懐かしい響きに、蜜柑は言葉を詰まらせてしまう。自分達が必死に築き、守り通したそのものであったからだ。
『加護なんてものはない、お前自身が【皇女の加護】になれ』
皇軍に入隊して一番初めに耳にする教訓の一つだ。
『加護』なんて都合のいいものなんて存在しない。目に見えないものを守り抜くため、現場の人間が命懸けで戦っているのだ。『加護』という概念そのものを皇軍が一丸となって作り上げているのだ。
だから、この少女の口からそのような言葉が出てきた意味の大きさを、蜜柑は誰よりも理解していた。
「そうね…… ここは『皇女様の加護』があるから安心ね」
少女は頷くと「それに……」と続けた。
「お父さんも、お母さんも……いないから…… わたし一人だけだから心配する人なんていないの」
少女は別に表情を曇らせたりしなかったが、蜜柑は言葉を失ってしまった。少し間が空き「ごめんさい。辛い思いをさせちゃって」と少女に詫びる。
「ううん、全然気にしていないから大丈夫。もう一人は慣れっこだよ」
屈託のない笑顔を見せるが、余計に胸が痛くなる。あまり触れるべきではないと思ったが少女から語り始めた。
「戦争で…… 死んじゃったんだ。2人とも……。だから今は近所の孤児院に住んでいるの」
だが、少女が言うにはそんな孤児院も杜撰な管理状況であり、中にいるよりかはこうして外に出た方がよっぽどいいとのことであった。別に勝手に外に出ても何も言われず、むしろ『早く出ていってくれ』と言われる始末である。ひどい現場だ。
そういう経緯もあることから、少女は暇つぶしに外を散歩して公園を訪れているのだと言う。あまり孤児院に戻りたくないから公園で寝泊まりすることも少なくないようだ。
それを少女の身に纏う汚れた白のワンピースやボロボロの靴が全てを物語っていた。とても大事に扱われているとは思えない格好だ。
「──もう孤児院なんかに戻りたくないや。なんてね、そんな事ばかり言っていたらダメだよね、わたし……」
苦しい事ばかりだけど、この少女の目は曇っていなかった。
静岡は静かに少女の話に耳を傾けていた。
可哀想な話。だけど、今の情勢を考えれば、少女と同じ境遇に遭っている子供達も少なくないはずだ。
騎士の立場であった静岡はよく知っていた。この国がどんな問題を抱えているのかを。
戦争によって少女のような孤児が多く生まれてしまったこと。そして、そんな子供達を助けることがどれほど難しい問題であるかも把握していた。
出来れば、当然助けてあげたい人たちだ。だが、言うだけなら誰でもできる。国情を考えずに感情だけで物事を言える程、蜜柑はもう若くは無かった。
だから簡単に「助けてあげる」なんて言葉を口にはできなかった。
しかしながら言うだけ言って少女はすっきりしたのか、「話を聞いてくれてありがとう」とお礼を述べてくれた。何も言わなかった蜜柑に対して……
「あんまり、わたしの話を聞いてくれる人いないから、話相手が欲しくてつい喋っちゃった」
「構わないわ。私でよければ毎日話しましょ」
それを聞いた少女は「本当!?」と目を輝かせてくれた。
「ええ、私も貴方の事知りたいわ」
「ありがとう。じゃあ、これって…… 友達になってくれるって事だよね」
友達…… いつ以来だろうか。自分に向かってそう言ってくれたのは。ビジネスもしがらみも無い、純粋な『友達』。
友達……とても心地の良い響きだ。
「そういうことになるわね。でも私のような年上が友達でもいいのかしら?」
「うん! お姉さんと友達になれてすっごく嬉しいよ。だってわたし、全然友達がいないから……」
友達なんて、こうやって一晩でできるようなものではない。長い時間かけて親密になって初めて『友達』という大切な存在に成り変わるのだ。蜜柑もそれは分かっていた。
けれども、こうした出会いを大事にしたいという思いがあった。皇女の墓で出会った奇妙な出会いを……
「あ、そういえばさ、わたしの名前をまだ言っていなかったよね。わたしね──」
一呼吸置かれた。
「──ヒカリって言うんだ」
「……ヒカリ?」