疑念の行方
「桜…… どうして無茶するの? 今は私達しかいないんだよ……?」
握られた右手にぎゅっと力が入るのを感じる。
瑞理の顔を見れば、少しだけ瞳が揺れていた。先の台詞以上に言いたかったことがあったのだろう。そんな気持ちがひしひしと瞳を通して感じられ、桜は無意識に下へと目線を移してしまった。
一緒に過ごした幼馴染。そんな彼女を前に虚勢を張ったとしても簡単に見破られてしまうのだ。
桜は決して表情豊かな人間ではない。どちらかといえば喜怒哀楽が顔に出にくい無表情な方である。
だからこそかも知れない。
暗い車内でも、桜の仕草や声色だけで瑞理は桜の気持ちを判断できた。神妙な顔をすることが多い桜だからこそ、彼女の気持ちを分かろうと接し、そして嘘を見破ったのだ。
「やめてよ、桜。どうして私たちにまで強がろうとするの? 桜の声、とても辛そうだったよ」
腕を引くようにして瑞理が寄り添う。朧げな視界の中でも物悲しげな彼女の表情が読み取れた。
「瑞理……」
長年連れ添った幼馴染を前に虚勢なんて貫き通せるわけがないのだ。そう悟った桜は一息つき「すまない……」と静かに伝え、瑞理と見合った。
「──ごめんよ、桜ちゃん。アタシが無神経なことをしたばっかりに……」
「いえ、朱音さんのせいじゃないですから…… 謝らないでください」
そう言っても、朱音は重苦しそうな顔付きのままであった。
桜と瑞理は無言で運転席を離れ奥の席へゆっくりと腰を下ろす。重たい空気が続いたままであるが…… 桜も桜で何を話せばいいのか分からなかった。
そんな中、一番早く口を開いたのは遥疾と向き合う形で座っていた九曜であった。「なぁ、桜……」と相手の顔色を伺うかのように呼びかけ、呼ばれた桜は顔を上げて九曜の方へ視線を移した。
「お前はどう考えているか分からないが、俺は……未だに夏希さんが殺ったと思っちゃいねえからな」
突然そんなことを言われた桜は目を丸くしてしまう。思えば九曜も瑞理も……ここにいる皆、3年前からそう言い続け、桜を庇ってくれたのだ。そんなことを今になっても……
「九曜……」
「別にお前の機嫌を取るために、慰めるために言ってるんじゃねえぞ。本当にそう思ってるからお前に伝えているんだ」
言葉のひとつひとつに確たる意思が感じられる。目の前に桜がいるからわざわざ気を遣っているわけではない、本意でそう思っているからこその言葉であった。
「けれど、夏希姉さんはもう……」
忘れようとしていた。もう心に折り合いをつけて前を向こうと考えていた。
3年経ってようやくあの事件について諦めの気持ちが芽生え始めた。
そんな時、こんなこと言われたら……
「桜はどうか知らねえけど、俺はまだ諦めちゃいねえぞ。だって、事件はずっと有耶無耶にされたままじゃねえか! それなのに、夏希さんが犯人と決めつけるだなんて」
「九曜君!」
つい熱くなり声が大きくなりつつある九曜を瑞理が割って入った。止められてクールダウンしたのか九曜は「す、すまん。言いすぎた……」と頭を掻く。
「──ごめんね。けれど九曜君、ずっとあの事件について調べてくれていたんだよ。ああ見えて、新聞とか本とか柄にもなく読んじゃったりしてさ」
瑞理がフォローし続いて遥疾が「そうだったな」と同意すると、九曜が「お前、それ言うなって!」と顔を赤らめた。
「そ、そうだったのか……」
「うん、絶対夏希さんは冤罪だって言ってね。勿論、私達も動いていたけど一番気合がが入っていたのは九曜君だったんだよ」
自分ですら生きるのに必死であの事件については触れないでいたのに、当事者でない『ただの親友』である九曜達が調べていただなんて思いもよらなかった。
北城村で現実から逃避するように生活を続けている間も彼らはずっと『皇女暗殺事件』に迫り続けていたのだ。
むしろ、逃げようとしていたのはこの中で桜と絆だけだったようで、桜は拍子抜けした気分になってしまう。
「どうして、そこまで……? 瑞理達には関係の無いどころか迷惑をかけてしまった事件のはずなのに……」
戸惑いを見せる桜に九曜は一言「俺の中ではまだ終わっていないからだ」と言い切る。
「それに、おかしいと思ったことを調べただけだ。特段変な話じゃねえよ……」
照れを隠しながらそう続ける九曜に瑞理は「ふふっ」と声を出して笑った。その様相は微笑ましい光景を見る母親のようである。
「でも所詮俺達はただの高校生だ。軍の人間じゃねえから得られる情報だって大したもんじゃねえし、どれも同じようなものだけどな。けれどそれでも怪しい部分がかなり多いぜ。夏希さんは現行犯で捕まったから証拠も糸瓜もねえけど…… なんか裏があるんじゃねえかなって思うぐらいにはな」
「陰謀論じみたこと言っているけど、私も九曜君と同じ意見かな。まだ夏希さんを真犯人と断定するには材料が足りなすぎると思うんだ」
瑞理は苦笑いを浮かべながら「それに……」と続ける。
「私はあの夏希さんがそんなことをする人じゃないと思っているから。仮にやってしまったとしても、何か動機はあるはずだよ。あの夏希さんを動かすまでの強い動機が……」
「あの事件についての確たる真相があるはずだ。僕達は僕達なりにそれを追い続けているんだよ」
「桜、無理に向き合えとは言わねえ。けどな、俺達は今もそう思って動いているんだよ。3年経った今でもな」
「皆……」
何か、心の中が暖かなもので満たされていくのを感じた。
『諦めきれない』
九曜の言葉が何度も頭の中で鳴り響く。桜もずっと真相を知らないままだ。真相を追い続けるのは到底無理だと思っていた。だから『諦め』に似た気持ちが芽生えてきたのだ。
けれど、皆の気持ちを受け止めた瞬間に桜の感情が爆発してしまった。
「私だって……諦めたくない! 知りたい! どうして夏希姉さんがあんなことをしたのか、あの時何が起きたのか……!」
初めて人前で語ったであろう桜の感情。ずっと蓑に覆い被され続けてきた桜の気持ちそのものであった。
「私は本当に何も知らないんだ。何も知らないまま3年間北城村で暮らしてきたんだ。あの売木夏希の妹なのに、私には何も教えてくれず姉さんは……姉さんは……」
続く言葉が感情の昂りにより詰まってしまう。
妹だからといって、何も聞かされることはなかった。ただ事件に巻き込まれ逃げるように北城村へ引っ越しての3年間だ。
知らないまま、疑念を残したまま残りの人生を歩むのか、諦めずに得られるかも分からない真相に人生を潰してまで追い続けるのか…… 究極の2択に迫られて3年間過ごしてきた。
そして、3年間かけて出した答えがこれだ。
『売木桜に残った疑念は永遠に消えることはなく、膨らみ続ける』ものであると。
吐き出した感情の塊。それを受け止めた一同だが一切不穏な表情にはならずむしろ『納得である』と言った顔つきへ変わった。
隣に座るセピア色の髪をした少女が桜の背中を摩り、こう言ってくれた。
「分かってるよ桜。桜がそういう人間だってこと分かってる。だからさ、無理しちゃだめだよ」
幼馴染も友達も、全てお見通しであったというワケだ。
──敵わないな。
朱音も、瑞理も、九曜も、遥疾も皆思った以上に自分のことをよく分かっている。一人で戦っていた自分が情けなく思えてしまった。
気持ちが落ち着き、ふっと息を吐けば九曜が真剣な眼差しを据え強めの口調で「桜」と呼びかけた。
「夏希さんはまだ生きているんだ。夏希さんは死刑囚だけど3年経った今でも刑に処されず東京で収監されているんだ、この意味が分かるか?」
「夏希……姉さんが……?」
「そうだ。夏希さんが生きている間しか追い続けることができねえってことだよ。死んじまったらそれこそ最後なんだぞ! 追えるものも追えなくなってしまう…… けれど、まだ生きているんだ、生きているなら桜だってやることがあるんじゃねえのか?」
分かってはいた。分かってはいたけど、改めて言われると目が覚めるように頭の中に九曜の言葉が染み渡る。
「うん、桜。諦めるのはまだ早いよ。私達でも出来ることをやっていこうよ。それでダメだったら仕方ないけど……でも、何もせず諦めるなんて桜らしくないよ」
『出来ることをやっていく』、決して諦めずあらゆる可能性に賭けてきた夏希の言葉を瑞理によって思い起こされた。
そうだ、私は…… 売木桜は夏希の妹だ。
その夏希の妹が、夏希の背中を見続けた妹が『何もせず諦める』。
夏希に育ててもらった妹が『何もせず諦める』。
瑞理は本当に桜のことを分かっていたから、あえてそういう言葉を選択んだのかもしれない。けれど、その効果は覿面であった。
『何もせず諦める』。夏希の背を見続けた妹が、愚かにもそのような選択を取ろうとしていたのだ。
──そんなこと、許されるものか。
そう過ぎった瞬間、みるみると桜の目の色が変わり始める。あの姉に似た鋭い眼差しへ移り変わり、遥疾が頷きながら「いい顔つきになってきたね」と言ってくれた。
「それにね、九曜君が言った通り夏希さんは生きている。生きている限りしか夏希さんに会えないんだよ。桜は夏希さんに会いたくないの……? 会って話して……その機会がまだ残っているんだよ」
「夏希姉さんに会う……」
理想中の理想である。捉え方を変えれば『現実を見ない奴の戯言』だ。
でも、そんな戯言がずっと桜の中を這巡せていたのだ。『夏希姉さんに会う』、大人になるにつれ完全に途絶えてしまった今となれば『夢』のようなものである。
けれど瑞理達に言われて気付かされる。まだその可能性が僅かにでも残っているのだ。
僅かに可能性があるのであれば、諦める理由なんて何一つない。夢でも叶えられるのであれば、追い続ける。
怖くたって、苦しくたって、夏希に会うまで戦う。
それが売木桜が取らなければならない選択肢なのだ。
夏希の妹として、取るべき行動であったのだ。
「アタシだって、皆と同じ気持ちだよ。まさか夏希ちゃんがあんなことをするなんて……」
ここまで黙って聞いていた朱音が徐にそう口にする。朱音に至っては夏希の幼い頃も知っているだけに抱く悲しみも一入であろう。
「けれど、可愛い妹達を残してダンマリなのはいただけないね。夏希に会ったら一度お灸を据えてやらないとなぁ」
「朱音さん……」
冗談混じりの朱音の言葉に、桜は笑みを浮かべてしまった。運転席で顔も見えないが彼女もきっと笑っていることであろう。本当に夏希の姉のような言葉であった。
「外に出たらやんや言われるけど、ここにいる皆は桜の味方だよ」
「遥疾…… そして皆、本当にありがとう」
桜の心は固まった。命を賭けても追い続ける。少しでも真相を暴く。
そう指し示してくれた一同へ感謝の意を述べた。
今は謎の化物が突如襲いかかってくるような状態だ。
けれど、残された時間は限られているのだ、やれることをやって突き詰めていくしかない。
形はどうあれ、3年ぶりに北城村を出たのだから。
麻績村の空は依然として晴れており、桜が抱く疑念の天候を皮肉るかのように満天の星空を輝かせていた。