想入
暫く走れば朱音達が言っていた通り小さなガソリンスタンドが見え、車両は右側にある給油所へと停車した。
「ほ、本当にあるんだな。こんなところに……」
着いてすぐ、遥疾が物珍しそうに左右へと目を配らせた。道に沿っているとはいえあたりは山ばかりである。確かに山奥にこんなガソリンスタンドがあるなんて信じられないだろう。
それでも流石に人は誰も居なかった。利用者はもちろん従業員もおらず、セルフで給油してくれと言うことなのであろうか。なんとももの寂しい光景である。
とは言っても時刻は9時近くだ。通常店舗でも営業しているのか怪しい時間帯であるため、逆に24時間稼働しているガソリンスタンドで良かったと考える。電灯はついたままになっており、手洗いも解放されているためこの場所で一夜を明かすことも可能であろう。
朱音達の雰囲気から察しても、とりあえずここで夜を過ごすことになるだろう。キャンピングカーで来ていることからも辛い野宿は避けられそうだ。
とりあえず朱音は「給油してから休む」と言ってそそくさと外へ出ていってしまった。
それに合わせるような形で桜達もキャンピングカーから降りていくことに。
「ふぅ、やっぱり外は寒いね! もう5月なのにね。上着持ってきてよかった」
瑞理が暖めるようにして手を擦り合わせる。季節はもう春を越していると言うのにこの辺りは依然として夜は凍えるような寒さだ。しかしながら遥疾達は長時間車内に篭りっぱなしであったとのことで外の空気をとにかく吸いたかったらしい。
都会では吸えない綺麗な山の空気だと、東京で暮らす3人は若干燥ぎながらも外を満喫していた。
そんな瑞理が大きく伸びをしながら身体を広げ、大袈裟にも大自然を肌で感じるような仕草をとりながら深呼吸をし始める。
「全く、ずっと車の中は腰を痛めちゃうよな」
「ほんと、九曜君の言う通り。ずっと車の中だったもんね。腰痛になっちゃうよ」
2人が口々にそのようなことを言えば、向こうで給油をしている朱音から「君たちまだそんな歳じゃないだろー」と野次じみた声が飛んで来た。朱音は相当疲れているようで、瑞理達みたいに動ける元気はなさそうだ。
桜は長袖の皆とは異なり下は制服のスカートであった。あまり長く外にはいられないと感じてはいたが、一人だけ車内にいるのも不調和な人間であろう。
思えば北城村を出てから2時間近く車で走りっぱなしであった。麻績村なんて所は桜も行ったことは無く見慣れない景色に新鮮味を感じていた。
ふと周りを見れば絆の姿が見えなかった。
「あれ…… 絆は?」
桜が瑞理へ尋ねるようにしてそんなことを言えば、瑞理はそっとセピア色の髪をかきあげて助手席の窓の方へと静かに指差した。
「絆ちゃん、寝ちゃったみたい」
助手席を覗いてみると、安心しきった顔の絆がぐっすりと眠りについていた。朱音と出会って気持ちが途切れたのか、どっと疲労感が襲ってきたのであろう。
「絆ちゃんも疲れているんだよ。そっとしておこ」
今日あった出来事を振り返れば肉体的にも、精神的にも疲弊する事があまりにも多すぎた。けれど、こうして静かに眠っている絆を見れば桜も自然と安堵を覚えてしまう。
桜は助手席の窓から離れ、給油している最中の朱音へと近づいていった。
車の中では後ろの席であったため、朱音の姿が良く見えなかったが今はガソリンスタンドの電灯もあり良く見えている。
上には灰色を基調した防寒ジャンパーを羽織っており、下は恐らく暖パンであろう。肩まで降ろされた亜麻色の髪と明るさが持ち味の彼女の表情は3年前とほとんど変わらないものであった。
「朱音さん……」
「久しぶり。大きくなったね、桜ちゃん」
感情が湧き上がり思うように言葉にできず、結局名前しか呼べなかった。けれど、昔から桜のことを知っている朱音は今の桜を見て色々感じたのであろう。改めて朱音からそんなことを言われると目頭が熱くなってしまう。
「本当にお久しぶりです。会いたかったです、朱音さん」
「おお、桜ちゃんからそんなこと言われた! 嬉しいねえ、ハグする?」
そう言いながら朱音は両手を広げ桜に向かって微笑んだ。胸に飛び込めということなのだろうか。
冗談じみた言葉を並べ茶化してくるのはいつものことで……あったと、桜はついつい過去を思い出し感傷に浸ってしまう。絆も桜もそんな朱音が大好きであったのだ。
「もうそんな年齢じゃないですよ朱音さん。お気持ちだけは受け取ります」
本音を言えば、朱音の胸へと身を預けたかった。でも、桜だってあの頃とは違う。いつまでも他人へ甘えている訳にはいかないのだ。それに今、身を預けてしまうと今まで張り詰めていたものが一瞬で途切れてしまうのが怖かったこともある。
だから、桜は朱音へやんわりと断りを入れた。成長した自分の姿を見てほしいという虚栄心もあっただろう。
しかしながら、朱音は姿勢を崩さなかった。崩さないどころか、桜へ優しい口調でこう言ってくれた。
「今、絆ちゃんは見ていないよ」
──だめだ。
その言葉を聞いたと同時に、桜は居ても立っても居られなくなり朱音の胸元へゆっくりと身を預けた。
もう、何も考えることが出来なかった。考えることに疲れたのかもしれない。
3年間ずっとずっとずっと溜め込んだ感情が朱音の言葉をきっかけに溢れ出てしまった。我慢したものが桜の涙と共に朱音の腕中で流れ出てしまう。
「うぅ…… あ……かねさん」
堪えても堪えても涙は止まってくれなかった。
本当に会いたかった。朱音に、そして瑞理達に……
声を押し殺して啜り泣く桜へ、朱音は耳元で囁いてくれた。
「よく頑張ったね、桜ちゃん」
こういうところだ。
いつまで経っても朱音には敵わないと、あの夏希すらも言わしめる理由はこういう所にあるのだ。
必死にもがき苦しんだ3年間が初めて報われた。その言葉を、労いの言葉を聞いて絆を守り続けた意義が初めて認められたのだ。
だから、今日ぐらい…… 甘えてもいいんじゃないか。
そう思えた瞬間、桜の頭は真っ白になってしまった。何も考えず朱音の腕の中で暫く泣き続けていた。
ほんと、そういうところも夏希にそっくり。
桜の頭を撫でながら、朱音は少し昔のことをつい思い出してしまった。
「すみません、朱音さん。ご迷惑をおかけして」
「全然大丈夫だよ。桜ちゃんも大変だったでしょう。たまには大人に甘えないと」
朱音の腕から離れると、桜は「ええ……」と顔を赤らめた。やはりこの人には敵わないと改めて感じてしまうところだ。
「いやあ、とにかく元気そうでよかったよ。お姉さん心配していたんだから」
声をいつものような明るい調子に戻し、朱音は給油口蓋をバタンと勢いよく閉めた。
「ところで朱音さん、気になっていたんですけどそのキャンピングカーは? 前まではそんな車持っていなかったですよね」
「軍からパクってきた」
桜の質問に対して即座に言い切ってしまう朱音。あまりにも思い切った暴露に桜は何も言えず目を丸くしてしまった。それを面白そうに伺った朱音は笑いながら「冗談冗談」と桜の肩を叩いて続けた。
「元々軍で使用されていたヤツだったけど、もう使わないからと言ってアタシにくれたの。ほら、破棄されるの勿体無いじゃん? まだ動くしそれだったらアタシが乗ろうかなって」
「そ、そうでしたか…… びっくりしました」
肩を撫で下ろす桜。流石に朱音が窃盗するとは思えないがあんな真顔で言われてしまえば誰だって驚いてしまうだろう。またそんな桜の反応を愉快に感じているのか朱音は「おや? 桜ちゃんはアタシがドロボーする人間だと思っているのかね?」と追撃で茶化しにかかる。
「いやあ、アウトドアな趣味もいいかなって思って貰ったんだけどまさかこんなところで役に立つとはねえ〜。世の中何が起こるか本当に分からないよね」
朱音が両腕を腰に当てて満足気な顔を浮かべた。
「軍から……ということは、まだ朱音さんも軍に所属していたんですね。相変わらず技術士をやっているんですか?」
桜の記憶の中では朱音は本軍の支部に所属する軍人で止まっていた。軍人といっても直接戦うような戦闘部隊でなく陸上用車両などの整備を施すエンジニアとして働いていた。彼女の口から『軍』というワードが出るあたり、まだ軍で勤務しているということであろう。
その予想は当たりだったのか朱音は「そうだよお」と不機嫌そうに口を尖らせた。
「ちゃんと辞めずにしっかりと働いてますよ! 弥生じゃないんだから、真面目に労働に勤しんでいますよーだ」
「朱音さん、弥生姉さんには色々言っていましたからね……」
弥生とは桜の姉の一人である。零佳の双子の妹でもあるが、性格容姿共に零佳と全く異なっていた人物だ。
家にいるときは全然働かずダラダラしていたことが多かった。あの朱音ですらも弥生には手を焼いていたそうだ。
久々に弥生の話題になり思わず桜は笑顔になる。
「桜ちゃんはしっかりしているからいいけど、あの子が一番心配だよ。あれから連絡取れなくなっちゃったしさあ。どこかでのたれ死んでいなきゃいいけど……」
「弥生姉さんはああ見えて強靭だからきっと大丈夫ですよ」
物騒な表現で弥生を懸念するが、朱音なりの愛情なのだろう。
『弥生を心配するだけ無駄である』……長く一緒に暮らしていた桜が一番弥生の強靭さを知っていた。
それでも朱音からの愚痴は絶えなかった。相当な思い入れがあるのか
やれ
「あの子に働けって言ったらなんて言ったと思う? 『残念ながら、ボクはそういうのを好まない人間なんで』って。じゃあ何を好むの? って聞いたら『家にいることか外にいることかな?』ってきっぱりと答えたのよ。流石のアタシも呆れてものも言えなかったよ……あの時は絆ちゃんが近くにいなくて本当に良かったと思ってるわ」
だの、やれ
「ほんっと、零佳と大違い! 零佳と双子姉妹とは今でも信じられないよ! 零佳の爪の垢を煎じて飲ませたいね!」
だの、やれ
「あの子が一人で生き抜くビジョンが見えないのだけど…… ほんと、大丈夫なのかしら?」
だの、桜が宥めても全然落ち着く様子が見られなかった。対する零佳が立派な人物だっただけに悪く見えてしまうようだ。
しかしながらひとしきり桜へ溜まった想いを吐き出せば、優しい目へと移り変わり「懐かしいね……」呟いた。
「ねえ桜ちゃん、皆に……会いたいよね」