二度目
それは、音も許さぬ斬截であったと言う。
切断する音は一切に無く、むしろ外より聞こえる囁かな雨音のみが部屋の中に残されていた。
静寂は全く崩されることはなかった。故に冬香はそれを目で追うことはおろか耳ですらも捉えることが出来図にいた。
何が起きたのか……?
それは目の前で胴体を二つに割られ、臓物を露出しながら流血している敵の姿から察せられた。
映し出される敵の断面、冬香はこの時初めて『奴』にも骨があるのだと気付かされた。ヒトと似た臓物、そして骨格を持っているのだと……
斬ったのか……?
普通に考えればあの時、刺し込むような隙は無い。それなのにも関わらず、あの間あの瞬間に己が持つ刃を滑り込ませたのだ。
茉里の部屋、その真横に位置する冬香の自室から踏み込んで一太刀…… 無音の一太刀を見舞ったのだ。
その鮮やかさはむしろ芸術すら感じられた程である。あまりにも疾風すぎる一撃…… 恐らくは向こうも斬られたことに気づかず死んでいったのであろう。
感嘆なんかしている状況ではない。だがそれでもその華麗しさに心を奪われてしまった自分がいた……
「まさか……」
骸と化した化物の上、鮮血の海と化した畳の上、凍てつく雨風が吹き荒ぶ部屋の中、荒廃なそれとは全く似合わない桃色の和服姿の女性が一人……
「──零佳……?」
後ろに一つ縛られた艶やかな黒髪、細長い鼻筋、きめ細やかな肌、背筋の伸びた綺麗な立ち姿…… どれも全て冬香の知る零佳の特徴だ。共に2年以上過ごした、良く知る零佳の姿……
だが──
目が異う…… 冬香が知る、零佳の目とは全く別となるもの。特徴的であった零佳の神秘的な、深い蒼色の瞳はどこかへ失われていた。
あの姉に似ていないと言われていた穏やかな、優しい母親のような眼差しでは無い。
激情に燃えた目だ。今まで見たことのない、秘めた怒りを露わにするような目。強い意志を感じる目……
「──零佳……なのか……?」
知ることの無かった零佳の目。だから…… 一番零佳を知っている冬香ですら無意識に声を出してしまった。
零佳の右手に持たれているのは一本の日本刀。敵を葬り去った刀である。
胴へ横一文字の一撃だったはずだ。それにも関わらず刀に一つたりとも血雫が付いていない。
刃は曇る事なく銀に煌続けている。
それは零佳の和服も同様であった。
不思議なことに桃色の和服は血痕一つ残されていない。至近距離の攻撃であった筈だ。返り血一つ浴びるのもやむを得ないのが通常だというのに……桃色の和服は血の浸食を拒むかの如く、一滴たりとも付着を許していなかった。
右手に持つ刀、そして激情に燃えた目が無ければ、目の前に立つこの人物が零佳だと疑う事はまずなかったはずだった……
──本当に零佳なのか……?
あの、零佳……なのか……?
あの零佳が、斬ったのか……?
目の前で察せられる事実。だがそれでも冬香は信じることが出来ずにいた。
「零姉……」
茉里の声は微震えていた。見上げた先に佇む女性が、いつも姉のように慕っていた人物とはとても同一に思えなかった。
大切な『宝物』、壊れてしまった『宝物』を繕してくれた優しい姉が……
失敗しても 怒る事はなくいつもお淑やかに接してくれていた姉が……
自然を愛し、いつも平和を祈願っていた姉が……
こんな表情をするのかと……
ここまで感情を露わにするのかと……
「茉里…… 大丈夫よ」
それは凛とした声色であった。茉里を安心させようとかけた言葉。芯が強く、何者にも負けることのない、落ち着いた声。
確かに……
確かに普段の、茉里の知る零姉では無かったのかも知れない。
けれど──
窮地を救ってくれた姉。命を助けてくれた姉。
自分を守ってくれた姉の姿であった。
茉里の知らない姉の表情。それでも大好きな零姉には違いなかった。大好きな、大好きな茉里の零姉であった。
「茉里、零佳!」
冬香が駆け寄り飛び込むように茉里を抱き上げる。ぽたりと血が一滴、茉里の足首から滴り落ちた。
痛む右足首、けれど茉里は声をあげなかった。歯を食いしばって堪える。
零佳は黙って窓に視線を向けていた。一緒に逃げようとする気配が見られない、様子を伺っているのだろうか…… 冬香には零佳が何を考えているのか全く分からなかった。
何か言葉を投げかけなければ…… そんな気持ちが冬香の中で巡った瞬間であった。
外を見つめていた零佳は小さく口を開き静かにこう言った。
「冬香さん…… 先に避難て下さい……」
右手に持たれた刀。手前に構え刃先をそっと上に持ち上げる。刃先に焦点を移し集中力を高めるが如くじっと見据えていた。
小さく、落ち着きながらもしっかりと耳に届いた。夜の雨音に負けることのない稟とした声が冬香の中で反芻される。
「なんだって……」
先に逃避る…… その言葉を聞いた冬香は即座に踵を返した。
何を言っているんだと、お前を残して去ることなんてできないと…… 飲めない提案に対して抵抗をみせた。
生きていれば何かがある。そう言い続けていたのは零佳のはずだ。自分達を庇って命を危険に晒すようなことできる筈がない。零佳は一緒に暮らした家族なのだ、見捨てるような真似はできない。
「冬香さん…… そして茉里……」
しかし続けられる冬香の言葉は遮られてしまう。力強い声、跳ね返すことが出来ない声だった……
零佳は刃先から視線を外し冬香、そして抱き抱えられた茉里に目を向ける。
「零佳……!」
神秘的な普段の零佳が持つ眼差しと違う、激情を写し出す瞳が向けられた。人を守ろうと決意した人の目であろう。
穏やかさは一つも無かったのかも知れない。
だが……
この時、本当にあの売木夏希の妹であると確信を得てしまう。皇女を殺害した頃の夏希ではない。人を守ることに身を捧げた夏希と面影が重なってしまった。
売木夏希の妹だ…… 運命に絆られた妹の一人……
冬香は強く瞼を閉じた。認めたくなかったからだ。
過去も血縁も切り離すことができないものだと、逃げることができないものだということを認めたくなかったから現実から目を逸らしてしまったのだ。
「私は大丈夫です。死ぬつもりはありません……」
庇って犬死にする積もりは全く無いと、必ず生きてもう一度逢うと…… そして、生きて抜いてでも追求ことがあるのだと……
その決意の目は恐らく…… そうだ、間違いない……
間違いなく彼女の人生の歯車を、止まり続けていた歯車を動かそうとしているのだ。この件を拍車として動かそうとしているのだ。
襲い来る謎の生物から、崩れ去った平穏から零佳なりに何か感じ取るものがあったのかもしれない。
疑念を晴らす何かを、もしかしたら感じたのかもしれない。
「いいのか、零佳……」
悩む時間を与えない。そう言わんばかりに忍び寄るように窓から2体の敵が現れた。冬香たちの命を狙うかのように体を広げて威嚇を始める。
零佳は左手を勢い良く振り払い真横で静止した。「下がれ」の合図であった。
「時間がありません…… 早く!」
今生の別れではないと零佳は言っているのだ。今は零佳を信じてその場を離れるしかないだろう。
「いやだ! 零姉と離れたくないよ! 零姉も逃げようよ!」
抱き抱えられた茉里が涙を流し訴える。枯らしたはずの涙がまたも頬を濡らした。
大好きな零姉と離れ離れになる。それを考えただけで茉里は耐えることが出来なかった。
「茉里……大丈夫。もう一度、生きて逢いましょう」
「でも…… でも……!!」
冬香も黙流しかなかった。本音は茉里と全く同じ気持ちだから、でも零佳にはやることがある、生きて生き抜いて追わないといけないことがある。
だから、冬香はこれ以上強く引き留めることができなかった。
零佳は泣き続ける茉里の頭を優しく撫でながら「それに……」と続けた。
「『ちぃ』は必ず見つけ出すわ…… だから、安心して」
「零姉…… 零姉……」
失った『宝物』、けれど目の前にいるそれ以上の大事な『宝物』を失ってしまうのかもしれないと……茉里は恐れた。恐れて恐れてそれでも感情を表へ出すのを堪えた。
冬香は腕の中で啜り泣く茉里を強く抱きしめることしかできなかった。大丈夫だ、必ず逢えると小さく囁きながら……
「すまない、零佳。 死ぬんじゃないぞ……」
顔を上げ、零佳と目を合わせる。
その言葉を聞いた零佳は「はい……」小さく頷き、窓辺で奇声を上げる敵を睨んだ。
「冬香さん…… 今まで本当にありがとうございました」
口癖のように何度も聞いた言葉。感謝の意。
聞けば付随するように零佳の言葉が思い返される。『感謝はいつでもできるものじゃない』と。
その意を…… 零佳の意図をようやく理解した。
そうだ…… 零佳は2回目だ。
平和な日常がある日突然に終結を迎える。皇女暗殺事件をきっかけに平穏を奪われた彼女にとってこれが2回目の経験となるのだ。
過去は伝えたくても伝えきれなかったのであろう、だが…… 今回は……
今回はしっかりと受け止めた。零佳の感謝の気持ちを、冬香は受けとめた。冬香はしかとその気持ちを受けとめて声を張り上げた。
「零佳、必ず生きて確かめろ! 自分の目で何が起きたのかを!」
抱かれた疑念を晴らす。
囚われの姉に対して抱く疑念。膨らみ続けた疑念。零佳に宿り続けていた疑念。
その疑念を晴らす……
それは冬香が最後に伝えたかった言葉だった。
しっかりと耳に届いたのか、黙って目を伏せ頷く零佳を確認すれば、冬香は振り返って駆け出した。
「零姉!! れいねえ!!」
手を伸ばし茉里が叫ぶ。けれど脚は止めなかった。
外へ至るまでは数秒であった。その数秒の中…… 冬香は悟った。
──終わった……
今日この日、日常が…… 今まで過ごした平和な日常が終わってしまった。冬香の日常が、茉里の日常が…… 今日で終わりとなるのだ。
けれど、諦めない。駆け出した脚を止めないように、進み続けるしかない。
その先、また零佳や茉里と共に過ごせるかは分からない……
そうだとしても、今日この日をもって日常が終わったという運命を割り切って、つき進むしか方法は無いのだ。
外に出た瞬間、ワゴン車が現れて目の前で停止した。駅から温泉宿まで客を送迎する営業車両だ。いつもなら客を数人乗せているが今日は見慣れた宿の従業員しかいなかった。
「女将、茉里! 早く乗れ! すぐに逃げるぞ!」
運転席に座るのは睦であった。先に逃げろと言われたものの、流石に女将を置いて逃げることはできなかったようだ。
「ありがとう、睦」
開けられたドアに向かい飛び込むように冬香は乗車し、出発するよう睦へ合図を出した。
クラッチ踏みをギアを1速に切り替えたところ、睦がある違和感に気づきブレーキを強く踏む。
「ちょっと待て、零佳は…… 零佳は……!?」
「ワケは後で話す! 行くんだ睦!」
睦の戸惑いを押し切るように冬香が強く言い放つ。
なんとなく、零佳がまだ宿内にいるのは分かった。しかしながら何か零佳とあったのであろう、後で説明されると言われたって到底腑に落ちるものではない。
「わ、わかった……」
だけどここは女将の言うことに従うしかない、睦は若干躊躇しながらアクセルペダルを踏んだ。
複数回タイヤを空転させながらもワゴン車は滑るように加速していった。
冬香はそんな車内でそっと散弾銃の残弾を掌に乗せ、残りの弾数を数えていた。
4発…… この4発を温存させる為に零佳は自分達を逃したのだろうか…… それもあったのかもしれない、結果として残った4発……
零佳に託された茉里。この4発で茉里達を守ってくれと言うことなのだろうか…… それも分からない。けれど零佳の気持ちを無駄にするわけにはいかない…… 必ず茉里を守る。冬香は揺れ動く車の中、自身の腕に包まれた茉里の顔を見つめながらそう心に誓った。
冬香の気配が無くなった…… 恐らく逃げることに成功したのであろう。零佳はそっと刀を両手に構えながら呟いた。
狙いは…… 恐らく…… 私……