平穏の終結
「早く逃げるぞ!」
「ちょっと待て睦!!」
その言葉を受け思考が纏まろうと前に睦が腕を引っ張ろうとするが、ここで逃げるわけにはいかなかった。ほんの数秒だけでも考える時間を与えてくれと睦へ無言で目を配らせながら半歩ほど離れた。
零佳と茉里がいない……?
この宿の中、まだ取り残されているというのか……? そうだとしたら……
途端に焦燥が加速する。
零佳…… 茉里……
鮮明に思い浮かぶ、彼女らの顔が、声が…… 昔の思い出じゃない、つい数分前の回想だ。
「おい、女将! どこへ行くんだよ!!」
「睦は先に逃げろ!」
全てを理解し終える前に冬香は畳を蹴って駆け出していた。背後から睦の声が聞こえ、それは呼び止めるものであろう…… だが、冬香は一切に脚を止めることなく前へ進み続けていった。
零佳と茉里…… 零佳は自室にいた可能性が高い。先程零佳と二人で会話した部屋だ。あの部屋は窓から直接外へ出ることが可能である。
あの場所から大きく移動していなければ既に外へ逃げている可能性が高い。だがそれでも睦が見ていないとなると、もしかしたらの可能性も無きにしも非ずだ。
問題は茉里…… 零佳と話す直前、冬香は茉里へ宴会場の掃除を任せていた。この宿の宴会場に窓は設置されておらず、逃げるにも必ず廊下を渡らなければならない。即座に外へ逃げるのは不可能だ。
それに加えて、茉里は幼い。この状況下、怯える事なく逃げ切ることができるなんて事も考えにくいだろう。
当然、こんな化物に太刀打ちできる訳がない。
誰かが守ってやらないと……!! 茉里が……!!
「零佳!! 茉里!!」
頼む…… 生きていてくれ……!
冬香は祈ることしか出来ない。もしかしたら既に…… という不吉な考えも駆けていく中何度も過ぎった。
床に茉里と思える何かが転がっていたら……
動かない零佳が壁に寄りかかっていたら……
宴会場までの距離は全く遠くない。ほんの数秒で着く程である。それにも関わらず、とてつもない時間に晒されたような気分になってくる。
宴会場が視野に入ってから、襖へと至るまでの数歩…… 走っても走っても前進しないという錯覚が冬香を焦らせた。
襖まで一杯に手を伸ばし、それがようやく手に掛る。
「茉里!! いるのか!?」
宴会場の襖、壊れるような勢いで開けながら茉里の名前を何度も叫んだ。
人のいない宴会場、通常であれば静寂に保たれるこの部屋だが今日は違っていた。外から聞こえる物音に加え崩された机や破かれた襖扉、散り散りになった座布団等、凄惨な光景を見るにあの化物もこの部屋に訪れたのが良くわかる。
滅茶苦茶だ……
茉里が一生懸命掃除した宴会場が、誰からも労を労われることも無く故も知らぬ者に荒らされてしまう……
こんなことが…… 許されるものか……
気押されてしまいそうになったのか、自身の声で奮い立たせようと腹底から茉里の名前を呼び続ける。
返ってきてくれ…… 茉里の声…… お願いだ……!
だが、何度叫ぼうが声が返ってくる様子は見られない。名前を呼ぶにつれ、不穏な感情に苛まれていくばかりだ。
「いない……のか……?」
広い間取りでありながらも見渡せる宴会場、押入など隠れる場所も少ない事からもこの部屋に茉里がいる可能性は低いと察する。
否、茉里が生存している可能性が──
「いないの……か……」
猛烈に襲いかかる心の中の深淵。雲がかる希望の星。
冬香はその脚を崩しそうになる。最悪の想定、けれど常識的に考えればその可能性が一番高いのだ。
だとしたら……? もう……?
──いや。
認めない、まだ諦めない。
絶対に生存ている……!
もう一つの候補地が思い当たる。茉里の自室…… 茉里の大切な布人形、『ちい』の置かれた自室だ。
茉里はどんな時も必ず『ちい』を手放さなかった。
一緒に外へ出かける時は常に持ち歩いている程、お気に入りの範疇ではない、それは零佳の言っていたように『宝物』だ。
茉里の成長を一番見守ってきた『ちぃ』。この宿に来る前、茉里が孤独だった時から彼女の事を知っている『ちぃ』……
茉里の宝物である『ちぃ』を手放して逃げるとは到底思えない。
むしろこんな状況下なら、それこそ茉里は『ちぃ』の安否を一番に想う筈だ。『ちぃ』の元まで行き『ちぃ』を助ける。
助けに行くために『ちぃ』のいる自室へ向かう……
ここに居ないのならば……
──これに縋るしかない……
一緒に暮らした茉里との思い出が、冬香の中に希望を見出す。
仕事で疲れていた。走る前から息は荒れていた。そもそも走ること自体好きなことではない。
そんな冬香が1秒でも早く茉里の部屋まで辿り着けるように力を振り絞る。頭が鈍痛くなる。呼吸が追いつかない、とても窒しい……
けれど、冬香は脚を止めることはなかった。茉里が生きている可能性が少しでもあるのなら……
回らない頭の中、見出された希望は一途に膨らみ続ける。
茉里の部屋は冬香の部屋と襖一枚で隣り合わせになっている部屋だ。茉里を拾った時はよく一緒に寝るようにとせがまれたものだ。
部屋の襖が見えれば、まるで初めて茉里と出会った日のような懐かしさを感じてしまう自分がいた。
あの時の茉里は孤独と寂しさに塗れ、今のような明るさは無かった。心を杜ざしており、零佳や皆と交流してようやく元気になったのだ。
こんな極限の状況、状態なのに感じる感情は懐かしさ……か
「茉里!!」
茉里の部屋に着いたが、その襖扉は既に開けられていた。そして部屋の中を見た瞬間、冬香は呼吸を止めてしまった。
爪により抉られた畳、砕かれた家具、割られた窓…… そして倒された冬香と茉里の部屋を繋ぐ一枚の襖。
信じたくなかったその光景であった。
窓から小粒の雨が暗闇より降り注ぎ、青の畳を淡々と濡らし続ける。強い風が侵入し冬香の茶がかった髪が少しだけ宙に舞った。
その瞬間、冬香は全てを悟った。
やられた……
判断は早かった。凄惨な部屋模様が全てを物語っており、茉里の声も聞こえない……
「嘘だ……」
音のない言葉が吐かれた息に混じえて発せられた。
「フユカ……?」
小さな声が、冬香を呼ぶ声が聞こえる。部屋の奥から、外の風音に負けそうな程の小さな音だったが聞き逃さなかった。
「茉里…… 茉里なのか……!?」
崩された瓦礫により遮断られよく見えなかったが部屋の隅に幼き子が蹲っているのが確認できた。膝を抱え、土埃に汚れた姿。恐怖に怯え涙を枯らしたのかその目は充血していた。
「フユカ…… いるの……?」
畳の上、拙い足取りであった。こちらへ気づけば立ち上がり、冬香へ歩み寄ろうとする。
摺り足でゆっくりと、恐怖に脚を掴まれているのかうまく歩けないようだ。
「茉里! 逃げるぞ、早く!!」
ほんの一瞬だけ安堵した。ほんの一瞬だけ……
2人で逃げて初めて喜びを噛み締めることができる。
「ねぇ、フユカ…… 『ちぃ』がいないの……」
それはか細い声であった。宝物が見つからないと。大切な宝物が見つからないと……
いつもなら…… いつもなら愚痴をこぼしながらそれでも一緒に探していたのかも知れない。一緒に探してもう無くさないように叱責していたのかもしれない。
『ちぃ』を無くした時の茉里の気持ちは痛い程に分かる。それが茉里にとってただの『玩具』でないことだって、重々承知している……
けれど……
「『ちぃ』はきっと見つかる! それよりもここから逃げるぞ茉里!」
死んでしまえば『ちぃ』を探すことすらできなくなる。『ちぃ』に二度と会えなくなるのだ。
「『ちぃ』は……? ねえ、フユカ……『ちぃ』も一緒に逃げなきゃ……」
よちよちと言った表現が妥当であろうかその足どりは、ついに転倒と共に止まってしまった。
四つ足になり、なおも這うようにして冬香との距離を縮めようとする。
「……茉里!?」
その時、冬香は初めて理解した。彼女の足は負傷していたということを。 足裏から血を流しており、片跛状態であったのだ。
痛々しい傷…… どこで負ったのかは分からないが恐らく木の破片が刺さってしまったことが考えられる。
「傷が広がるから動くんじゃないぞ、今すぐそっちに向かう」
「うん……」
元気のない、力の無い声…… それでも自分を助けてくれるという萌しを胸に含んだ返事であった。
縦に長い部屋の間取り、だが茉里までの距離はそれでも10m程だ。
──必ず助ける……!!
冬香が茉里まで駆け寄ろうとし、一歩踏み出した瞬間だった……
──窓から
破られた窓から『奴』が滑るように……
部屋の中へ吸い込まれるように……
侵入してきた。
「なっ……」
一歩目が、踏み出せなかった。茉里を助けるはずの一歩目が、出せない。唐突な出来事が故に冬香の身体が硬直してしまう。
黒色の化物が……この宿に絶望を与えた化物が1体、藺草の色を濁らせた。
「あ……いやだ……」
四つん這いになる茉里の前、その化物は立ちはだかってしまった。
その間合いは一瞬にして取られ、既に茉里の首を切断することが可能な距離まで詰められてしまった。
殺される……
茉里が…… 殺される……
助けなければ殺される……
気持ちでは分かっていた。けれど、全く受け入れることが出来ない現実に冬香は顔面を蒼白させてしまう。
「フユカ…… 助けて……」
完全に腰が抜け、背に立つ影に睨まれ茉里は完全に動けなくなってしまった。ただ冬香に対して助けを求めることはできた。痛む足、もう自力で逃げることは無理であろう。
だから、最後の最後まで冬香へ助けを求め続ける。茉里にとって冬香は一緒に暮らしてきた母のような存在だからこそ、手を伸ばすのだ。
「茉里……! くっ…… やらせるかっ!」
茉里と同様に慄いている暇はない。冬香は持っていた散弾銃を構え、化物に対して狙いを定めた。
距離は10m…… 外すような距離ではない。いくら錆び付いた腕でも必中する距離だ。
だが…… 引き金をかける指が震えて全く言うことを聞かなかった。
あと少し、ほんの少しでも時間を与えたら茉里は死ぬ…… だから、自分があの化物を撃ち殺さないといけない。あの忌々しい化物の息の根を止めないと…… それ以外に茉里を助ける手段は無いはずだと……
分かっている。
分かっているはずなのに……
手に力が入らない。
腕が痙攣を始めていた。攣った訳ではない、強いストレスを感じてのものだ。
距離は10m、この銃の集弾性を考えれば散弾いえど、一発も残さず相手に見舞うことができる。
だが、それでも、万が一のことが起きたら……と考えてしまう。
瞬間に過ぎる。偶然の懸念。
この銃は、手入れもせず長い間倉庫に仕舞われていた。手入れもせず、長い間弾の火薬を湿気らせていたのだ。
それに軍の使う高級品ではない安物だ。故にモデル通りの性能を発揮できない可能性が十分高い。
そんなもの、そんな危険なものを茉里に向かって撃ち放つ。
一発でも逸脱が出たら…… それが茉里に直撃したら……
最善は尽くすのは当然の話だ。だがそれでも万一の事態、冬香が茉里を殺めてしまう事態になったら……
それでもやるしかない。そんな偶然の事態を懸念するより目の前に襲いくる茉里の危機を救うのが明らかに優先事項だ。引き金を引くしか選択肢は残されていない…… 何もしなければ茉里が死んでしまう。
それなのに、既に意は固まっているのにも関わらず指に力が入らない。神経を切断されたように小刻みに指が震えて言うことを聞かないのだ。
茉里を殺してしまったら……? 自分の手で茉里を殺してしまったら……
もっと、しっかり訓練しておけばこんなことで悩まずに済んだのかもしれない……
「フユカ……!」
大きな爪が振り翳され、茉里の首元を仕留めようとする。
その時、冬香は本当に時間が無かったのだと理解した。1秒たりとも悩むことは許されていなかったのだ。
悩んだ時点で、躊躇した時点で冬香の負けであったのだ。
そう、軍人でない冬香が葛藤を払拭した後、今更悠長に狙いを定めること事態がもう遅いのだ。
「ダメだ……」
冬香の絶望の声と共に爪が振り下ろされた。
──その時、冬香の部屋から神速の如き速さで現れる人影が一つ。
何が起きたのか、冬香はすぐに理解出来なかった。
目の前で横一文に胴を裂かれ血を噴き出しながら倒れる化物。
斬られたのだ…… たった一撃で文字通り真っ二つ……
冬香も目に追うことの出来なかった疾風さの一閃で脅威を沈黙させたのだ。
「まさか……」
化物を斬った人影…… 神速の一撃を叩き込んだ人影…… 茉里の窮地を救った人影……
その人影は桃色の和服を身に纏っていた。
「──零佳……」