対峙
【長野県北城村 午後7時過ぎ 曇り 気温2.0℃】
刀を上段へ構えながら桜は敵をじっと睨みつける。絶対に視線を外してはいけないと、瞬きすら惜しむかのように目を凝らした。
とはいえ、電気は切られてしまい食卓は暗闇だ。桜の目が慣れてきたとはいえ、それでも殆ど見えない状態である。奥にある非常口標識が発する緑白の光が唯一、桜の視界の頼りとなっていた。お世辞にも明るいだなんてとても言えないシロモノであるが。
敵は大きな咆哮をした後、桜の様子を伺うかのように動くことは無く、不穏な静寂が訪れる。
桜は訝しげな表情を作りながら、敵を中心に弧を描くようにゆっくり右へ右へと間合いを詰めていく。一歩一歩、呼吸と合わせながら敵の動向を探っていった。
しかしながら、依然として化物は微動だにしない。桜と同様間合いを探っているのだろうか、そこまで思考する生き物であればそれも有り得るが……
動かなければ、こちらから行くべきか。そんな考えへと切り替えた時であった。
かちゃりと桜の足元で軽い陶器の音がした。足元をわざわざ伺うまでもない、食器のカケラが足と接触したのだ。先の衝撃で食器棚が倒れ、散乱してしまった食器の一部であろう。
ただ、その音を何かの合図と捉えたのか敵が突然桜へめがけて突進してきた。2mもある巨体だ。けれど、その大きさなんてものともしない程の凄まじい速度で桜の懐まで飛び込んでゆく。
ただでさえ視界が悪いというのに、そんな速さで動こうものなら桜の目が追いつくはずもない。一瞬にして間合いを奪われ、敵は爪を振り翳し桜の胴体を切り裂こうとするが……
「──っ!」
爪の軌跡は空を斬った。
桜は思い切って右方向へ飛び込んだため、なんとか間一髪で回避することができたのだ。
既にやられたものだと錯覚していた桜は、立ち上がった時にようやく自分の無事を確認する。
──躱せた!?
一瞬、何が起きたのか自分でも理解することが出来なかった。
自分自身でも信じることが出来ない咄嗟の反応で躱せたのだ。あの至近の間合いで詰められて間に合ったというのだ。通常であれば、間違いなく斬られていた筈だというのに、意識する前に身体が動いてくれた。
豪快な空振りを見せた黒の化物は、苛立つかのように声を上げ桜へと振り向く。奇跡的な回避行動程度では悠長に時間を与えてくれなさそうだ。
桜は再度『桜花爛漫』を構え、目を凝らした。
聞き覚えのある奇声を発して化物は桜を八つ裂きにしよう連撃を仕掛けようとするが、桜は冷静に半歩、一歩、時には2歩ほどのバックステップで見極め、一撃一撃を空振りで終わらせる。
だが最後……桜の姿勢が大きく崩れ、刀で受け止める形となってしまった。部屋が散乱しており、何かに足元を取られてしまったのだ。躓いた瞬間は肝を冷やしたが、それでもなんとか間に合い、鍔迫り合い状態へと持ち込んだ。
とは言っても力は向こうの方が何枚も上手だ。どんなに力で抵抗しようとも桜の身体は押し戻され、ついには奥にあるテーブルまで迫られてしまう。そのまま桜の身体はテーブルに乗り上がり、強い力で押し付けられてしまった。
「ぐっ……」
物凄い力だ。刀越しとはいえ、このまま潰れてしまってもおかしくないとまで思えてしまう。どんなに押し返そうともびくりともしない。間にある刀が折れてしまったらそれこそ本当に最期だ。
「お姉ちゃん! 負けないで!」
近い位置から絆の声が聞こえる。この辺りで見守ってくれているのであろう。
桜の戦いに目を背けず見守ってくれているのだ。
──こ、こんなところで!
負けられない。負けてたまるか!
「はああ!」
桜は思い切り化物の右手を蹴り上げた。当然その程度ではダメージも与えられないがほんの少しだけ敵の力が緩んでいくのを感じ、桜は瞬時に右側へ滑り込むように身を動かした。
力の向きが大きく逸れたのか、敵はバランスを崩すように前のめりとなり、一瞬だけ爪と刀の距離が乖離れた。
桜はその一瞬を見逃さず、勢いそのままに右側からテーブル上を滑るようにして降りてゆく。
着地する姿は綺麗な格好とは言えない。結果、迫り合い状態から解放されたが、着地した時に桜の耳はザンッと鈍い音がするのを聞き逃さなかった。
すかさず桜はテーブルから距離を取り、耳で捉えた現象を目でしっかりと照合した。
木製のテーブルが化物の攻撃により真っ二つになっていた。高級なものではないが、とても堅く、並みの人間じゃそうやすやすと壊すことのできない頑丈な作りとなっている筈だ。それなのに……
最も簡単に破壊してくれる。この化物は……
改めて敵の力を思い知り、桜は下唇を噛む。約3年ぶりに刀を持って対峙する相手がこんな化物であるなんて、誰が想像したであろうか。
──だが……
もう一撃訪れる重い一撃。今度は器用に去なすことに成功した。
敵の力を刀で受け流す『去なし』。力のベクトルを明後日へ向かせる技であり、タイミングがしっかりと決まれば、どんな巨体な敵でも大きく姿勢を崩すと言われている。現に目の前で身体を揺らし、蹌踉めく化物のように、相手の一撃が重ければ重いほどその効果は顕著に現れる。
かつて、姉達が桜に教えてくれた剣術の一つであった。
国内最高峰の戦闘集団、皇軍騎士へと夏希を導き、その強さを夏希自身で証明した至高の剣術だ。
──間違いない。
今の『去なし』で桜は確信する。自分に注ぎ込まれた剣術が、3年の時が経とうとも何一つ腐っていなかったということを。
確かに桜の繰り出した『去なし』は形勢を逆転するのに有利に働く剣術であるのは間違いない。
だが、去なしは極めてシビアなタイミングが要求される剣術だ。相手の攻撃に合わせ繰り出さなければならず、ほんの少しでもタイミングが外れてしまうと逆に自身が刺し違えてしまうという危険を孕んだ、いわば『諸刃の剣』とも言える技だ。
そんな危険な剣技を3年ぶりに、しかも命が懸かった戦いの中で繰り出そうと桜自身も思考えてもいなかった。
それにも関わらず感覚だけで身体が動き、瞬時に対処できたのだ。幼少時から絆を守るために訓練をしてきた賜物であろう。
それだけじゃない。
実戦と訓練では全く別世界であるのは桜も知っている。こんな暗い中で戦うことを想定した指導も受けていない。それなのに背中に翼が生えたかのように身体が軽く、自然と身体が動いてくれる。
本来の自分であったら、命を賭けるという圧力に押され思うように身体が動かなかったかもしれないが、今は違った。逆に動けば動くほど錆が落ちていくように、動きの俊敏が増してきているのを自分でも感じているのだ。
言葉では説明出来ない何かが桜に力を与えているとしか考えられなかった。
攻撃を見事に去なされ、よろめく敵を前に、桜は一歩後退して距離を置く。するとまたも皿の欠片が桜の足元を掬おうとした為、桜は不機嫌そうに喉を鳴らした。
部屋は暗い上に、荒らされてしまい散乱状態だ。戦う上で桜へ有利に働くどころか不利へと誘う要素ばかりである。皮肉なことに、自宅なのに何一つ地の利を得ていないのだ。
強いてあげるとすれば醜い敵の全貌が見えなくて良かったことぐらいであろう。
こんなことで、集中力を途切らせてはいけない……。
息を吐くと同時に、片手で確かめるようにゆっくりと『桜花爛漫』を振り払った。
この感覚……
久々に手にしているはずなのに驚くほどに手に馴染む。おまけに振っても煩わしさが感じられないほど自分の身体に合っている。今日この日の為に錬成られたかのような錯覚すら覚えてしまった。
今日という日が来るのを、分かっていたのか……?
手に持つ『桜花爛漫』も、夏希から受けた剣術も、絆という大切な存在も、何もかもが今日という日があることが分かって備えられたとしか思えない。
そこまで考えたくなる程、下準備が出来すぎていた。
そう、あの醜い敵を倒すために……
体勢を立て直した相手は何も考えることなく桜へと向かってくる。甲高い金属音が鳴り響いたと思えば、桜は瞬時に身を翻し相手の力が流れる方向へ力を緩めた。
意表を突かれたかのように敵は一瞬だけ動作を硬直させる。その合間を隙と見て桜は素早く斬りかかろうとするが、飛ぶ様にして躱されてしまった。
向こうから「そんな!」と絆の落胆する声が聞こえてくるが、桜も全く同じ気持ちであった。
完全に殺ったものと思っていただけに桜は言葉を失ってしまう。あの図体であの動きだ。信じられないとしか言いようが無かった。
それに躱す間際に桜と接触したのか、いつの間にか肩にどろっとした液体が肩に付着していた。
気味の悪い感触。すぐにでもコートを脱ぎ捨てたくなる気分にもなるが、今はそうもいかないだろう。特に、あれほどの俊敏な動きをする化物だ。少しの隙も見せてはいけない。
──本当に何者なんだ、こいつらは……
あまりにも未知すぎる敵を前に、桜は犬歯を露わにした。