迫り来る脅威
朝食事をした食卓へと場を移し、引っ越し時に買った新しめのテーブルに添えられた椅子へと桜は腰掛けた。そして絆も合わせるように桜と向かう形で着席する。ただ、桜と異なっていたのは冷たい水を用意してくれていた事であった。激しい運動をした姉への気遣いであろう、桜は絆よりコップ一杯の水を受け取り、飲み干してから先の出来事について簡潔に話した。
帰ってくる最中で何が起きたのかを……
絆が見たように壊れた家屋を自分も目撃したことを……
その後、スイカ畑のある家で襲われたことを……
走って逃げて、その時にコートを汚してしまったことを……
絆も固唾を飲みながら、何も追及せず黙って聞いてくれていた。
しかしながら話せば話す程に絆の顔色が蒼白へと近づいていくのを感じる。もちろん、ある程度は柔らかな表現を用いたつもりである。ただそれでも元の事実が事実なだけに、現実とは思えないほどのショッキングな展開となってしまうのだ。オブラートに包みすぎても現実と乖離してしまう為、桜は出来る限り事実を曲げないよう慎重に言葉を選んでいた。
そして話は逃げている最中、4人の家族と遭遇したところへ突入しようとした時である。
「黒い……化物!?」
堪らず絆が口元に手を抑えながら声をあげた。聞かれて当然の反応であろう、何から何まで非現実的な話ばかりだ。自分でも話している間にも本当かどうか疑うことばかりなのだから。
だが、絆自身も帰り道に奇妙な光景を見ていただけに桜の言う事を真っ向から否定することはなかった。言葉を失ったままであり、抑えられた手から不安気な吐息が漏れてゆく。
「あぁ、私にはそれしか見えなかった」
外灯に照らされた巨大な影。鋭く大きな爪に複数の目と、あれがこの世の生物であるとは到底思えない。御伽噺じゃあるまい、北城村で遭遇した未知の生物を『化物』と安易に表現するだなんて桜も強い抵抗があった。
しかしながらだ、あの影を他に何と表現していいのかも分からなかった。少なくとも桜は命を狙われていたし、現に目の前で人間が殺されたのだ。脅威であることには間違いない。
「そんな……」
絆が声を落とす。本来であれば「冗談はよしてよ」と語り続ける姉を静止していたであろうが、絆自身も己の目ではっきりと見た光景がいくつかある。破損れた家屋も野生動物の力とは思えないものであった。道端で死んでいた人間も、何もかもその姉の言う『黒い化物』がやったと一言で済ませてしまえばなんとか片付くだろう。それでもかなり強引であるが。
とは言ってもだ、満身創痍の状態で戻ってきた桜の顔を見るととても疑う気にはなれない。自分と遭遇した異質な光景と無理矢理にでも紐付けてなんとか半分は飲み込んだ。
そうなるとだ、桜の話すことが事実であれば命からがら家に辿り着いたものと絆は察してしまう。未知の生物に遭遇し、それこそ九死に一生を得たような形で帰ってきたのであろう。今でこそ自分の前で生存ているが、何か一つでも間違ってしまったら……桜は恐らく……
絆が大きく肩を震わせた。
「そんなことって…… 襲われただなんて、お姉ちゃんがどうして!?」
涅色の髪が揺れる。信じられない、信じたくない……そんな思いが込められたような声色であった。
絆の問いかけ、だが桜にもそれは一切分からなかった。あの家族の件から考察えるに、無差別に襲っている可能性もある。どちらにせよ危険なことには変わりはないが。
「北城村を歩いていて何かが変だと思っていたけれど、どうしてこんなことに!? どうしてそんなものが急に……!?」
両手で涅色の髪をくしゃくしゃにさせながら絆は力無くガクッと顔を落とした。自分が想像していた以上の事が北城村で起きていたのだ。北城村は安全だと思い込んでいただけに、絆の受けた衝撃はかなり深かった。
絆の言葉を受けても桜は依然として黙ることしか出来なかった。桜も絆と全く同じ気持ちであったからだ。
桜も視線を落とし、右腿に痕された擦り傷へ軽く触れる。茂みを抜けている間に負ったものであろう、当然ながら軽くでも触れてしまえば鋭い痛みが走り出す。
ふと桜は思い立ったように部屋の隅に置いてあるテレビへと近寄り電源を押した。この家へ来た時からある普段はつけることのないブラウン管テレビであるがこれ程の事件だ、どこかで報道されているのかも知れないと過ったからである。
そんな桜の淡い期待も画面に映し出された砂嵐を前にあっさりと打ち消されてしまった。ムキになり他のチャンネルへと変えてみるものの結果は変わらず、鈍い雨音のようなものを発しながら白と黒が無造作に点滅するだけであった。
「帰ってきてからテレビはずっとその調子だよ、お姉ちゃん」
むくりと絆が身を起こしながら桜に向かって静かにそう伝える。
報道どころか放送すら見ることが出来ない。久々に付けるが壊れている様子も無く、どこかで電波が切れてしまっているのであろう。こんな時に限って使えないだなんて、歯噛みもしたくなる。
「私も何かニュースでもやっているかと思ってテレビをつけてみたんだけど……全然ダメみたい」
完全に諦めたのか力の無い絆の声。絆も考えることは同じであったようだ。それだけにやり場のない感情が込み上げ、桜は舌打ちを鳴らしながら電源ボタンを強く押した。
次いでまた溜息も添えられる。
席へと戻るとやるせない気持ちが昂揚したのか、桜は無意識に虚空を見つめてしまった。前に座る絆も机へ突っ伏してしまい、彼女から放たれるか細い呼吸の音が静かに聞こえてきた。
そして深い沈黙が訪れてしまった。外からは何も聞こえず、耳に入るのは絆の息遣いと掛けられた時計の秒針音のみだ。
桜もただ黙っているだけではなかった。何か、この場を少しでも落ち着かせるような一言が思い浮かべばと頭を巡らせていたが、何もかも付け焼き刃にしかならない言葉しか浮かばない。
──どうすればいいのだろうか。
部屋の右へと、そして左へと目を配りながら何かできる事はないかと考える。とてもじゃないが、このまま悠長に着替えて夕飯の支度へだなんて切り替える気にもならない。それに夕飯の材料は全部逃げている最中で捨ててきたのだ、料理のことなんて考えるだけ無駄な話である。
本当に、どうすればいいのだろうか。何をすれば正解なのだろうか…… 見つからない答えを探しに探しても冷たい時だけが流れ続けるだけであった。
目を配らせているうち、ふと視界の隅にあるものを入り込んだ。今朝、果物を送ってくれた零佳の写真であった。
何か助けを乞うかのように、桜は机の隅に置いてあった一枚の写真へと目を向けた。
──零佳姉さん……
こちらへ向かい見守るように微笑み続ける零佳の写真。強く頼もしい姉の一人であった。零佳ならこう言った時でも気の利いた一言を添えて安心させてくれたのかも知れないと、桜は思う。
神秘的な眼差しを浮かべる彼女の写真は、さながら掴まれた藁のように、桜の縋るような視線を受け続けていた。
無論、心中で問いかけようとも答えが返ってくる訳がない。桜は写真をそっと裏側へ伏せ、テーブルへ突っ伏した絆へ視線を移す。
「一体、何が起きているの……? お姉ちゃん」
不安に押されたのか、絆が顔を抑え姉へと問いかける。その答えを知る由もない桜へと問いかける。
姉へ縋る桜と全く同じ思いであった。怖いから、不安だから妹は姉へと寄り添い安心を得る。そして姉である桜は姉として妹へ安心を供給しなければならないのだ。
だが、桜は愚直に耳を傾けてしまいその役目を果たせなかった。
「わ、分からない……」
顔を横へ振りながら一言そう述べる。
黙る事だけは絶対に駄目だと感じたのか、辛うじてようやくその一言が放り出た。
質疑の応答にもなっていない情けない一言と自分も自覚しているが、それでもその一言しか言葉に出来なかった。
つい先ほどまで禍々しい化物に追われ文字通り桜は殺されそうになったのだ。安心を与えられる程の余裕なんて持っていなかった。
今だってそんな物騒な出来事が近隣で起きているのかと疑いたくなってしまう程に外が静かなのだ。情報も何もない桜が憶測だけでモノを語れるような状況でも無い。
しかしながら、『分からない』の一言だけでは終わらせないと思ったのか桜は「ただ……」となんとか繋げた。
「ここは危険だ。どこか逃げないといけないが……」
再び言葉が詰まってしまう。あまりにも漠然としすぎたためだ。
何処かへ逃げる。それなら一体何処へ? どうやって逃げるのか? そんなことを全く考えず咄嗟に口走ってしまった。
ここは危険な場所だから離れる。それは確かに理に適っているのかも知れない。だが、下手に出歩くとまた襲われてしまう可能性だって十分孕んでいる。今回はなんとか逃げ切ることが出来たが次はそうはいかないだろう。
そして次回逃げるとなれば絆も一緒にいることを忘れてはならない。
絆と二人で逃げている中、襲われようものならそれこそ一巻の終わりだ。
そうとは言っても、このままこの場所で居続ける事だって全くリスクが無いとは言い切れない。あの北城村で見た家屋のように次この家がやられてしまうのも時間の問題であろう。運よく自分だけ襲らない事を部屋で祈り続ける訳にもいかない。
「どうしたらいいの……お姉ちゃん」
「絆……」
絆の瞳が小さく揺れる。
何があろうと絆は桜についていくと心に決めていた。信頼している姉だから、守ってくれる姉だから命を預けることが出来ると。
その覚悟を桜も知っていた。だから後は自分が思い切った選択をするだけだと、それも分かっていた。
零佳でも、夏希でも他の姉でもない。今は桜しか絆を守ることができない。桜が絆を守るのだ。
桜と絆、二人が生き延びる…… その手段を、方法を……
残念ながら『奴ら』は考える暇を与えてはくれなかった。
「ちょ、ちょっと待ってお姉ちゃん」
ふと突然絆が何かに気づいたように顔を上げあたりを見渡し始めた。異変に気づいた桜は絆へと顔を近づけ伺おうと思ったが、耳へと手を当てて集音する仕草を見て少しだけ距離を置く。
「何か聞こえるのか?」
「うん…… 何か音がしない? 変な音が……」
「音?」
聞き返せば絆は黙って顎を引く。絆は何か妙な音を感知しているようだ。桜もその場でゆっくりと目を閉じ耳を澄ます。
確かに聞こえる。鈍い足音が、つい先程耳にした呻き声が微かにだが聞こえてくる。
「ねえ、お姉ちゃんも聞こえているよね!?」
音の無い声で絆がそう囁く。それは決して自分へ風向くような音ではないと直感したのであろう。
「この音……」
空耳ではない、しかも徐々にはっきりと、時間が経つにつれて音が大きくなっていくではないか。そしてついには音の振動と共に家の柱が軋み始めるほどの音量となっていた。
「こ、こっちに近づいて来ているよ、お姉ちゃん!」
家が揺れ始める程の大きさになると、絆は居ても立っても居られず立ち上がった。
しかし、桜は動くことなく目を瞑り集中したままであった。いくら絆が慌てようとも静かに耳を澄まし続ける。音の動向を聞き逃さないために。
忘れもしない、あの不快な声。自分を追い詰めたあの声だ。
──間違いない。
そして察した瞬間、桜の瞼が開かれる。
だが同時に浮かび上がった表情は険しさそのものであり、それを見た絆は更に顔を青くした。
そうだ、来ているのだ。姉が言わなくても、その表情を見ただけで今何が起きているのか全てを理解することができてしまった。
この音が……『秒』を追うごとにこの家に向かい確実に迫って来る『音』が何を意味するのかを。
「お姉ちゃん!」
思わず絆は回り込み桜の肩を揺らした。その声は押し潰されそうな程の詰まった声であった。けれど、それでも姉の肩を揺らし続ける。
その行為に意味があろうとなかろうと、依然として座り音へ集中している姉を呼び何度も何度も声をかけ続ける。声を上げ姉とコンタクトを交わすことが唯一、自分を保てる術であったからだ。
だが、桜は動かない。妹に呼びかけられようとも必死に索敵を続けていた。
──来てる!
ガタリ、と壁際で物音がした瞬間。
「伏せろ! 絆!!」
「えっ……?」
爆発音のような音が聞こえ、2人は吹き飛ばされた。




