焦燥
前回までのあらすじ
皇女暗殺という大罪を背負った姉を持つ売木桜はその妹、絆と二人で長野にある北城村で暮らしていた。そんなある晩帰宅途中、北城村で謎の化物に襲われる。暗く、足場の悪い北城村で桜は逃げ切れるのか!?
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「はぁっ、はぁっ……!!」
背後に迫るのは複数の足音、異音、奇声。それから逃げるため街灯のない暗闇、ただ土のみで固められている酷道の上を桜は駆け抜けていた。
寒い寒い北城村、まるで針のような冷たい空気が喉に突き刺さるのを感じる。だが、そんな冷たい空気ですら切り裂くような勢いで桜は加速していた。
余計なことは思考えない。ひたすら、我武者羅に逃げることだけに集中して疾走するしかない。残るスタミナを無視して『奴』と離れることだけに集中するしかないのだ。
一体何に追いかけられているのか桜は分からなかった。あの時、自分の目で見たもの全てが信じられなかった。屋根に佇んでいた黒色の化物……そして巨体に備わる大きな爪。あれは思い出すだけでも背筋が凍る。あんなもので切り裂かれたら間違いなく死亡りだ。
そう、殺されるのだ、だから理屈抜きに逃げるしかない。敵が何者か、何が狙いかが分からなくたって命を脅かすものであれば本能に従って逃げ続けるしかないのだ。
そんな本能は疾走の中でもずっと語りかけてくれていた。「後ろを見るな、必ず失速する。前を見て己の出せる最大限のスピードで走り続けろ!」と。視界と足場の悪い北城村は全く味方してくれない。そんな今の桜にとっては本能だけが頼りであった。
前を向き、顔を上げ歯を食いしばる。鼓動が早くなり、徐々に息が苦しくなるのを感じるが、ここで足を止める訳にも行かない。やれることを死に物狂いでやっていくしかないのだ。
生き残る為、絆に会うため、そしてもう一度姉達と再会するまでは絶対に死ぬワケにはいかない。どんなに桜の理性が追いつかなくても、闇にのまれてもここだけは譲ることはできなかった。
耳で捉える足音、木々を伝う音でなんとか敵の数を把握する。3体はいる。逃げている間にも敵数が増え、いつの間にか囲まれてしまう形になってしまったようだ。
相手の数、暗闇という環境、足元が悪いという状況…… 自分自身に置かれた状況を把握すればするほどに己の不利さを実感し、ただただ焦りは広がるばかりであった。3年近く暮らした北城村、見知った街なのにこの時ばかりは別の空間のようにも見え、走行であがってしまった息とはまた別の息苦しさが強くのしかかってくる。
──通りでは分が悪い、だとしたら……!
「くっ……!」
桜は右足を強く踏み込みながら、右手に持っていた買い物袋を放り投げた。ぐしゃりと音を立てる袋を傍目に勢いそのまま道を逸れ、崖を飛び降りる。
桜の身体が弧を描くようにして宙に舞い、暗闇へと吸い込まれていく。
このままではジリ貧になるだけだ。相手も数多いということから幅のある通りでは絶対に不利だ。そうなれば思い切って崖を降りた方がまだ何かある…… 宙に舞う中、桜は願うようにしてそう思い着地するため見下ろした。
下が、見えない。地面が全く見えない……
見下ろせば黒一色の世界しかない。分かってはいたけど、身を投げた自分を少しだけ後悔してしまう。
──いや……それでもやるしかないんだ。
だが、桜の意思は固まっていた。闇に呑まれようとも立ち上がる、姉がそうであったようにずっと背中を見続けていた売木桜も……
「……っ!」
桜の身体はとある所まで落下しそのまま着地した。思った以上に高く足を痛めそうになるが、今は気にかけている余裕が無い。むしろ挫けなかっただけでも上出来だ。
足を労わることなく桜は前を向き、道なき道を掻い潜る。
背後で鈍い着地音が聞こえるあたりあの『化物』も桜に合わせて崖を飛び降りたのであろう。売木桜を狙ってかはたまた別の理由があってかは分からない。
分からないけど、少なくとも言葉が通じる相手ではなさそうだ。こんな暗い北城村で追ってくるあたり、奴らには桜の姿が見えているのであろうか。迫る足音は一向に止むことはない。
しかしながら桜の口から吐かれる白い息は徐々にその量を増してきていた。胸に突き刺さるような冷感が迸るのも感じる。寒い北城村が桜の体力を根こそぎ奪っていくようであった。
崖から降りるだなんて、道から外れるだなんて付け焼き刃程度にしかならない。そんなこと分かっていた。分かっていたけど……
──何か起きてくれ……!
届かぬ願いを捧げ続ける。『生きていれば何かが起こる』、かつて姉から教えられた教訓の一つだ。桜はこの教訓を信じ続けて生きてきたのだ。信じて生に執着してきたのだ。でも、だからといって奇跡みたいなことは簡単に起きたりしない。起きないなんてことも桜は知っている。
目に見える冷たく暗い北城村が今ある桜の現実なのだ。
桜の息が更に荒くなる。元から全力で巻くつもりで走っているのだから、無理もない。敵の量からしても長期戦は絶対無理であると悟り黒の空を見上げた。
『生きていれば何かが起こる』……その何かを引き起こす力ですらもう限られているのだと…… 力尽きる前になんとかしないと…… 焦りにも似た感情が桜の中で沸々を湧き上がる。
──けれど、自分に出来る事なんて……もう……
下り坂を降り、そのまま畑に出る。昼であれば視界の良い場所であるが、夜である今はどこまでも広がる平地のようにも見える。
近辺に納屋があるのだが、隠れるにはあまりにも心もとない建造物だ。ここの畑をはじめ、北城村自体にそこまで建造物が無いため、オブジェクトを利用して隠伏するようなことは期待できないであろう。
そしてここは人通りの少ない山奥だ。助けを呼んだところで人が来るかも分からないし、仮に来たところで対処できないのも目に見えている。
それでも桜は血眼になって周囲を見渡した。何か使えるものはないか、何か起こせるものは無いかと回らない頭の中なんとか考えを巡らせていた。
しかしながら、逆に考えれば考える程、自分が絶望的な状況に追い込まれていることだけが分かってくる。何もかもが揃っていない。
明るさも、敵数も、環境も、そして売木桜という人間の力も…… 何一つ揃っていなかった。現状を打開する欠片が揃わない。
永遠に己の力が尽き果てるまで走り継続けろというのか。
──本当にこれが悪い夢であってほしい……
過去何度も繰り返した現実逃避。その度に絆と向き合っては現実を生きてきた。けれど、今はそんな絆も傍にいない。
たった一人、闇の中だ。
背後の足音が猛スピードで近づいてくるのを感じる。だが桜の頭は徐々に朦朧と化していた。
そんな中、突然大きな電撃が奔るような感覚を覚える。稲妻に打たれたような、強い感覚だ。
──危機察知の本能が発動したのだ。
「……!?」
瞬時に背後へ振り返ると、奇声と共に飛び掛ろうとする禍々しい化物の姿が視界に入った。そのあまりの速さに呆気に取られ、桜の身体は思うように動かないが……それでも……
「っ!」
咄嗟に前転で回避した。いや……回避出来たのだ。桜が思うよりも先に身体が動いてくれていた。本能が刹那の判断を下し辛うじて功を成したのだ。
喉元に大きな爪が掠るような感覚が残りぞっと背筋が凍りついた。僅か一寸の差であった。爪の軌跡から判断するに、ほんの少しでも遅れていたら今頃|首と胴体は離れていただろう《・・・・・・・・・・・・・》。
鮮血を噴き出しながらその場に倒れていただろう。
残された軌跡を辿るように、桜は喉元をそっとなぞる。本当に生きているかどうか確かめるために。
──冗談じゃない。
生きた心地が全くしない。まともに食らっていたら痛むことなく、声を上げることなく死んでいただろう。そんな非現実と相迫っているのだと改めて思い知らされる。
大勢を立て直し、土に汚れたコートを一切払うことなく桜はまた走り始める。どこへ向かうかも、いつ終わるかも分からない…… だけど、脚を止めたら最後だ。
畑を抜けた桜はそのまま獣道を横断し茂みへと飛び込んだ。