邂逅
それは、曇天の夜空を切り裂くような凍てつく叫び声であった。
静かな北城村に突き刺さるような、矢のように鋭い音であった。
悲鳴にも似た音…… だが、これは何かの声と桜はすぐに理解した。
とても高い音。人の声では到底届くことは不可能な音域である。
びりびりと耳が痛くなる程に大きく、甲高い声であった。聞いた時間はほんの数秒であろう、それでも二度と忘れることのないような厭わしい声……
思い返すだけでも肝が冷え、桜は様子を伺うかのように後ろへと顔を向けた。
暗くて何も見えない細い道のみが奥へ奥へと続いており、見るだけでも怖気付きそうになる。気のせいであると思いたい。気のせいであると済ませたい……
だが……
気のせいなんかではない。
ほんの一瞬の出来事であったがはっきりと聞こえた。
空耳と認めるには難しい程はっきりと……
そして再び眠るような静けさを取り戻す北城村。何もなかったかのように、暗く静かな北城村が訪れる。
「なんだったんだ……?」
あまりの奇声にいつの間にか背中を丸めている自分がいた。
ひんやりとした空気か喉元を過ぎ、桜は右手に持つ買い物袋を肘へとかけ直す。いつにもまして冷たく感じてしまうのは、ただ北城村が寒いだけではないだろう。
耳を澄ませ音を探る。何も聞こえない。何も感じない…… けれど……
「──っ!!」
桜の体温が急に熱くなる。波が来たかのようにぐっと胸の辺りが高潮しているのを実感していた。
目や耳では感じない何かが桜の中で察知したのだ。自分に対して危険を及ぼす何かが……
間違いない、近くにいる。
私を狙う何かが、確実に……!!
桜が確信したその時、地鳴りのような呻き声が地を揺らす。腹を空かせた獰猛な動物が発するような低い声だ。
内臓が沸騰するかのような忌々《いまいま》しい音。胃にある食べ物が煮え返りそうな、強烈な不快感を感じるような音が槌骨、砧骨そして鐙骨を通し桜の脳内を侵食し始めていった。
次いで先程耳にした高い悲鳴にも似た声が、時には高低音が同時に北城村に襲いかかる。
──この声は……!?
ただひたすらに耳だけが感受する叫び声にも似た音。思わず膝を折り桜は片耳を塞いだ。
聞くだけで頭が痛くなるような狂音。脳内を寄生虫によって巣食われたかのような感覚を覚え、嘔吐感が込み上げてくる。
脚が震えてままならない。三半規管が狂ったのか、まるで空から落とされているかのように平衡感覚を奪われ、視界も徐々にぼやけてくる。
そんな中桜は必死に我を確認していた。
このまま正気が飛んだら終わりであると。ふらつきながらも倒れないように、震えた脚になんとか力を入れて踏ん張っていく。
そして狂音がすっと 無くなった時、突風が吹き出した。朝の颪風とは比べ物にならないほど強く、下手すれば桜まで吹き飛ばされてしまいそうな程の強風である。
だが、その風は何かの意思に沿ったかのように畑の中心へと集結されていった。
目の前で落ち葉が旋風に従い舞い始め、砂が目に入りそうになったのか桜は咄嗟に瞼を閉じて手で目元を覆い被せる。
そしてゆっくりと瞼を開けば……その見たことのない光景に桜は固唾を飲んでしまった。
畑の真ん中で落ち葉が大きな渦を形成していたのだ。竜巻のような高さ10m程の巨大な旋風を前に桜は身を低くすることしか出来なかった。
枯葉は振り回された刃のように空中で弧を描き、鎌鼬の如く地面に横たわるスイカに傷をつける。
その風は凩のように冷たく、桜の悪寒と相乗するかのようにネガティヴを膨らませていく。
だが、そんな強い風ですらもある時ぱたりと止んでしまい、風という動力を失った葉がその場でゆっくりと土へと向かう。ある日突然生き物が死んだかのように活動を停止し、ぱさりぱさりと畑に葉が積み上がってゆく。
そして…… 強烈な気配を感じ、桜の背がずしりと重たくなった。
──いる!?
そっと家の屋根へと視線を合わせ……そして……
桜の呼吸が停止った。
──なんだあれは……?
月明かりすら照らす余地のない暗闇、ただ仄かな外灯だけが「それ」を照らすことが出来た。
そして、瞬時に桜は「それ」が北城村の怪異現象の主であると判断した。破壊された木造屋も、男性の死もそして……不快な声も全て……「あいつ」のせいであると……
荒廃した家屋。その屋根部分に「それ」は確認された。大きな黒色の「なにか」
呼吸することも忘れて桜は目を見開き「もの」を見つめる。視界に映っている間は時が止まっているようにも思える程、理解に時間を要した。
──私は、一体何を見ているんだ……?
けれど、目の前の存在に対して理解ができなかった。理解を超えた存在が屋根にいるのだ。
売木桜は幼い頃、姉から剣術を教わっていたこともあり、身の危険を察知する能力は人よりも優れていた。
そして、自覚する程その勘は的中する。とりわけ自分の身に降りかかる危険な出来事に対しては尚更……
ただそれは妙に動く黒い影であった。大きな、大きな黒い影……
それが大きな生物としか桜は理解できなかった。本当にそれだけしか分からなかった。「あれ」が一体「何」であるかも一切分からない、理解を超えた存在であるから分かるはずがなかった。
理性では理解を超えた存在である…… だけれど、無意識がその「もの」に対してわかっているように感じた。
息が荒くなる……
身体が熱くなる……
心拍数が高くなる……
高揚感が増し始める……
全て桜の「防衛本能」が察知したから。これから桜の身に起こることが予期されたから、自然と身体が熱ってくる。
自分では目に映る「それ」が何か「なに」か……分からない。けれど身体は桜の意志を無視して一方的に「臨戦体制」へと移り変わっていった。
何が起きても直ぐに動けるようにと……
どんな事態が発生しようとも最大限のパフォーマンスを発揮できるようにと……
そして、「全速力で逃げろ」と理性を跳ね除け桜に叫ぶかのように指示を下していた。
「それ」が桜にとっての大きな脅威であるから……
「それ」が桜にとって命を奪いかねない存在であるから……
だから「逃げろ」と。無意識がそう叫ぶ。
ただ、そんな身体の反応とは裏腹に桜は表情を変えずゆっくりと息を吐いた。止まっていた時間が一気に流れ出すように、黒色の影は静かな動きを見せていた。
けれど、一秒たりとも目を離すことはない。姉譲りである強い眼差しを据えながら、一歩一歩後退りをする。
屋根に佇む黒い生物を刺激しないように、静寂に溶け込むことを意識してそっと脚を繰り出す……
働く余地が少ない理性。それでも振り絞って指示を出していた。
「大きな音を立てずに離れろ」と。
「全速力で逃げろ」と叫ぶ無意識に負けないように、理性も懸命に指示を出していた。
唾を飲み込む音ですら許されない。
いや……呼吸音ですらも許されないような気がした。
気づかないでくれと強く祈りながら、急かす足取りをなんとか抑え慎重に後ろへ下がってゆく。
ただそこは不幸な天候もあり無音の境地。桜の願い虚しく、音は生きていれば何かしら発してしまうもの。
全く無音の北城村において、音を殺すという事自体が不可能な事であった。
桜の足に小石が一つ接触した……
ほんの僅かな音であった。小さな小さな乾いた音。
だが、それを耳にしたのか、屋根に佇む黒い影は高い声をあげて威嚇する。
威嚇かどうかもそもそも分からない。もしかしたら獲物を見つけた時に上げる歓喜かも知れない……そんな奇声を上げながら大きく身を広げた。
闇に包まれている「なにか」。けれど、暗闇に慣れてきた桜の目と薄明るい外灯が相乗して「それ」をしっかりと捉えることができた。
鋭く大きな爪が……
複数の眼球が……
見えた。
見えてしまった…… 化物の姿が……
その瞬間、頭が真っ白になった。
この世のものとは思えない影の姿に震慴し、吐息と共に声帯が震え、ただ意味を持たない曖昧母音だけが桜の口から発せられてしまう。
恐怖のみに駆られ、なにも考えることが出来なくなってしまった。
頭の整理も追いつかず、自分の状況すらも把握できない。更に言えば今起きていることが夢か現実かも区別がつかない程に恐怖という感情によって脳が支配されてしまった。
未知のものと遭遇する恐怖に……
自分が殺されるという恐怖に……
二度と姉達に会えなくなるという恐怖に……
そして……
絆が殺されてしまうという恐怖に……
「あぁ…… あ……」
全てが過った時、桜の理性が全く機能しなくなる。
発条が切れた機械のように、糸を喪失した人形のように、その機能を停止してしまう事態に陥る。
でも……
桜の脚はもう震えていなかった。
高い鼓動のおかげで、身体がしっかりと温まってくれていた。
まさにこの時のため……
売木桜という主を救うため……
恐怖に呑まれ、考えることができなくなってしまった主を救うため……
絆を守るという使命を与えられた主を救うため……
この状況下でも桜を支える唯一の感覚。本能が全て、お膳立てをしてくれていた。
だから、桜のやることは一つしかない。生きる為、生き残るために本能に従うしかないのだ。
そして繰り返すように本能が桜に向かってこう叫び続けている。
全速力で逃げろ!!
黒い影が持つ複数の眼球。その一つと桜の持つ目線が重なり合った瞬間……
桜は踵を返し、走り出した。