予兆と現実
ほんの僅かな光に照らされた家屋。桜の希望となる筈であった外灯の光は桜を絶望へと誘おうとしていた。
大きく打ち壊された建物が、薄明るい外灯によって照らされている。先程と同じく、凄惨な家屋が……
先の古屋とは異なりこちらの家は2階建てだ。築年数もこちらの方が浅めであると見て取れるようにどちらかと言えば丈夫な方に部類される建築物であるはずだ。
丈夫と見られる家でさえ、このように大きな穴を空けられているのだ。
そんな有様に桜は目を疑うしかなかった。凝視した後それが現実であると静かに悟るまで数秒要する程であった。
大きな爪痕が、あの背筋の凍るような恐ろしい爪痕が……こちらの家にもくっきりと残されていた。
3つ程に枝分かれた爪痕。先程のものと全く同じだ。
鼻孔を擽る焼いた肉のような芳しい香りから推測するに、この家は先程まで誰かが居たものと思われる。
ほんの少し前までは誰かがこの家で生活をしていた事が見受けられるが、それでも今は誰もいないだろう。
外からでも壁が破られていることから、部屋の様相まで伺えた。
引き裂かれた赤いカーテン、激しく叩き割られた窓硝子、四散した椅子が目に映る。芸術とも取れる絵画は例の爪痕によって台無しにされており…… 先程と違い明かりがついているため、細かな被害状況までよく分かる。
こんなこと……熊といった動物ができるはずがない。
先のものと続いて2件目。もう…… 誤魔化せない。
──この北城村に何かが起きている。
何かが…… 平和な北城村を脅かす何かが、この近辺にいるのだ。
桜の手には自然と拳が握られていた。心の中で沸々と湧き上がるものに対して自制をしていたらつい力が入ってしまっていた。
同じくして口の中が乾き始めているのも感じられる。北城村の空気が乾燥しているわけではない。緊張感が昂っていることが要因である。
もしこんな脅威が自分の身に降りかかって来たらと、想像するだけでも身の毛がよだってしまった。
北城村を襲う怪事件を前に桜はただただ立ち竦むしか無かった。
仄かに辺りを照らしていた家屋の外灯。虫一匹寄り付いていない外灯が……
ここにきて意志を持ったかのように徐々に点滅を開始する。まるで、桜の命を表現した蝋燭の火のように儚く、仄暗くゆっくりとした速度で点滅を繰り返す。
不吉な空気を察知した桜は徐に後退りをし、帰路へ至ろうと振り返り、歩き始めた。
家屋すぐ横には大きな畑がある。推定10a(1,000㎡)前後の広い畑だ。
こちらはそこまで光が届いていないが、それでもどんな作物かは確認できた。
この家の主人が趣味でスイカを育てているようで、小玉スイカが無造作に転がっているのが見える。実際小玉スイカかどうかは分からない。もしかしたら夏にかけて更に大きくなっていく品種かも知れない。
畑の隣で起きている非現実的な光景とは裏腹に、こちらの畑の作物は無邪気にすくすくと育っており、そのあまりの乖離さに理解が追いつかなくなってしまいそうにもなる。
一つ一つしっかりと実をつけているあたり、随分と愛情を受けて栽培されたようだ。
ただ…… 一瞬だけ、桜の視界にスイカではない別のものが写り込んでしまった。
「あれは……?」
思わず二度見をしてしまう。スイカではない別の何か…… 明らかに他の作物とは思えない何かであった。
それが何か分かった瞬間に桜の目が見開かれ、夏希と酷似する眼差しが浮き彫りになる。
──手だ。人の手が見える。
スイカ畑に埋もれるかのようにして、赤い血を流す手が一つ顔を出していたのだ。
更に目を凝らせば、近くには麦わら帽子と男性の衣類とも取れるようなものが横たわっており、人間が倒れているものと伺える。
初めて見た時は勘違いであると視線を逸らしてしまったが…… あれは、間違いない。人の手だ。そして畑の中に人が血を流して倒れているのだ……
──助けないとっ!
考える前に桜の身体は前へと動いていた。
急いで安否を確認すべく、桜は声を張り上げながら男性の元へ駆け寄ろうとする。
意識は大丈夫なのか……? 呼吸はしているのか……? 怪我はどれ程なのか……?
そんな万事の憶測が瞬時に過ぎる。けれど、目の前に倒れている人を見過ごすわけにもいかない。
近づいていけば徐々に見えてくる男性の全体像。血を流して倒れる男性の姿が明白になってゆくが……
──っ!
男性の姿が見えてきた時、桜は足を止めて思わず身を引いてしまった。
これ以上近寄ることが出来なかったからである。目の中に留めるにはあまりにもショッキングな光景であり、桜は倒れる男性へと近づくことが出来なかった。
一度覆ってしまった目元。恐る恐る手を退け今一度倒れた男性の様相を確認する。
恰幅の良い腹は大きく引き裂かれ臓器が露出していた。だらりとずり落ちた腸とも思えるものは肥えた土と接触してしまい、小さな虫が集っている。
顔も血に塗れており、右側はハンマーに殴打れたように潰れていたため、誰か判別できるような状態ではなかった。
とてもではないが直視できるような姿ではない。今は周りが暗い為そこまではっきりと見えていないが、日中で見ていたらどれ程惨たらしいものであったか想像にし難い。
だが、腐臭を放っていない。きっとまだ死んでまもないものと推測する。
「……冗談じゃない」
その声は小さかったが、彼女の心は大きく震えていた。それはついに桜の顔にも現れてしまう。
神妙であり仏頂面なことが多い桜の表情が引き攣りはじめる。拒絶するような出来事が起きた時に現れる顔であった。
あの北城村でこんな事が……
壊された家屋。男の死体……あれもこれも桜の知る北城村では起こり得ない出来事だ。こんなこととは無縁な世界だとずっと思い込んでいた。
今、北城村で何が起きているのか…… 全く分からない。けれど、今は目の前にある事実だけで事態の把握をしていかないといけない。
そっと屈みながら死体を…… できるだけ長い時間見ないように気をつけながらも、目視だけで分析していく。
何者かによって殺されたのだ。
ただ殺されただけではない。惨たらしく原型も留めているとはいえない程徹底的に……
男性の肉体は上着ごと大きく切り裂かれていた。とても大きな爪か何かに容赦なく……
とてもではないがあれは人体が耐えられる傷ではない。男性は何者かに引っ掻かれ即死したのであろう。その絵面を思い浮かべるだけでも心臓がきゅうっと締まるような思いだ。
では、誰が……?
大きな爪…… すぐ隣に位置する建物に刻まれた大きな爪痕と重なる。
すぐに紐ついた。壊された木造屋、刻みつけられた爪痕、散乱した家財……
この男性を殺したものと同じものだ……
今まで見てきた事象が重なり大きな懸念を生み出した。あまりにも不吉な懸念……
桜の身体は大きく顫動する。
これは動物なんかではない…… 他の何かだ……
人でもない、他の何かが…… この男を殺傷したのだ。
建物の壁を破るほどの力を持った何かが……
すぐ側にいる……!
それが何者かは分からない。だが、それでも自分自身に大変な危機が迫っているということだけは理解していた。
音のない空間。暗くて何も見えない北城村に何かが潜んでいるのだ。
平穏な場所である北城村のどこかに、人を惨殺するような脅威が潜んでいるのだ。
ぞくり……
心臓が跳ねた。恐慌に駆られながらも絆のことが浮かんでしまったからだ。
今現在恐らく自宅で留守番をしているであろう妹は…… 絆は無事なのかと…… 男の死体を前にして思う。
──もし、絆の身に何かがあったら……
起こりうる最悪な出来事が、落とされた硝子玉のように頭の中で広がっていく。
止まらない。絆がこの男のような姿になっていたらと…… 考えてはいけない筈なのに堰堤が決壊したかのように感情が流れてくる。
なんとかして呼吸だけでも落ち着かせようと深く息を吸うが、それでも押し戻す事ができない。
下を向きながら落ち着け、落ち着けと囁くような声で暗示をかける。
絆はきっと無事なはずだ。きっといつものように──
いつものように──?
そんな巫山戯た言葉がどこかで湧き上がり、自然と怒りが込み上げてきた。
殺された男を思ってではない。北城村を脅かす何かがいるからではない。無論、絆のことを想ってでもない。
いつの間にか『いつも』という概念に依存をしていた自分に対して怒りが込み上がったのだ。
まただ。また私は期待してしまっているのか……
『いつも』で括られる期待。あれだけ痛い思いをした桜が未だに期待を抱いていたのだ。
そのような期待、何一つ当てにならないということを身をもって知ったのにも関わらず、無意識のうちからそんな悠長な考えに至っていたのだ。
いつものようなことは毎日起きることではない。それは桜が一番経験をしている筈である。
けれども……
もうこれ以上は失えない。失うことはできない。
絆という…… 守るべきものを失ってしまったら……!
手が震え、思考がままならなくなる。津波のように大きな何かに呑まれてしまいそうだ。
そんな中でもなんとか顳顬に手を添えて、ただただ息を吐くことだけを専念する。喉からぐっと胃液じみたものが湧き上がるのを感じたが、なんとか言葉にならない声程度でおさまった。
落ち着け、落ち着けと呪文のように繰り返し小声で唱え、異様な雰囲気で持っていかれる正気をなんとか保たせていた。
それでも……
まだ絆の身に何かが起きたと決まったわけではない……
もしいつものような事が起こり得ないと疑うのであれば…… 今出来ることは一つだけ。
──急いで家に戻るしかない。
1秒でも早く家に戻り絆の安否を確認するしかない……。
悩むだけでも時間は消費されてしまう。その間に絆に何かあればそれこそ悔いても悔やまれないことになってしまう。
そうだ、今は自分ができることをするしかない。
蹌踉めいた足取りで顔を上げ曇る空を見つめた。このまま駆け出してでも家に帰る。
そう心に固め、桜は男の死体を一瞥した。
何も出来なくてすまないと、せめて彼のご家族だけでも無事であればと、そのような事を心中で祈りながらスイカを踏まないようにしてそっと道まで出て行く。
スイカ畑を出て桜が駆け出そうとした…… その瞬間であった──
──金切りの声のような、慟哭が耳を劈いた。