夜道
帰りのバスの中、桜はたった一人で車内の客席に座っていた。最後方から二列ほど前にある窓際の座席である。
膝の上には買い物袋を置き、大事に抱き抱えるようにしながらぼんやりとした時間を過ごしていた。そんな中で、ふと外を眺めると黒の世界のみが視界に入る。
──随分と暗くなってしまったな……
外は既に夜の帷が降りていた。まだ五月であるため、日の入りの時間も早い。そうは言っても、先程まで空が明るかった為、その暗くなる早さにはいつ見ても呆気にとられてしまうものだ。明るいうちに帰ろうと思っていたが、夜になる方が幾分か早かった。
車内は小さな電灯があるため辛うじて明るいが、北城村近辺には電灯一つない為、外の景色が全く分からない状態だ。
無機質な運転手の案内だけで、自分のいる位置をなんとなく思い浮かべる時間が続いていた。
外から車内へ視線を戻すと、あまりにも物寂しい光景がそこにはある。
客席には桜以外誰もおらず孤独感も強い。その上吊り革も所々ちぎれかけており、合皮で作られた席も、殆ど破損れている。逆に無傷なところを探す方が困難しいくらいだ。唯一の明かりである白熱灯も実質点滅状態であり、これも頼りになるとは言い難い。
採算が取れていないのであろうか…… そんなことが察せられるほどに、ここのバスは人が乗っていたことが無い。空気を運ぶような老朽化したバスである。それでも、北城村付近を通ってくれるだけありがたいものであるが。
ディーゼル車特有の唸るような低い音のみが車内に響き渡り、時折強い振動が合間合間に紡がれる。こんな虚無とも言える時間が毎日合計して一時間以上は続くのだ。
そこで車体が大きく跳ね上がり、桜は思わず手摺を握った。
舗装されていない道に入ったようだ。
バスの柔らかなサスペンションも相まって、舗装されていない道に入れば手摺を握っていないと振り回されてしまう程に強い振動が発生する。地震のように鋭い揺れだ。
その為、卵を買った日にはかなり神経を使っていたが…… 今日は卵を買っていなかった為余計な神経を使わなくてもよさそうである。
それでも無事かどうか、抱えていた袋の中身を一度確認する。中には人参、玉ねぎ、白滝と安売りしていた牛肉他、様々な食料が詰められており、今日は肉じゃがでも作ろうと思い買い揃えたものであった。
暗くてよく見えないが、中身は特に傷んでいる様子は無さそうである。
あとは零佳がくれた林檎を擦りおろして、肉じゃがの隠し味にでもすれば絆も喜んでくれるであろう。桜は袋の中を守るようにしながら優しく抱え戻した。
そういえばそろそろ絆の誕生日だ。五月二〇日、それが絆の誕生日として定めた日である。
だから、その日はお祝いに何か絆の好きなものを食べさせてあげたいと感じていた。
裕福では無いから、決して豪勢な料理はできない。けれど、絆にとって幸せに感じられる日にしたいと……
せめて、その日だけでも生きていて良かったと言える日にしたい。姉として何かできる事はないかと思惟巡らせていた。
絆の誕生日まで若干日があるものの、あっという間に来てしまうだろう。早いうちに決めておかないと……
そんなことを思う最中、降りる予定であったバス停に到着してしまった。
機械にも似た男性の案内の中、桜は袋を片手にバスを降りる。
降り立てば、桜は直ぐに光一つない暗闇に包まれてしまった。
電灯一つない北城村の暗闇…… 振り返ればそんな闇に飲まれるようにバスが溶け込んでゆくのが見える。
独特なディーゼル音が耳に届かなくなると、訪れるのは静けさのみであった。騒音がうるさく鳴り響いた車内から一変してこんな環境に投げ出されると、耳鳴りすらも聞こえてきそうである。
地元のバスも二時間に一本と本数も少なく、最終便も早い時間に終わってしまう。それ故買い物もかなり急足となってしまった。
近くに時計が無くて詳細な時刻は分からないが、今は恐らく6時半頃であろう。こんな暗い時刻でも七時をまわっていないのだ。
そしてここのバス停から三〇分も歩けば家に着く。
自転車でも買っておけばよかったと、ここに着く都度思うのだが、路面はアスファルトで舗装されていない悪路に近い道だ。自転車に乗れば転倒も危惧される為買っていなかった。
乗り慣れていない桜が、小石の散らばる見通しの悪い道を自転車で走れば、怪我をしてしまう可能性も十分あるだろう。
本当、この暗闇を慣れるのには時間を要した。こんな暗い中を三〇分も一人で歩くのだ。
とにかく心細いの一言だ。それに尽きる。
誰もいない、一人の空間が家に着くまで続く為、来た当初はかなり抵抗があった。
北城村は平和で長閑な村である。日中は息を呑むような美しい八方山をはじめとする自然が豊かな村であり、物騒なこととは無縁な地である。ただ、今はそれも暗くて見えないだけで、日が登ればまた平穏な景色を見せてくれるはずだ。
それを分かった桜ですらもその一歩を踏み出すのに、未だにほんの少し躊躇してしまう。三年間過ごしているはずなのに、暗闇というのは本能が怯えるものであろうか。
絆もきっとお腹を空かせているはずだ。早く帰らないと……
それでも絆の顔を思い浮かべれば自然と身体が前に進んだ。絆もこんな暗い夜の中、一人で留守番をしているはずだ。もの寂しく感じているのは、桜だけではない。
丁度バス停を後にしたところであった。
突然に大きな突風が桜を襲った。瞬きすら難しい程の強い風だ。
数秒に渡り続いた為、桜はその場で立ち止まり、堪えるように腰を落とした。風によってスカートも翻りそうになったので手で抑えながら風が落ち着くのをじっと待つ。
暫くすると強い風が止んだ。桜はそれを察知した後、訝しげな表情で瞼を開きながら空を見上げ、「はっ」とする。
この時桜は始めて気づいた。空には星が一つもないことを。
いつもなら雲の合間合間に無数の星空が見えていたはずである。そんな北城村の空に今日は星が一つもないのだ。
月光すらも遮る淀んだ暗雲に空一面は覆われていた。道理で暗いはずだ。
今日は終日晴れると聞いていたが、どうやら天気は変わってしまったようである。昼間はあんなにいい天気で、曇るとは無縁の空であったのに…… こんな日もあるのかと桜はつい片眉を歪ませてしまった。
おまけに痺れる程に風が冷たい。
五月とはいえ、北城村は冬並みの寒さを誇る時がある。今日の風も例に漏れずとても冷たく、氷の塊をぶつけられるような先の冷風にて桜の体温は一瞬にして奪われてしまった。
身震いを一つしてしまい、桜は鞄の中に入っていた茶色のコートを取り出して急いで羽織る。
今朝、絆にも伝えていたようにやはり夜は寒くなってしまった。今日はリスクヘッジのつもりでコートを持ってきたが、まだまだ手放すには時間がかかりそうである。コートのボタンを閉じながら、桜はそう思う。
そしてまたゆっくりと歩き始めれば、一つ、また一つと強風が繰り返された。
木々は轟々と唸りを上げており、異様な雰囲気を醸し出している。
そんな雰囲気に呑まれてしまったのか、桜は身を小さくして早足に切り替えた。空を見ても月光すら漏らさない曇り空。お陰で細い夜道はとても暗く不気味さも増している。のんびりとした朝とは大違いだ。
本当に北城村に辿り着いたのか、間違って別世界についたのではないか…… そんなことすら思ってしまう程に今日の北城村は荒れているような気がした。
ここまで暗くなるのなら、懐中電灯を買っておけばよかったと、桜が歩きながら少し後悔をする。いつもはなんだかんだで何かしらの明かりがあったのだが…… 今日は全くない。
その為、早歩きでも慎重にならないといけない。前が殆ど見えないので、うっかりしていると道のうねりや溝などに足を取られてしまうことだってあるのだから。
ただ、そんな不穏な強い風も少しすれば殆ど無くなっていった。ゆったりとした穏やかな風へと変わり、葉擦れの音のみが桜の孤独感を紛らわせてくれる。
続いて広い道から畦道へと入る。こちらも先と同様に舗装されておらず、油断をしていたら足元を掬われてしまう程に路面は荒れていた。時折木の根があり、これには注意しないと直ぐに躓いてしまうことなりかねない。普段ですら、誰も通らないような道だ。仮にケガをして、助けを求めたとしても、誰も助けになんか来てくれないだろう。道中で捻挫なんて洒落にもならない。『ゆっくりでもいいから、確実に』を念頭に、桜は歩を進めた。
そんな中、何故だか桜の口からため息が漏れてしまった。あまりにも心細すぎるからだ。
普段ならただひたすら虫の音や動物の鳴き声といったものが聞こえてくるのだが、今日は本当に何も聞こえない。無の空間である。
五月蝿くも感じていた虫の声もここまで黙られてしまうと逆に不安になってしまう。
五月は特段虫の季節ではないにしても、一言ぐらい鳴いても罪にはならない。むしろ全員が静まり返ってしまうと地震か何か…… そういった悪い予兆ではないかと心配になる程だ。
気のせいであると自分に言い聞かせながらも、桜は俯きながら肩を落とした。
足取りは慎重ながらも、こんな不気味な畦道は早く抜けたいという思いが芽生える。ただ、そんな気持ちの方が勝らないよう自制する。急いで転んでしまっては意味がない。這って帰宅なんて考えたくもないものだ。
ただ、畦道を過ぎたところで次は集落まで至る小道が続いている。いつもと変わらぬ道であるのに、とても長い距離を歩かされているようだ。
小道では木々が鬱蒼と茂っており、日によっては動物を見かけるときもあるのだが、今日は蛙の声一つしていなかった。時期によっては耳が痛くなるほどに、蛙の歌声を聞かされる小道であるのに、今日に限って…… 静かな今日に限って何も言わない。
そしてここにきて風が無くなる。訪れるであろう無の空間を唯一妨げていた葉擦れの音がなくなりついに|何も聞こえなくなってしまった《・・・・・・・・・・・・・・》。
本当に、何も感じない。何も聞こえない。恐ろしい程の静寂が桜を包み込んだ。
今までに味わったことのない沈黙の間。暗闇に閉鎖された無の空間。
「えっ……」
歩みを止めざるを得なかった。
踵を返し、辺りを見渡す。四方へ目を向けても暗闇しか見えない。暗闇しかないが、今この場にいるのは毎日歩いている道に変わりはないはずだ。
ただ、前も後ろも道が闇の奥まで伸びており、彼岸まで延長いているのではないかと錯覚するほどの異空間にも見えてしまう。ただ一人暗闇の真ん中に立っているような気がしてならなかった。だから、一瞬道でも間違えたのかと思考ってしまった。
自然が作り出した静寂とは到底思えない。暗く静かな…… 少なくとも桜の知るいつもの北城村では無かった。
夜が怖い雰囲気を持つというのは分かる。それでもここまで意識が吸い込まれそうな空間はあまりにも怪奇だ。
そして、あまりの静かさに自分の息遣いが聞こえた。
いや、それどころか耳で脈打つ鼓動すら聞こえてくる。
その鼓動は荒れていた。これは早歩きのせいではない。異様な空間に恐れて心拍数が高まっているのだ。
だから息苦しく感じられた。とても窮屈な空間。音もない、何も見えない空間で水の中足をつかまれたような…… そんな息苦しさが桜を襲う。
──何か、変だ……
膨らみ続ける不安感を前に、桜は気を確かにと心で唱える。ここは自分の良く知る場所だ。このまま道を進めば家に辿り着くはず、今遭遇しているのは自然の織りなす一つの奇跡であると……自分を落ち着かせていた。
走り出したい。
そんな気持ちだって抑える。こんな悪路で走るのは、あまりにも危険すぎる。だから…… 一歩一歩確実に歩いて行くしかない。
桜は前を向き、右足を繰り出し歩みを再開した。
深淵へと続くような道に向かえば、直ぐに一軒家の影が見えてきた。
──間違いない、いつもの道だ
桜は大きく安堵する。この道を通れば必ず目にする木造屋だ。相変わらず無音が続いているが、見慣れた家を見てしまえば桜は錯乱することは無かった。
こんな古びた家が自分を確かめる建造物となるなんて思ってもみなかった。あの八方尾根のような変わらない存在と同じである。
人は異様な雰囲気に飲まれると直ぐに不安になり、身近なもので自分を確かめるものだ。一瞬でも異空間に引き込まれてしまったと感じていただけに、その建物が与える安心感も大きかった。
だから……
「うそ…… でしょ」
その崩壊した家屋が与える絶望感もまた
大きかった……