Prologue:もう一人の妹
私は何も知らなかった。
自分が抱くべき使命のことも、これから訪れる運命のことも──いや、それどころか、この世界についてさえ、自分の生きる意味すら知らなかった。
きっと、あの時の私はまだ幼かったからだろう。
無垢で、世界の残酷さを知らない子供だったからこそ、自分の存在意義など知らずとも、ただ雨の降らない屋根の下で、ぬくもりのある部屋の中で、無邪気に笑いながら過ごすことができた。
それは、強い姉たちや家族に守られていたから。だからこそ、知らないままでいられた。穏やかな日常の中に、疑問や不安などはなかった。
それでよかったのかもしれない。何も知らないまま、永遠に守られ続けて生きていけるのなら──その方が、きっと幸せだ。
──許されるのであればの話だが……。
だが、そんな日常は、ふとした拍子に突然終焉を迎える。
今となっては思う。あれは私が、私である以上、避けられぬ必然だったのかもしれないと。
運命の歯車が軋みを上げて回り出した、そのきっかけは──たった一つの生活音だった。
玄関の扉が、きぃ、と音を立てて開く。
私が七歳のときだった。その日の天気は朗らかで、初夏の陽射しが玄関先の石畳をまぶしく照らしていたことを、今でもはっきりと覚えている。
扉が開いたと同時に、皐月の風がふわりと吹き抜け、私の頬をやさしく撫でていった。春と夏が交差するような匂いのする風だった。だが、その心地よさに浸る暇もなく、私は目の前に現れた二人の影に、戸惑いと驚きを覚えた。
一人は若い男性だった。中肉中背で、黒い軍服のような、どこか歪なデザインの上着をまとっている。その風貌は、このあたりではあまり見かけないものだった。
そして、もう一人──上下黄色のワンピースを纏った、小さな女の子。
「──ねえ、この子は?」
なぜか分からない。けれど、私はその男性に対して、強い警戒心を抱くことはなかった。
彼も彼女も、もちろん初対面のはずだ。なぜ家に来たのかも分からない。それなのに、私は自然と、男の隣に寄り添う少女のことを訊いていた。
その瞬間から、不思議と心が少女に惹かれていくのを感じた。
まるで、山から川へ流れる水のように、自然な感情として。
初めて会ったとは思えない──そんな既視感を覚えていた。
涅色の髪、微かに揺れる茶色の瞳。少女は声にならない音を喉の奥で漏らしていた。きっとそれは不安の表れなのだろう。だが、それでも私は思った。この子を守りたいと……。
強い陽射しに遮られ、男の表情はよく見えなかった。ただ、私の言葉に彼が静かに耳を傾けていることだけは伝わってきた。
そして数秒後、男の口がゆっくりと開く。
「絆だ……」
深く、落ち着いた声。それでいて、どこか心を温めてくれるような響きがあった。
「絆……?」
私はその言葉を復唱した。
絆──人と人との結びつきを表す、最近覚えたばかりの言葉。そして、男の隣に立つ涅色の髪の少女の名前。
この幼い少女の名は、『絆』。
「そうだ」
その瞬間、男は少女の背中にそっと手を添え、優しく押し出す。
けれど、その仕草にはどこか切なさがあった。まるで、これが二人の決別の証であるかのように。
少女はたどたどしい足取りで、私の方へと歩き始めた。歩くことすらまだおぼつかないその小さな身体で、一歩一歩、石畳を踏みしめながら。
大人なら数歩でたどり着く距離も、彼女にとっては長い旅路のように感じられただろう。
男は黙って見守っていた。少女が転びそうになっても、涙目で振り向いても、決して手を差し伸べることはなかった。あえて突き放すように、静かに彼女の旅立ちを見送る──まるで雛鳥を巣立たせる親鳥のように。
そして、少女の身体がふらりと揺れ、私の目の前で大きくバランスを崩す。
「……っ!」
私は咄嗟に手を伸ばし、倒れそうになった彼女を抱きとめた。
その背中は、驚くほど小さくて、壊れてしまいそうなほど繊細で──そして震えていた。
呼吸は荒く、不安と恐怖に押しつぶされそうな様子が、痛いほどに伝わってくる。
私は自然と手を背中に添え、ゆっくりと摩りながら、安心させるように努めた。
絆は私の腕の中で、小さな手で私の袖をしっかりと掴む。
大丈夫。絶対に離したりしない。
「この子が…… 絆……」
私は絆を抱いたまま、男の方を見る。少しずつ、絆の震えが和らいでいくのを感じた。
陽の光に遮られて顔は見えなかったが、男の口元がわずかに持ち上がったのが見えた。
それはまるで、私に全てを託すような、優しい微笑みだった。
「あぁ……桜、絆を頼んだぞ」
その一言だけを残して、男は背を向けた。
何も言わず、一切振り向かず、ゆっくりとその場を去っていく。
「絆……を?」
腕の中で顔を伏せ、震える少女。彼から託された『絆』という名の少女──
この子を、私が守らなければならない。
私が、絆を……。
私が七歳のとき、『絆』と出会った。
この日、この瞬間に、私は絆を守るという使命を与えられた。
何もないまま過ぎていくと思っていた私の人生。
けれど──全ては、この日から変わり始めたのかもしれない……。