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 怜は銀髪の少年が消えたあとの空を観察するような目で眺めていた。

 ラベンダーの色は、今では茜の色へと移り変わっている。間も無く空には夕日の最後の光が投げかけられ、その後には薄闇があたりを包むだろう。そして漆黒の夜が訪れる。

 渓は水の剣を消していた。

「……あの、姉上様が、お出でなの?」

 そろ、と尋ねた琥珀色の髪の少女に、怜は頷く。

「来てるよ、今。この村に。夫婦揃って。あと、太郎兄も小説の取材と言う名目でね。さっきの少年の神気は並外れていた。……彼は、理の姫の求愛者なの? 随分と強引だったが」

「――――……うん」

「名前は? 俺が知ってるとは限らないけど」

「神界の関係者であれば誰もが知っている。天之御中主だ」

 渓の答えに、怜は口元に拳を当てて考える。

「……それはまた。困ったことだね。…………理の姫。真白とは会った? 話をしていないの?」

 これにも渓が答えた。

「成瀬荒太が、会うなと言った。正確には、絶対に会わせない、と息巻いていた」

 怜が息を吐く。目元に落ちて来た前髪を払った。

「ああ……。まあ、無理もないね。俺から伝えるようにしよう」

「姉上様に、会わせる顔がないわ。……ええと」

「怜で良いよ」

「怜さん」

 怜は深い色を湛えた目で密を見る。

「君が散ったあと……」

 密が恐れるように身を竦め、渓が怜を睨む。

「真白は大層悲しみ、泣いていたよ。成瀬はずっと真白に寄り添い、慰めていた。あいつは相当、君たちに頭に来てたんだけど。泣きながらも真白は尚、理の姫。君を庇ったそうだ。水臣を想って散った君を責める言葉を持たないと言って。自分もまた、成瀬を失えば同じくあとを追うだろう。君の気持ちが理解出来るから、……と」

 表情を変えずに渓が唇を噛み、密はその場にしゃがみ込んだ。

(姉上様――――)

 水臣の為に全てを投げ出し、魍魎との闘いさえ彼女に押し付けてしまった自分を、真白は許している。渓は密の背に手を添えた。

「姫様。雪の御方様にご助力を仰ぎましょう」

「いえ、駄目よ。そんな恥知らずなこと、とても出来ない」

 綺麗な一対だな、と怜はそんな二人を見ながら感想を抱いていた。今生では、まだ自分の半分程の年齢しか生きてないであろう少年と少女。琥珀色の髪の、姫君めいた容貌の美少女と、水の流れるような透明さを思わせる、涼やかな顔立ちの少年。

(ロミオとジュリエットみたいだ)

 しかし、彼らにシェイクスピアのような悲劇を招いてはならない。

 それでは再び、怜の大事な妹が悲嘆に暮れる。

「……心配ないと思うよ、水臣。真白は状況を把握した時点で、すぐに理の姫を庇護しようとするだろう。夫は猛反対するだろうけどね。真白には勝てない。結局はきっと、あの子が押し切る」


 民宿『神の憩い』に戻った荒太を、シャツの上に法被を重ねたフロント係の男が、愛想良く出迎えた。

「お帰りなさいませ、成瀬先生」

「ただいま戻りました。妻の具合はどうですか?」

「お兄様がずっとついてらっしゃいます。先程、桜茶をお出ししてみたのですが、大層、喜ばれて」

 フロント係の気配りに、荒太は表情を和ませる。

「ありがとうございます。……あの、それから僕らの滞在中、訪問客は一切お断りしてください。色々と面倒ですので」

 相手は納得顔で何度も頷く。

「それぞれ有名人でいらっしゃいますからね。心得ております。当民宿ではどうぞ気兼ねなく、お寛ぎください。奥様の御容態につきまして、要り様な物やご要望がありましたら、遠慮なく仰ってくださいませ」

「助かります」

 荒太は本心からそう言って頭を下げると、古い木の廊下を音一つ立てずに歩きながら、白妙(しろたえ)の間に向かった。宿の中庭に植えてある柿の木が目につく。秋には空の青に柿の実の色が映えるだろう。

(……甘いかな)

 秋に限らず、この地を真白を伴い再訪することがあるかどうか。荒太は考えあぐねていた。


 真白は白妙の間に敷かれた布団に横になっていた。陽の匂いのする布団は、肌触り良く寝心地が良い。

 横には剣護がどっかりと胡坐を組んで座り、文庫本を読んでいる。

 床の間には朱色に黄緑の太い縞が入った大きなガラスの花瓶に、こぼれんばかりに花をつけた雪柳が活けてある。白く小さな花弁がちらほら黒光りする床の間の上に散り、夜に降る雪を思わせる風情があった。

 掛け軸には黄揚羽蝶が舞っている。素人目にも、絵から今にも抜け出しそうな巧みな筆と判る。飴色の光沢のある柱、たなびく雲の意匠の欄間彫刻、黄ばみなど有り得ないと主張せんばかりのまっさらな障子。

 荒太が指定した宿の部屋だけあって、季節感を取り入れた情趣ある客室だ。この宿の中でも、剣護の泊まる翡翠(かわせみ)の間より上等なようだ。尤も剣護はあばら家であろうと熟睡出来る性質だ。

 ひや、と額に心地好い冷たさを感じる。緑の目が真白を見ていた。

「……熱いな。きついか?」

 文庫本を脇に置いた剣護が、真白の額に手を当てて訊いて来る。これまで幾度、このように訊かれただろう。生まれた時から傍にいるこの従兄弟兼、兄は変わることが無い。

「……ううん、そんなに」

「お前ね、俺相手に嘘吐くんじゃないよ。意味無いんだから」

 呆れた声を他所に、剣護が置いた文庫本のブックカバーに目を遣る。

 ダークグリーンの革のブックカバー。高校生の時に真白が剣護に贈った誕生日プレゼントだ。真白が剣護に贈る品は大抵、ハーフである彼の目の色にちなんで緑色だ。

「まだ使ってくれてるね」

 剣護が妹の視線の先を追い、ああ、と頷く。

「当たり前だろ」

「――――足手まといになっちゃった」

 真白が何を言っているのか、剣護にはすぐ解った。

「そう思ってる奴は皆無だ。次郎も今晩には宿に着く。お前はのんびり甘えてりゃ良いんだよ」

「……荒太君のお仕事の、邪魔をしたくなかったのに」

「してねえよ。お前に言われて、今日も渋々仕事に出かけただろうが」

 真白の発熱に伴い、今日の取材は延期する、と主張した荒太を宥めて説得し、真白はその背を押すように送り出した。部屋を出る時の夫はかなりの仏頂面になっていた。

「そうだけど。でも」

「シャラップ。黙んなさい。添い寝してやろうか?」

「脈絡が無いね。うーん、と。ううん、良い」

「真白さん、そこは間髪入れず拒絶して」

 荒太が襖を開けて部屋の中に入って来た。

 真白の顔が明るくなる。

「荒太君! お帰りなさい」

「荒太君! お帰りなさい」

「剣護先輩、キモい物真似して愛しい真白さんの声のありがたみを薄めないでください」

 剣護が文庫本を手に立ち上がる。

「へいへい、んじゃ、俺は部屋に戻る。無理すんじゃねえぞ、しろ」

「うん、解ってる。ありがとう、剣護」

 指差して注意した剣護に、真白は微笑んで礼を言った。

 夫婦二人になった部屋で、荒太はしばらく無言だった。

 真白が頭を置いた枕の周辺には、焦げ茶色の髪が雅な扇のように広がっている。

 艶やかな扇の、一房を荒太の手が掬う。

 眉間には軽く皺が寄り、愛しいような切ないような色が、目に浮かんでいる。

 掬い上げた手触りの良い真白の髪に目を据え、荒太は黙って撫でていた。

「……気分はどう? 真白さん」

 ようやく荒太が口を開き、真白に優しい笑顔を向けた。

「……うん、余り悪くは」

 ないよ、と続けようとしたところで、額に荒太の手がそっと当てられる。次いで軽く睨まれた。

「――――夫に嘘、吐かないでよ」

「ごめんなさい。荒太君、何かあった?」

「何もないよ。真白さん。明日からは夫婦水入らずで、この白砂の間でのんびり過ごそう」

「お仕事は?」

「今日で終わり。明日からは自由の身だから。元々、今回の取材の仕事のあとは、真白さんと旅先で楽しむって決めてたんだ」

「じゃあ、私の体調が戻れば、このあたりを一緒にお散歩しようね」

 少し考えるような間が開いた。

「……そうだね。ねえ、真白さん。俺はさ、真白さんが一番大事なんだよ」

「――――……うん?」

「真白さんが幸せなら、それで良いんだ。俺の感情はこの際、置いといても。……けど時々、何が真白さんの最大の幸福かって悩むことがある」

「荒太君の隣にいること」

 間髪入れず、真白は言った。荒太は虚を突かれたように目を丸くする。

「荒太君の隣にいることだよ」

「…………それだけ?」

 繰り返した真白に荒太が尋ねる。

「私にとっては、とても大事なことなの。荒太君」

 荒太は首をがしがしと掻くと、考え込む顔つきになった。

 夫の様子を見て、真白は何かあったのだと察した。

(私には嘘を吐くなと言うのに。荒太君は、良く嘘を吐く。……大抵は、私の為に)

 真白を泣かせる何者をも、荒太は許さない。

 過去に彼女を嘆かせた存在もその範疇には入っていた。



 怜が去ったあと、人が逢魔が時と呼ぶ薄闇のころ、密は渓に尋ねた。

 密のアイボリーのワンピースと渓の白いシャツが、薄闇の中にぼんやりと浮かび、互いの所在をはっきり認識させていた。

「姉上様のこと、知ってたのね。渓」

「……はい。成瀬荒太の拒絶を知れば、姫様は傷つかれると思い」

「内緒にしようとした」

「はい。宿泊先を突き止めたら私単独で赴き、雪の御方様に縋る所存でおりました」

 密が渓の顔を見る。薄闇の中でも、清水の気配のする顔立ちは見て取れる。

「また、自分一人で泥を全部被って? 悪者になって、後ろ指を指されて――――――――」

「……私はそもそもの本性が歪み切った男です。姫様以外に何と言われようと痛痒も感じません」

 密は拳を握り締める。渓の、水臣のこうした自認が、密には歯痒くてならない。

 幸せにしてあげたいと思った。

 この孤独な人を幸せにしてあげたいと。

「渓はっ、渓は渓一人のものではないわ。私の渓よ。私の大事な、最愛の人なのに、そんな風に疎かにしないで、粗末にしないでよ!!」

 湖の面は揺らがなかった。ただ和らいだ。

「密がそう言ってくれるだけで僕は報われる。幸せなんだ。密以外の声はどうでも良い」

「――――莫迦!」

「その莫迦を、君は愛してる」

「うん」

「至高神にも譲らないよ?」

「うん」

 天之御中主の言葉、態度の端々から、彼もまた、自分と同じく密に焦がれていることが渓にも解った。密を相手にした演技ではなかった。天之御中主は本気だ。

「渓」

「はい」

「お願い、『大般若経』転読の間、私の傍にいてちょうだい」

「はい、無論。私から願い出ようと考えておりました。家の者には話をつけますゆえ、今宵は私の部屋にお出でください」



 月の無い、ぬばたまの夜だった。

 流光寺の駐車場に止まった数台の車から何人もの禅僧が速やかに降り立ち、本堂に集った。

 彼らはこれから『大般若経』六百巻を分担して転読する。


 この祈祷はまず諸仏に合掌礼拝する壇前普礼(だんぜんふれい)から行われる。

「オン・サラバタターギャタ・ハンナ・マンナナウ・キャロミ………」


 渓が顔を上げる。自室にいても、父を含む禅僧たちの声は空間を通して聴こえて来る。

「……始まった」

 隣には密が座り、渓の手を握っている。


「オン・ハンドボ・ドハンバヤ・ソワカ、オン・バゾロ・ドハンバヤ・ソワカ、オン・バザラギニ…………」


 民宿『神の憩い』の白妙の間でも、この陀羅尼を聴いている者たちがいた。

「――――これだけ大掛かりだと、真白に隠し通すのは初めから無理な話だったね」

 夕食前に宿に着いた怜が言う。

 剣護が頷く。

「ああ、大したもんだ。相当の修行積んでなきゃ、俺らにまで聴こえないだろ。昨今の坊さんも中々やるねえ。……もうすぐ護身法が終わるぞ。けどこれで天之御中主までおっぱらえんのか?」

「うーん。彼にとっては邪魔臭い、程度のものかもしれませんね。やらないよりはましと言うか。あ、加持道場が終わった」

 荒太の横で布団から身を起こし、真白も耳を澄ませていた。怜は真白に理の姫・空也密の存在と彼女が現在置かれている状況を説明していた。荒太は迷った末、怜への口止めを控えた。その代わり病床の妻が無理を押して動こうとすれば、すぐにでもそれを妨げる心積もりだった。


「オン・ジ・シュリ・シュロタ・ビジャエイ・ソワカ」


「……開経念偈(かいきょうねんげ)

 真白が淡い色の唇を動かす。

「さあ、こっからが本番だぞ?」

 剣護の声には、お手並み拝見、と言った響きがあった。


「ナモバギャバテイ・ハラジャハラミタエイ・タニャタ・シツレエイ・シツレエイ・シツレエイサイ・ソワカ」


 快い響きに、密は目を閉じて聴き入っていた。

 波のように僧侶たちの上げる読経が押し寄せてくる。音階の調和。

(音の、波長が綺麗。……すごいわ、伯父様)

 そう思っていると、握っていた渓の左手から、軽く握り返される感触を感じた。

 目を開けると、渓がじっと密を見ていた。

「何? 渓」

「見直すのは良いけど、父さんに惚れるとか勘弁してね」

 密はきょとんとしたあと、噴き出した。

 クスクスと笑いながら言う。

「――――大丈夫、渓が一番大好きよ」

「足りない」

「愛してるわ」

「うん」

 密は首を巡らせた。渓の勉経机には笹百合が一輪、鈍い金色の花瓶に挿され、部屋に歩み入った密を芳香と共に出迎えた。金色と百合の淡い紅の組み合わせが優美だ。

「渓、あの百合」

「……姫様が来られるのに、あのくらいしか準備出来ませんでした。本当は姫百合のほうが良かったのですが」

 密は唇に淡い笑みを滲ませる。

「早咲きね。綺麗だわ。ありがとう」

「…………もっと色々と、整えたかったのです」

 渓の声は悔しげな響きを帯びていた。それが子供の駄駄のようで、密は可笑しかった。

 しかし密は取っ手のついた花瓶の独特な形を見て、顎に人差し指を当て首をひねった。

「……ねえ、渓。私の記憶が正しければ、あの花瓶は仏具の一種じゃなかったかしら?」

「拝借しました。姫様に相応しい物が中々見つからず」

「無断で?」

「結果的にはそうなりますね。父たちも忙しそうな中、声をかけるのも煩わせるかと思い」

「――――困った人ね」

「姫様に相応しい物が他に無かったのです。止むを得ません」

 渓は少なからずむきになって声を上げた。まるでぐずる子供だ。昔から、彼は自分の前でだけこんな一面を見せる。冷徹や激情とは異なる意外な顔。密は笑いを堪えると同時に、渓を宥める必要性を感じた。

「はいはい、そうね。その通りだわ」

 ゴロン、と渓は寝そべった。

「……今夜は月が見えない」

 物憂く言う。重大事を語る口振りだった。

「そうね……」

「ぬばたまの夜だ。姫様の髪は、前はぬばたまの黒髪だった。艶のある、絹糸みたいな」

「ええ。水臣は――――私の髪に触れるのが、好きだったわね。良く手で梳いてくれたわ。そんな時のあなたは、すごく優しい目をしてた」

 それが主にどういう時だったか思い出して、密は赤面した。

「今は全然違う色だわ」

 渓に動揺を悟られないように声を上げる。

「同じだ。綺麗なのは変わらない。密の髪は、光そのものみたいだ。日光とか、月光とか」

 そう言われると密は、何とも面映ゆい気持ちになる。

 人から疎外される原因になりがちな髪の色が、渓の言葉一つで嬉しく思えてしまう。

「ぬばたまの、は枕詞なんだよ、密」

「そうなの?」

「うん。あの真っ黒い艶々した実が、昔の人々に色んなものを連想させたらしい。あれこれと和歌の中の言葉にかかる」

「例えば?」

 密も渓の隣にゴロンと寝転がる。琥珀の髪も同時に広がる。

「黒」

「それはそうね」

「髪」

「うん」

「夜」

「今夜みたいなね」

「夕べ」

「へえ」

昨夜(きぞ)

「うん」

 空間を通して心地好く響く読経の中、ポツリ、ポツリと渓が水音のように挙げる言葉は何かの呪文のようで、密は不思議な気分だった。天之御中主のことも、頭から消えていた。

「今宵」

「うんうん」

一夜(ひとよ)

「…………」

「夢」

 密は自分を凝視している渓と目が合った。

(いも)

 密は絡みついて来るような渓の視線から目を外し、渓がいない方向に顔を向けた。

 髪にかかる手の感覚が伝わる。琥珀の髪に渓の手が触れている。密の髪は今、鋭敏なセンサーのように彼の手に反応していた。

(百合の香りが強いわ。百合の香りが。あの花粉は、服につくと布地に染み込んだようになって、色が取れなくて困るの)

 懸命に他のことで頭を満たそうとする。

 前生における水臣との触れ合いの記憶から渓の意識を逸らせたと思ったのは、密の都合の良い思い込みだった。

 神界にある存在の身体は、それぞれ幻影のように不確かなものではあるが。

 幻の身体をもって、理の姫と水臣は何度も愛し合った。

 現世での人同士の交わりに比べれば、それは神の見る夢に等しい。人に生まれ変われば交わりは叶う。だからこそ水臣は自死を選び、理の姫はそのあとを追ったのだが。

(夢―――――)

 今宵。

 一夜。

 夢。

 妹。

 連想ゲームのように。

 渓が密に何を囁きかけているか、密にも解った。

 密は畳の上をズルリと滑り、渓から距離を取った。

 渓の手は追いかけてくる。髪を撫でられ、手で梳かれる。何度も。

 あのころのように――――――――。

 クスリ、と渓の笑いが聴こえる。その響きが密の耳をも痺れさせる。

(水臣……)

 百合の香りには人を酩酊させる効能もあるのだろうか。

「お逃げになられるのですか、姫様」

 水が波紋を起こす。湖面にさざ波が立つ。

「……不謹慎だわ、水臣。このような時に」

「そう言って、お逃げになる」

 渓のしなやかな指が密の耳を縁取るように撫でた。密がビク、と身じろぎする。自分の口から意図しない声が洩れ出そうで、引き結んだ唇を両手で覆った。耳たぶのあたりで指は留まり、軽くそこをつままれる。

「渓――――」

 密の声が合図のように指は再び動き出した。密の耳から顔の輪郭、(おとがい)まで流れるように。

 指で挟まれた頤は、渓のいるほうへ向かされた。

「――――――――いつまでお逃げになるおつもりですか」

「なぜ私を追い詰めるの」

「あなたが逃げるからだ」

「あなたが追うからよ」

「追わねばあなたは一生、逃げ続ける!」

 渓は憤りを露わにしていた。

「……人の命は短い。私たちは寿命を終えれば、また神界に逆戻りです。理の姫と花守の、それぞれの役割と立場が待っている」

「……また触れ合えば良い。嘗てのように」

 密の声は怯えの為、微かに震えていた。

 バンッと畳が激しく叩かれ、密は身を竦めた。

「それでは足りないから私は思い詰め、あのような愚行を犯した! 私は幻でない身体で、姫様が欲しいのです。それともそのようにいつまでも逃げる素振りを見せ、力ずくで奪い取られることをお望みか」

「ちが――――」

 密が最後まで言い終える前に、唇は塞がれた。喰らわんばかりの塞ぎ方だった。

 畳の上に組み伏せられる。抗おうとした華奢な手首は、易々と縫い止められた。

 密は被さって来る渓の体温に恐怖した。

(やめてやめてやめて。渓)

 あと少しの猶予をなぜ許してはくれないのか。

 

 今宵、一夜の 夢を 恋人よ。


 このままでは燃えてしまう。このままでは。


(愛していると、言ったのに)

 密の見開いた目から流れる涙を見て、渓は顔を離した。

「姫様――――……、」

 渓の下から密の姿が掻き消える。あとには塵と見紛う微細な光が舞った。

 夢のように、少女はいなくなった。

 朗々と頭の中に響き渡る読経を聴きながら、渓は茫然としていた。



 密は宇宙の中で身を震わせていた。顔を俯け、両手で腕を抱き、足を折り曲げて胎児のように身体を丸めて目を固く閉ざしている。

 星々の煌めきに囲まれている自覚も無いままに、密はしばらく動けずにいた。

(……ここ、どこ?)

 まとわりつくようだった百合の香りが消えている。

 ようやく我に返り、恐る恐る目を開けるとあたりを見回す。

(アンドロメダ星雲――――……)

 この壮大な景色には見覚えがある。

「……密――――……」

 呼ばれて振り向くと、そこには驚いた顔の天之御中主がいた。

「銀。どうしているの?」

「……ここは私の居所だ」

「あなたが、私をここに? また夢を通して?」

 天之御中主の眉が顰められる。

「いや、違う。人間たちの祈祷が邪魔で、私は君に辿り着けなかった。君のほうからここに来たんだ。逃げるように。どういうことだ? 密。何があった――――――――」

 距離を縮めようとした天之御中主に、密が叫んだ。

「来ないでっ!」

 至高神の歩みが、少女の悲鳴によって止まる。絶対的な命令を受けたかのように、天之御中主は指一本も動かそうとしなかった。今、彼の頭にある最優先事項は、怯えている少女をこれ以上追い詰めないことであった。傷を負った者を前にした時に胸に湧く、痛々しさを天之御中主は感じていた。何が密を追い詰めたのか、彼はそれが知りたかった。

「来ないで、来ないで、来ないで、来ないでよう…………どうして? 渓。どうして?」

 泣きじゃくり始めた密を見て、天之御中主はあらかたの事情を察した。

 不届きにも女神を泣かせた者の正体を知る。

「……密。僕は君に近付かない。他の輩もここには寄らせまい。落ち着くまでいると良い。星の輝きは君の慰めになるだろう」

 顔を上げた密の濡れた目に、疑惑の色がよぎる。

「どうして優しい振りをするの? 私が今、弱ってるから? 狙い目だから?」

「……違う。君のことが好きだからだ。僕は今まで、無償の愛と言うものが良く理解出来なかった。受け手になったことしかなかったからね。でも、今なら何となく解るよ。自分に得られるものが無くても、相手に優しくしたい時というのはあるらしい…………」

「――――ごめんなさい……」

「何を謝る?」

「傷つけたわ」

 天之御中主の顔には、寂しげな微笑があった。

「……構わない。今は、君のほうがずっと傷ついてる」



 密とは層を異にした宇宙に、天之御中主は佇んでいた。

 彼は考え事に耽っていた。

(私の女神が泣いていた。私の女神が、泣いていた。――……いや違うな。泣かされた。光の少女に水臣が乱暴に迫り、至高神の居所にまで身を飛ばさねばならぬくらい追い詰めたのだ。不思議なものだ。密が泣くと、傷つくと、私の胸までが連動したように痛む)

 密を庇って自分に水の剣を向けた少年の顔を、思い出す。

(あの男は、密を好いていたのではないのか? この私にまで、臆することなく刃向ってみせたではないか。……少なくとも密は、あれを愛していると言った。愛している相手に残酷な扱いを受けた時、心ある者ならばあのように傷つき、泣くのだ)

 至高神は密と出会って以来、人の感情に、心理に、これまでより関心を持つようになっていた。彼は今、心というものを学んでいる最中だった。

「……爺」

「これに」

 呼べば即座に反応が返る。今まで返らなかった例は無い。

 天之御中主の傍らに、気付けばその存在はあった。

 宙にふわりと畏まる、銀灰色の羽織袴の老人。衣服は移り変わった気がするが、その色と忠誠心だけは少しも変わらない。

「私は粗野な真似は好かぬ」

「はい」

「蛮行も好まぬ」

「存じております」

 恭しく頭を垂れる。

「したが……、」

「はい」

 銀色の双眸が強く光った。これまでにない輝きがそこには宿っていた。

「水臣は、してはならぬことをした。姫の信頼を裏切り、泣かせたのだ。……こういう時、人間の男は相手である恋敵の男を殴るものらしい。ゆえに」

「はい」

「殴りに行く。姫を頼む」

「承知致しました。行ってらっしゃいませ、若」

 銀灰色の老人は、拝礼して主人を送り出した。



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