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 瞳を開けた密は宇宙の中に、銀河に身を置いていた。

 目の前に広がるのは黒、もしくは濃紺のマントの上に、白い粉砂糖を贅沢にぶちまけたような壮大な眺め。

 煌めく星、瞬く星の輝きは神秘そのもので美しく、眩い。

(渦巻き。渦巻きが見えるわ。まさかアンドロメダ星雲? 確か二百三十万光年も離れてる筈なのに、こんな近くに見えるだなんて)

 思わず見惚れそうになる自分を留めて彼女は、小さな唇を動かした。

 この光景は人智を超えている。密が今いるのは神の領域だ。

「あなたが私を招いたの? 天之御中主」

 正面に、玉座に座るような体勢で浮かぶのは、銀髪の少年――――いや、青年。

 現世で会った時よりも大人びた容貌に、ゆったりとした、和製ローブのような白い衣服を身に纏っている。一点の染みも無い白。所々、微かに淡い銀の色がその上を移動している。息をしているかのような、神の衣――――。

 密もまた、それと対になるような衣服を着ていた。だが純白の布にたゆたう色は銀ではなく淡い金色だ。天之御中主の意向によるものだろう。

「そう。この景色は、お気に召しましたか?」

 彼は密の問いに微笑むと宙を移動し、密の前でひざまずいた。

「御手にくちづけすることを、お許しいただけますか、姫」

「ダメ。……ごめんなさい」

 天之御中主は静かな表情で引き下がる。ひざまずいたままで、確認するように言う。

「姫は、私を愛しておられぬ」

「ええ。私は水臣、渓しか愛さない」

「水臣もまた、同じくそうなのであろう。また、そうでなければならぬ。姫の片恋などあってはならぬ。では私は? 姫」

「え?」

「私は、あなたを――――?」

 思ってもいない問いかけに、密は戸惑った。

 答えは解り切っているからだ。

「……愛してなどいないでしょう? ただ、狩りの獲物を追うように、私が嫌がるから、逃げようとするから執着しているだけだわ」

 落ち着いた口調で言い切る密を、天之御中主は銀色の瞳で見つめた。

「その、根拠は」

「あなたの、今まで私に示した態度を見れば、一目瞭然だわ」

「私は、あなたを愛していないと」

「そうでしょう?天之御中主」

「……(しろがね)と呼んでいただけますか、姫。あなたに神の名でしか呼ばれぬのは、寂しい。密」

 天之御中主の前に立つ少女は、初めて人界、現世で出会ったころよりも美しくなっていた。幼さから踏み出した、大人の女性の美。女神本来の美が漏れ出している。

(水臣が、あなたをそうさせたのか)

 気高い神の衣を難無く着こなし、琥珀色の髪に縁どられた顔は憂いを含む。

 天之御中主はその面立ちに見惚れる。

(……美しい)

 彼がこれまで目にして来たどの女神より、密を美しいと感じた。

「あの日、私は予見に導かれ、あなたの聖域に踏み込んだ。あなたは光と、白い鳥と戯れていた。無邪気に笑いながら。光に祝福され輝く少女。瞬きの間です、姫。瞬きの間に私はあなたに目を奪われ、釘づけになりました。私が光の姫、理の姫との古い縁組に乗り気になったのは、あそこであなたと出逢ったからです」

 密はこの告白を、軽く眉を寄せて聴いていた。

「私を好きになったと言うの? 嘘だわ」

「そう思ったほうが、密、君は良心が痛まず都合が良いのだろう」

 冷たい銀色の目の奥にあるものは。

 狂おしい熱。燃ゆる火。

(渓と同じ――――? まさか)

 密は顔を横に振る。

「……嘘だわ。振りをしてるだけ。見せかけでしょう? 私という獲物を騙して罠に嵌め、仕留めようとしているのでしょう。狩人のように」

 その時密は、天之御中主の見せた人間じみた表情に驚いた。

 至高神は明らかに密の言葉に傷ついていた。

 天之御中主がふい、と視線を逸らす。沈黙を挟んで彼は言った。

「――――――――……密……。僕は君を愛しているよ」

 声は告白の緊張に硬くなっていた。それが余りにも真実味を帯びていたので、密は混乱した。この声は演技ではないのか。彼の脚本に書かれた筋書では?

「――どうして……――――」

 天之御中主の顔が紅潮し、苛立ちが浮かぶ。

「理由なんて――――っ。それらしきくだりは、さっき話した! 一目惚れだ。私ともあろうものが。光の少女に心を奪われた! だからどうあっても僕は、君を僕のものにしたいんだ」

「……ごめんなさい、諦めて」

「至高神が? 出来る筈が無い。自分の究極の望みを諦めるだなんて」

 気付けば白銀の布に抱きすくめられ、密は混乱した。至高神の衣からは、何ともかぐわしい香りがする。

「姫。密、密――――……」

 熱の籠った声で名を呼ぶのは、今までは渓だけだったのに。

 こんなひたむきさを、まさかこの相手からぶつけられるだなんて。

「し、銀。待って。待ってちょうだい」

 身体を押し遣り、間近から相手の顔を見据える。

「本当に、本当なの……?」

 銀色の双眸は真剣だった。

「僕はこんな芝居が打てる程、気が長くないし卑しくもない。自尊心だって低くない。それとも今ここで、力ずくで君を奪えば、納得してくれる?……密、これまで僕に望まれて身を投げ出さなかった者などいない。誰もがその栄誉に浴するを喜び、僕の寵を受け、全てを捧げた。僕は享受する一方だった。密。君は僕がひざまずき、希った初めての存在だ。どうか僕を受け容れて。光の姫よ――――」

 かすめるようにくちづけられ、密は瞠目した。

(嫌。渓――――)

 左胸から熱く、赤い光が放たれた。


 そして密は夢から目覚めた。心臓が速く脈打っている。その上、左胸あたりがまだ熱い。抱いていた水色のウサギのぬいぐるみを横に置き、密は足をベッドからフローリングの床に下ろす。うろうろと部屋の中を早足で歩き回ると、そのままの勢いで部屋から飛び出した。

 取り乱した彼女が向かう先は、一つしかなかった。


 流光寺住職は朝のお勤めを終えて作務衣姿で竹箒を持ち、境内を掃いている最中だった。梵鐘の周囲を掃いていたあたりで彼は、パジャマ姿に裸足で駆けて来た少女を見て目を丸くした。

「どうしたね、みっちゃん! 幾らご近所とは言えそんな恰好で。まだ朝も早いのに。それに裸足じゃないか、怪我するよ?」

「伯父様、渓は? 渓はいますか!?」

「あいつならまだ寝とるだろう、あ、これ、みっちゃん!?」

 密は再び駆け出し、お邪魔しますと言って長谷川家に上がり込んだ。彼女が駆け抜けた長谷川家の廊下には、小さな足跡の汚れが点々と渓の部屋の手前まで残された。


 父親の予測通り、渓はまだ畳の上に敷いた布団にくるまり、夢の中で微睡んでいた。

 小さな密が泉のほとりにうずくまって泣いている。

〝どうしたの、密。どうして泣いてるの?〟

 渓が理由を尋ねると、密は顔を上げてこう答えた。

〝助けて、渓。困ったことになったの〟

 その具体的な内容を聴き出す前に、軽やかな足音がどこからか聴こえて来た。


 スパン、と襖が勢い良く開く音が響き、渓が被っていた布団の上から軽い重力が加わった。目をこすり、まだぼやけた頭で身を起こした渓の前には、涙目の密がいた。

(あれ? 夢? 現実?)

 何度も瞬きする。渓は低血圧で非常に朝に弱い。その為、早朝のお勤めを欠かさない父親を、その点においては評価していた。

「助けて、渓。困ったことになったの!」

(台詞まで夢と同じと来たぞ)

「ええと、密。とりあえず抱き締めて良いですか。現実を認識したいので」

「良いわよ、どうぞ」

「…………」

 柔らかな温もりを感じて、渓の頭が段々と覚醒して来た。

 窓の手前の障子からは、淡い陽の光が差し込んでいる。渓の愛する光が。

 密から身を離して渓は水の流れる声で尋ねる。その薄青い目には、平静な光が宿っている。

「困ったこととは何ですか、姫様」

「天之御中主が、銀が――――――――いえ、ごめんなさい。何でもないわ」

 言葉を途中で切って、いきなり帰ろうとする密の腕を掴んで渓が引き留める。

「ちょちょ、姫様っ。待って、密!」

「何でもないの、何でもないの、ちょっと、ものすごく寝惚けてここまで来たの。それだけよ!! お騒がせしてごめんなさいっ、お邪魔しました!」

「話に無理があり過ぎるっ! 密に夢遊病の気は無いだろう」

 密の両手首を掴んで座らせ、渓が叱るように言う。

「―――――密?」

 渓が密の顔を心配そうに覗き込む。

 密はすぐ近くにある渓の顔から顔を逸らして懇願した。

「手を放して、渓。逃げないから。お願いよ」

 渓が乞われるまま手を放すと、密は右手で口をパッと覆った。

 渓の顔に訝しむ表情が浮かぶ。

「何もされてない、私は何もされてないわよ、渓」

 掌越しのくぐもった声に渓は確信する。

「何かされたんだね? 密」

(天之御中主――――何でもない――――何もされてない――――口を見られまいとする)

 それらの手がかりから渓は、密に関してのみ働く野性的な勘で一つの答えに辿り着いた。

「…………キスされたの、密?」

 密の顔が赤くなり、目が大きくなる。肯定したも同然の反応だった。

「――――…何だか変だったの、彼。夢に訪れて。いえ、私があちらに招かれて。愛の告白に、抱擁に、くちづけの三段階をいきなり」

 言い終わる前に、渓が密を抱き締め、荒々しく唇を重ねて来た。

「……ん……、渓、渓、落ち着いて! 肩が痛い、」

「落ち着けない! 落ち着ける筈が無いだろう、これが――――」

 渓の語尾に被さるように、その頭をフライパンがガンと言う響きと共に襲った。

「落ち着けっつってんだ、お前は。野獣か、こら。密を放せ」

「――――……竜妃姐。痛い。頭が、ものすごく痛いんだけど」

 両手で頭を押さえて呻く渓を、密が心配そうな目でオロオロと見る。

「安心しろ、フッ素加工だ」

「フォローするつもりが最初から無いよねっ!?」

 竜妃は弟の非難を無視して密に話しかける。

「密、朝飯食って行きな。そんで、服を貸すから一旦、家にお戻り」

「…………うん。竜妃お姉ちゃん、ありがとう」

 竜妃が密の肩を抱いて部屋から出て行ったあとも、渓は布団に突っ伏していた。

(天之御中主。天之御中主。良い度胸だ――――私の姫様の、唇を奪うとは)

 あの甘さは。柔らかさは。濡れたような艶やかさは。

(全部、僕だけの物だ。僕だけの物だ。あれの所有者は、この僕だ。僕の聖域に、奴は踏み込んだ――――愛の告白だと? 嘘八百に決まってる。密は純粋だから、それが解らないんだ。くそ。あいつ、殺してやりたい)


 密が帰った後、渓が何とか平常心を取り戻して制服に着替えて朝食を済ませ、登校しようとしていたところ、玄関で父親が声をかけて来た。

 広いと狭いの中間くらいのスペースの玄関には、鮭をくわえた木彫りの熊、黒田武士の博多人形、シーサーの置物、なまはげの鬼の面、松葉ガニの模造品などが飾られ、カオス状態と化している。ゴルフに次ぐ、父の趣味だ。渓の母親は自宅の玄関における景観の美を取り戻すことを断念していた。

「おい、渓」

「何ですか」

 学生靴を履きながら答える。

「さっきのみっちゃんの取り乱しようだがな――――」

「ああ、あれは――――……」

 何と誤魔化せば最も穏便かと渓が考えていた時、父が意外なことを言った。

「去年の夏ごろからこの近辺、特にお前たちが遊び場にしとる、裏森のあたりをうろついとるやたら大きな神気と関係があるのか」

「え…………?」

 渓は父の顔を見た。いかにも重々しさを感じさせる、ずっしり構えた坊主顔を。

 渓と竜妃は揃って母親似で良かったね、と親戚が集まるたびに言われる。

「父さん、あれに気付いてたの? 神気が解るの?」

 流光寺住職は、不本意そうな表情になる。

「お前は私を何だと思っとるんだ。この寺の住職だぞ? お前やみっちゃんや、その仲良しの若菜子ちゃんらが常人と違うことくらいお見通しだ。特にみっちゃんは神気が強いな。――――危ない輩に、狙われておるのか?」

「――――うん」

「ふむ、そうか。道理でな。お前たちの結界だけでは心許無い。みっちゃんは、結界を張れないのか」

「力の扱いにまだ慣れてないんだ」

「成る程。清らかな子だから、そのあたりの目覚めもまだおっとりしとるんだろう。それでは致し方あるまい。私は私に出来ることをしよう。今宵より、『大般若経』の転読を行う。お前は邪魔になるから、本堂には近付くんじゃないぞ」

 渓の目に、今くらい父親が立派な僧侶らしく見えたことは無かった。

「父さん…………」

「何だ」

「今まで、生臭坊主とか、密のストーカーみたいだとか、私度僧(しどそう)みたいだとか、あと、とても口には出せないようなことを数え切れない回数思ってごめん」

 私度僧とはその昔、官許を得ずに勝手に剃髪し、僧を自称した者のことを指す。

 住職が大変渋い顔をする。

「お前は自分の親をそんな風に見てたのか。呆れた奴だ。みっちゃんのストーカーはお前だろうが。ああ、あとな。昨日から、これまたでかい神気がこの村に来とるぞ。ちょっと私は驚いた。私の勘ではこっちは無害そうだが。何と言うかな、実にピュアなんだ。みっちゃんみたいに」

 渓は眉を顰めた。

(大きな神気? あいつや密の他に、それと拮抗するくらいの? そんな存在、そうそう転がってるもんじゃ――――)

 ふ、と渓の頭にある人物の顔が浮かぶ。

 白い面。儚げな美貌。

 傍若無人、傲岸不遜を自負する渓でさえ強く出られない相手。

(…………まさかな)


 流光寺住職は息子の登校を見送ったのち、家の電話の受話器を取った。

「あ、まっちゃん? 先日はゴルフでどうも~。まっちゃんのスイング、最近良くなったよねえ。見てて惚れ惚れするよ。…………いやいや、お世辞じゃないって!でさあ、物は相談なんだけどさあ僕ね、『大般若経』転読を行いたいんよお~。めぼしい僧侶の何人かと一緒にさ、ちょっと来てくれないかなあ?――――――――ん。あの祈祷は面倒臭い? 解ってる、解ってるって。そこを何とか! ね、ね、ね!!……え? うんうん、奢る奢る、奢っちゃうよお。んじゃあそゆことでよろしくうぅ~」

 通話を終えると、次はキッチンで食器を洗っていた妻に声をかけた。

「ねえ母さん、十六善神の図像と祈祷札ってどこに仕舞ってあったっけかなあ?」



「ええ、料理研究家の成瀬荒太が?」

 出勤準備をしながら、定行は懐かしい名前を琴美の口から聴いた。

 琴美は寝室の鏡の前で、彼のネクタイを締めて頷いた。

 ネクタイは濃い緑に細いオレンジの斜めラインが入り、シャツは薄い青、ズボンは麻のグレー。定行の髪の色が引き立つ色合わせだ。

 俄かスタイリストとなった琴美は、満足そうな表情で夫の姿を眺める。

「今日も素敵よ、定行。そう。今、この村に来てるらしいわ、雑誌の取材で!」

「何でまた、こんな辺鄙な土地に?」

 定行は妻のもたらした情報に、首を傾げた。二人して玄関に向かいながら会話を続ける。

 古民家内の開放的な空間に、夫婦の会話とスリッパの音が響く。

「それが、あの二丁目に住む、とめお婆さん。彼女の作る、この地方独特のお寿司の取材ですって。歩いてて、道でバッタリ会ったりしないかしら?」

「琴美、彼のファンなの?」

 玄関で必要な教材を再チェックして、定行は琴美から受け取った弁当を最後に鞄に入れる。毎日この瞬間、今日のおかずは何だろうな、と楽しみな気分を抱くのだ。

「だって格好良いじゃない。定行には負けるけど。実力のある若手イケメン料理研究家として有名よ? 私は彼の提案するレシピに傾倒してるし。この間、定行が美味しいって言って食べてくれた新作料理も、成瀬荒太の料理本を見て作ったのよ。確か彼、最近ではスタイリスト業にも手を広げてるらしいわ」

「へええ。彼がねえ。人は大人になるものだ」

 相変わらずの兼業か、と定行は可笑しく思いながら言う。二足の草鞋、三足の草鞋を履こうとするのは前生からの習い性だろうか。

「あら、定行。知り合いみたいな言い方ね」

「実際、ちょっと知ってるもの。だって彼、僕らと同い年で、陶聖学園の出身者だよ?」

 琴美が口に手を当て、目を大きくする。その手の指の、爪にはオレンジとピンクのツートンカラーが塗られている。定行はそれを見て、微笑ましい思いになる。

 今生で再会を果たしたころと変わらず、琴美は幾つになっても愛らしくて可愛い。

「本当!? 私たちの通ってた琵山(びざん)高校がライバル視してた学校じゃない。まあ。奇遇ねえー」

 琴美に送り出された定行は、さて奇遇だろうか、と思う。

 そこで丁度今からゲートボールに繰り出すらしいお向かいの御隠居と顔を合わせ、にこやかに朝の挨拶を交わし合う。田舎では中学校教師と言う肩書もそれなりの重みを持つ。真っ赤な髪の風貌がご近所に迎え入れられたのは、偏にその肩書と定行の朗らかさ、琴美の明るさあってこそだった。

 定行は御隠居の後ろ姿を見てから思索を続ける。

 例えば自分たち花守が、理の姫である密のもとに自然と集ったように。

 成瀬荒太が現在この村を訪れているのにも、何らかの引力によるものではないだろうか。

(――――昨日から村を訪れている大きな神気。天之御中主のものでなく、姫様のものでもない。けれどどこか姫様に近しい。そして成瀬荒太が来ている。それならば、持ち主は一人しか考えられない。…………あの御方だ)

 これは自分たち花守には朗報だと考えながら、定行は中学校までの道のりを歩いていた。


 密はその日、学校をサボタージュして隠れ処に引き籠っていた。

 セーラー服に着替え、一応持って来ていた学生鞄も今は草の上に無造作に置いてある。

 鞄の数は、合計で四つあった。その周囲を大きな黄揚羽蝶が舞っている。黒い鞄の上を、仲間を見つけでもしたかのように、同じく黒い線の中、黄と青と赤の色を抱いた羽が漂う。

(黒臣と金臣。水臣に、明臣の色だわ。あと木臣の緑が加われば、花守の色が全て揃うのに。私の愛する花守の色が…………)

 黄揚羽蝶が飛ぶ姿を見るたびに密はいつも、惜しいわ、と残念に思う。

 ウサギのぬいぐるみ・ラビちゃんを腕に抱えてうずくまった密は口を開く。

「あのね? 何もあなたたちまで、私に付き合って非行に走ることはないと思うのよ? ラビちゃんをお供に連れて来てるし。私はただ、今日はちょっと、渓の顔が見られないから逃げてるだけで」

 少し離れたところにそう声をかける。

「私たちの自由意思よ、みっちゃん」

「お気になさらず」

 同じく制服姿で泉の横の下草に座る若菜子とエリザベスの返事に、密は溜め息を吐く。

 誠は小岩近くまでは踏み込まず、裏森と境内の中間あたりに立っている。

 見張り、またはガードのつもりだろう。その様子を見てから密は俯く。

(…………昔みたい)

 風は穏やかに吹き、下草がそよぐ。泉の水は今日も澄み切っている。

 この裏森は明るさこそ劣るものの、まるで神界の平原のようだと密は思う。

 花守が集えば猶更、そんな錯覚に陥る。時がまったりと緩やかに、平和に過ぎていた時代。まだ密が理の姫・(こう)であったころ。まだ密が、彼ら花守を裏切るより前。

 転生した後も、花守の誰一人として密を責めようとはしない。

 自らの嘆きを無視して散った理の姫を、眼前にしていた金臣でさえ。

 皆、密の心情に理解を示し、依然として敬愛し護ろうとする。

 しかし密に注がれる優しい薄青い目も、渓に対しては容赦ない。密を責めることの出来ないぶんも、厳しさと憎しみが上乗せされているように感じられる程。

(あなたたちは私には優しいのに。渓は私の罪まで背負って、悪者になっている)

 花守の意識において理の姫たる密に罪は無く、大罪人は彼女を陥れた渓。

 罪科(つみとが)あるは渓、唯一人。誰もが渓を悪者にする。

(人のこと言えないわ。私だってつい最近まで渓を、悪者にしていたのだから)

 渓は黙ってその役を引き受け、花守の厳しい弾劾にも反論しない。

 彼の性格が歪んでいようが狂っていようが、渓には自分を認める潔さがある。

〝…………キスされたの、密?〟

〝落ち着けない! 落ち着ける筈が無いだろう、これが―――――〟

「――――私は、私は、浮気をしちゃったから、いけない子だから、いたたまれなくてここにいるのに」

 密が雑草をブチブチと両手でむしりながら呟く。草の匂いと土の匂いが立ち上る。せっせとどこかに向かって歩いていた黒い蟻、ミミズの慌てて逃げる姿が見える。密は幼少からの慣れで大抵の虫は平気だった。平気過ぎて害虫にまで近付こうとするのを、渓に頻繁に止められている。

〝全く、密からは目が離せないよ〟

 その言葉はとても嬉しいものだったのに。

 苦笑しながらそう言った渓から、今、密は逃げている。

「みっちゃん。一方的にされた行為を浮気とは言わないわ」

「その通り。奴の所業は重罪に値する。尤も水臣にまでその類の罪を問うていたらきりが無いがな。……しかし、夢にまで入り込まれるとは厄介だな」

 黄金の髪の美少女は、眉根を寄せる。ふわふわとした髪の美少女が、彼女に尋ねる。

「ねえ、金臣。私の言霊でも追い払えないかしら」

「難しいだろう、相手が相手だ」

 密は二人の会話を聴きながら、木苺の繁みに目を遣る。

 ルビーは随分、少なくなってしまった。

 そして大好きなルビーよりも大好きな渓は、今ここにはいない。

 当たり前だ。だからこそ、密はこの聖域に隠れている。

(……でも会いたいわ。会いたいと思ってしまうわ。渓)

 ふと顔を上げると、黒い制服の誠が立っていた。密と同じ方向に視線を据えている。

 それから密に薄青い瞳を和ませて尋ねる。

「……採って参りましょうか」

 密以外には聴かせることのない、穏やかで優しい声。丁重な物言い。

「あら、黒臣。ずるいわ。抜け駆け? 私も摘むわ。姫様に差し上げるわ」

 若菜子が唇を尖らせ、こちらに来ようと立ち上がる。

「お前たちはやめておけ」

 素っ気無く誠が止める。

「どうしてよ? 一人で良い格好をするおつもり?」

「結構な棘がある。手を傷めるぞ」

「そう。渓はいつもそう言って不器用な私を遠ざけて、実を摘んで来てくれるの。渓は棘を避けるのがとても上手なのよ」

 自分のことのように得意げに告げる密の台詞に、誠が眉を顰めた。

「水臣がですか?」

「うん」

「…………大量の木苺を、棘を避けて?」

「そうよ?」

「無傷で」

「そう」

 誠は黙り込むと制服の上着を脱いで緑の上に落とし、上は白いシャツ一枚の姿となって腕まくりをして木苺の繁みに分け入り、その中で身を屈めた。

 数分後、赤い輝きを手に乗せて彼は戻った。

「どうぞ」

「……黒臣。あなた、手や腕が傷だらけ。血も出てるわ」

「こんなものです、実際は。水臣がどう言い含めたか知りませんが、どんなに器用でも、あの棘で傷も作らずに実を摘むのは不可能です。しかも円滑に採るには、腕を防御する袖もめくり上げずにはいられない。ゴム手袋でもしていれば、話はまた別ですが」

 密は思い返していた。

 渓は、木苺の繁みに近付こうとすると、自分を叱った。

 密を棘から遠ざけた。

 自分のほうが器用だから、巧みに棘を回避出来るからと言い張った。

 そうして、山盛りの赤い実が入った銀色のボウルを手に戻る時はいつも、めくり上げていた長袖を、元に戻していた。袖のボタンを留めていなかったので、手の甲までシャツの生地で覆われて。

 木苺を摘んでくれる日は、例外無く長袖のシャツを着ていた渓。

(私に、気付かれないように――――――――)

 密に笑いかける顔の向こうに、渓はたくさんの思惑を隠し持っている。

 そしてそれらは全て、密への想いに集約される。

「……ごめんなさい、黒臣。手を出して」

「無用です。傷は全て、浅い。姫様が御光を当てられるまでもありません」

「お願いよ、黒臣……。私はこれ以上、自分が嫌いになりたくないの」

 泣きそうな密の顔を見て誠は若菜子を呼び、彼女に木苺の実を預けると、尚も躊躇してから右腕を密の前に差し出した。密がその上に手をかざすと、柔らかい、慈しみの光が満ちる。光は密と誠の顔をも照らした。光の当たる密の面差しを、誠は垣間見た。

(…………花だ……)

 美しい(かんばせ)から慈愛と自責の念を読み取る。

 この程度のことで、と誠は思う。

(お変わりになられぬ。姫様は。やはりどこまでも姫様だ)

 微かな苦笑と安堵、敬愛がその胸に湧く。

 高貴な光の姫。花守たちが永遠の忠誠を誓った花。彼女には、既に全てを捧げているのに。恐らくは渓も同じく。

「――――姫様。私にも奴にも、謝罪は無用です。棘で傷を作ると承知の上で自らが選び、決めたことなのですから。御自身を責める必要もございません」

 密は光を誠に当てている間ずっと唇を噛み締めて、彼の言葉には答えなかった。

 やがて彼女は言った。

「……学校に、行くわ」


 成瀬荒太は、とめお婆さんの自宅から宿に戻る途中、豆腐屋の前で立ち止まった。

 白地に細い青のストライプが入った半袖シャツ、濃い青紫のスラックスを穿いて靴は軽い登山にも応用の利く品の良いスニーカーだ。取材中には現地集合したカメラマンから写真も撮られるので、服装もそれなりに見映えするよう整えてある。

 豆腐屋の前で彼は覚えのある気配を感知した。黒い詰襟のボタンを外した、制服姿の少年が手にした鍋に豆腐を入れてもらっている。そんな昔ながらの光景が見られるのも、田舎ならではだ。

 豆腐屋の店先では、水を張った、銀色に光る大きな四角い容器の中に、たくさんの白い豆腐が沈んでいる。何種類かある豆腐の中でも、ざる豆腐が特に美味しそうだ。

(それは良いとして……)

 こちらを向いた少年の顔を見た時、荒太にはそれが誰なのか、正確には以前、誰であったのかが判ってしまった。頭痛がするような錯覚と共に。

 嘘だろう、と思う。

「うわー。嫌な奴に会った」

 心の声を口に出して顔を歪めると、さっさと通り過ぎようとする。

(俺は何も見なかった、誰とも会わなかった。とめお婆さんのお寿司は大した逸品だった、うん。あれは尊敬に値する味だ――――家でも作れないかな。真白さんに食べさせてあげたい)

 自分の思考で頭を埋め、厄介ごとを避けて通ろうと試みる。

 だがその前に、そうはさせじと少年が声を上げた。

「あれ! 荒太さんじゃないですか? お久しぶりですねえ、こんにちは。僕ですよ、僕!」

 にこやかに挨拶する少年からは、清水の気配がする。澄んだ冷たい水の。

 逃避を諦めた荒太は、溜め息を吐いて少年に向き直った。

「……お前はぼくぼく詐欺か。キャラがだいぶん違うんじゃないか?……水臣……」

 少年の態度がガラリと変わる。

「やはりお前か、成瀬荒太。年だけは順調に重ねているようだな。お前が、こんなド田舎に何の用だ」

「はいはい、その高飛車な物言い! 自分の生まれ育った土地に対する愛着心が微塵も感じられない横柄な言い草! 間違いないな」

 豆腐屋の主人が、荒太の上げた大声に驚いた顔をする。

 批判も非難も渓にとっては耳慣れたもので、荒太の叫びは彼の右の耳から左の耳を瞬時に通過して消えた。

 豆腐の入った鍋を手に、渓が荒太に迫る。鍋の中で水音がチャポン、と鳴った。

「お前が来ているということは――――もしや、雪の御方様も御一緒か?」

 荒太の顔が一気に険しくなる。彼の身体から立ち上る怒気を、渓は感じた。

 荒太がひどく冷たい口調で突き放すように告げる。

「関わりの無いことだろう、水臣。お前と理の姫には」

 真白の厚意を踏みにじった水臣と理の姫を、荒太は許してはいなかった。

 先の妖たちとの戦で、今では荒太の愛妻である真白は自分の妹格にあたる理の姫を助ける為、丈夫ではない身体で戦陣に加わった。だが理の姫は戦いの最中、水臣を喪う嘆きに全てを放棄して自害してしまう。だから荒太は今でも、理の姫と水臣に対し憤りの念を持ち続けているのだ。



 烏の鳴き声がうるさくなる刻限、その日はいないだろうと思っていた密の姿を泉の上にせり出した小岩に見つけた時、渓は少し驚いた。アイボリーのワンピースを着た彼女は怒ったような、悲しむような顔をしている。渓は学生服の上着を脱いだ格好で密の前に立った。

「密…………」

「渓、右腕を見せて」

 有無を言わさず、密は渓の手を取り袖をめくった。

「――――……そうよね、傷はもう治ってるわよね」

 密のその言葉で、渓は小さな秘め事が暴かれたことを知った。

「僕が、好きでしたことだ。これは自己責任だよ、密」

「黒臣と同じことを言う。どうしてそう、口ばっかり達者なのよ。…………どうして」

 密は言葉を区切った。

「どうして私は、気付かなかったのかしら。莫迦だわ」

「密」

「他にあとどのくらいあるの? 渓。あなたが私を傷つけない為に、自分を傷つけて隠してること。幼い私が知らずに、あなたに負わせているものが?」

「――――無いよ。もう無い」

 密は渓を睨んだ。

「あったとしても、渓はそう言うわ」

「そう言われたら、僕には証明の仕様が無い」

 渓が手を伸ばそうとすると、密はビクッと動いて後ずさった。

「触れないで」

「……今朝は君から来たんだ」

「解ってる。でも、触れないで」

「他の男には――――触れさせた癖に」

 密の顔が青ざめる。渓は恨みがましい目付きをしていた。

「…………ごめんなさい」

 渓が大きくかぶりを振る。

「僕もごめん、密。君のせいじゃないことくらい、解ってる。父さんが今夜から、『大般若経』の転読を行う。奴の気配にも、僕たちの神気にも、気付いてたらしい。どうやらただの生臭坊主じゃなかったようだ。『大般若経』は禅宗でも最高の祈祷法だ。天之御中主相手に効能の程は解らないが。皆、君を守ろうとしてる」

「そう、効能は無いこともない」

 突然降って湧いた声に、二人共ギョッとする。

 銀髪の少年が、すぐそこに佇んでいた。ラベンダーパープルのボタンダウン・シャツに、グレーがかった白いズボン。緑を踏みしめる茶色の革靴。

 折しも隠れ処から見える空の色も、ラベンダーの色に染まりつつあった。

 美しい空。郷愁を誘う夕暮れの時。銀髪の少年を含め、何もかもが予め仕組まれたような、絵になる壮麗な風景だ。

 聖域に降臨した至高神に、密は慄いていた。

(……花守全員の、五重に張った結界を物ともせずに?)

「やれやれ。花守たちの結界を抜けるのは面倒だったよ。これ以上の面倒を起こされる前に、姫君をお迎えに上がった。さあ僕と行こう、密」

 差し出された手が、密は怖かった。またあの手に抱きすくめられ、熱の籠った声で名を呼ばれ、くちづけされ、そして――――それ以上を求められることに恐怖した。

「いや――――……」

「清き水は、刃のごとく」

 渓の声と同時に、透明な水の凝りのような剣が現れる。

 渓はその剣を手にして密を背後に庇った。

「その、水の剣で、私を退けられると思っているのか?」

 天之御中主が首を横に振り失笑する。銀髪が揺れて輝く。神位から考えても、力量の差は歴然としているのだ。

「密が泣くのは嫌だから、爺の進言を無視してでも水臣を見逃そうかと考えていたのだが。そうもいかないようだ。どうする、密? 僕と来るかい? 水臣を喪うかい?」

 渓は背中で、密の迷いを感じた。同時に、動揺する密の身体から滲み出る、尊い光の気配を。渓の後ろに立つのは女神だ。渓だけの女神だ。

「行かないで、密。君を失えば、どのみち僕は死ぬ」

 密が渓の白いシャツを握り締め、か細い声を上げる。

「やめて、銀。やめてちょうだい……」

 天之御中主がはにかむように笑う。見かけの年相応の少年のように。

「名前を呼んでくれるようになったね、密。嬉しいな。こういう、些細なことを嬉しく感じるだなんて、新鮮な気分だよ。君は僕に新しい喜びと驚きを教えてくれる。……神気を、光を身体から発する自分がどんなに美しいかなんて、君は解っていないんだろうね? 密。君はとても綺麗だ」

「うるさい、黙れ。その口で密を語るな。私の姫様を軽々しく評するな」

 銀色の双眸が剣呑に細められる。

「ほう、私の姫様。――――私の姫様だと?」

 天之御中主から発せられる神気が急激に強まる。渓の息を止める程の圧迫感。

 背中から出ようとした密の身体を渓が押し留め、諌める声を出す。

「密――――」

「だって、渓が死ぬのは嫌。もう二度と、あなたを目の前で喪いたくないの」

「それなら僕の手を取って。姫君」

 選択の余地も考える時間も無い。密はそう思った。渓の背から一歩、踏み出そうとした時。

 対峙していた三名以外の声が裏森に響いた。

虎封(こほう)、行くよ。…………そこの君。女の子に無理強いするのは感心しない。親御さんに教わらなかったかい?」

 理知的で冷静な声色は、追い詰められて昂ぶっていた密の精神を幾ばくか落ち着けた。

 昔、どこかで聴いたことのある声だとも感じた。

 新たな神つ力の気配が生じる。

 銀髪の少年が、億劫そうに振り返った。

「私に親はいない」

「そう。じゃあ俺は今日、木の股から生まれた存在に初めて会ったことになるな」

「低俗なからかいは私の好むところではない。……姫の姉上の二番目の兄が、なぜここにいるのだ。ややこしい。対応に苦慮させるおつもりか。お引き取り願おう」

 細身の艶やかな黒漆太刀を構えた怜が、静かに反論する。

「そちらが先だ。嫌なら俺と、そこの彼を同時に相手取るしかない」

「…………どうせ力比べには大差ないが」

 天之御中主は少し考え込むように間を置くと、姿を消した。

「密、必ずまた迎えに来るよ。それと。……その……、愛してる」

 彼の声があとを追うようにラベンダー色の空に響いた。躊躇いがちに付け加えられた最後の言葉は初めて恋を知った少年のようにぎこちなく、渓には不快極まりない音だった。

 渓は密を背後に遣ったまま、まだ水の剣を消さない。天之御中主と同じ疑問は、彼にもあった。

「――――なぜ、お前までもがいる」

「真白たちとは、あとで合流する予定なんだよ。俺はついさっきまで、君のお父さんにこのあたりの歴史について伺っていた。職業柄ね。びっくりするような神気のぶつかり合いを感じたので来てみると、君たちがいた。花守の結界は、あの少年の為だけの特別製だね」

 怜は落ち着いた声でそう答えてから、琥珀色の髪の少女を見た。年少者を思い遣る眼差しだった。

「……理の姫と、水臣だよね。俺の見立ては間違ってないかな?」

 密がコクンと頷くと、日本中世史専門の大学準教授・江藤怜は、秀麗な顔に微笑みを浮かべた。



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