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 早朝、密は制服姿で泉のほとりに佇んでいた。紺色のスカートに長袖の白いブラウス。ブラウスには二本の白線が入った紺色のセーラーカラーがつき、その下に赤いリボンが垂れている。もう間もない内に、衣更えの季節だ。

 あたりには霧が立ち込めて、時折鳥の声が聴こえる以外はとても静かだった。

 座り込み、学生鞄を置くと下草を軽く手で撫でる。柔らかくて、少しチクチクと肌を刺す。自然が作り出した緑色の敷布。その上に渓に仰向けにされ、見上げた空の青さを今でも覚えている。状況を忘れて一瞬、透き通った蒼天に見惚れた。蒼天は次に、渓の顔に成り代わった。彼は密を睨むように見ていた。怖かった。睨む目の奥には欲望と、愛情があった。

〝愛してるの?〟

〝愛してるよ〟

 何度も何度も、彼は全身で叫んでいた。

 アイシテルヨ――アイシテルヨ――アイシテルヨ

 透明な水のように整った顔立ち。水の流れのような優しい声。微笑む唇。

 ――唇――――――――。

 強引で我が儘で狂おしくて厭わしくて、愛しい。

(何だったかしら、昔、何かで読んだわ。〝真実の愛は幽霊のようなものだ。誰でもそれについて話すが、本当にそれを見た人間は僅かしかいない〟だったっけ? もしそれが現実なら、私は幽霊を見た、僅かな人間の一人になるってこと? こんなところに、自分の隣に、真実の愛が転がってるだなんて誰が思うかしら。でも、渓のは正真正銘、本物だわ、認めざるを得ない)

 それは密にとって今や空を空、大地を大地と認識するようなものだった。

(渓――――……)

 鞄の中から、緩くまとめられたリボンを取り出す。

 燃えるような真紅のリボン。セーラー服に結ばれたリボンより濃くて深い赤。そのリボンを手にした少女の前を、ふわふわと蝶が横切る。

 鈍いような水色の空と翳りのある常緑樹の緑の中で、真紅のリボンは一際、闇を払うように鮮やかな明るさだった。

(……思ひの、火)

 渓がくれた蓬を束ねていたリボンにアイロンをかけ、密は大切に取って置いた。

(今まで散々、私は渓を悪者にしようとして来たけれど。そして渓はそれを引き受けてくれていたけど)

 左胸をそっと右手で押さえる。とく、とく、とく、と響く、命の鼓動を感じる。

 渓はそこに、赤い花びらのような痕跡を残していた。何かの証のように。

 入浴する時、密はその痣に気付いた。

 胸に散ったひとひらの赤に。心臓にまで到達しそうな熱に。

(火をつけたわね? 渓。智慧の火とは真反対の火を)

 火つけは大罪だと言った、その口で。

(悪い人。清らかな顔をした罪びと。でも)

 渓が密を導こうと躍起になっていた世界は、「悪」と簡単に言い切れるものではないことが、密にももう解ってしまった。

 単純明快に色分け出来ない物事の存在を、少女は知った。

 清らかな水を湛えた泉に目を遣る。

 いつも、どんな時でも澄んだ水がそこにはあった。驚くような透明度を保ち。

(……渓。水臣。それが、あなたの本質だわ)

 渓は密を楽園から、花園から追い遣る。

 その代わりに、彼は別の花園を密に与えてくれるのだ。

 焦がれるような、燃ゆる思ひで。

 密の琥珀色の髪が、霧でしっとりと湿り気を帯びる。薄青い瞳は、じっと動かない。

 渓の熱情を、ふしだら、淫らと罵り闇雲に逃げ惑うのは、幼い子供の決めつけだ。

〝全部、僕のせいだ。でも君の手には、僕が残る。僕は永遠に密のものだからだ。……それで僕を、許してはくれない? 密〟

 (こいねが)った渓の声。

〝僕の全部を、君に捧げるよ〟

 彼は自分自身と密の、何もかもを解った上で身を焦がし続けていた。

 あの場面で密の憤りを理解し、許しを請えるのは、渓が大人だからだ。

〝全部、僕のせいだ〟

 密の苦難、苦悩を一身に引き受けようとする言葉。

 全てを捧げると言えるのは、密を愛しているからだ。

 そして。

「どうしよう。私もきっと、あなたを愛してるんだわ、渓…………」

(私も幽霊になっちゃった)

 密は真紅のリボンに、強く唇を押し当てた。


 密はその日の学校の昼休み、初めて、二年五組のエリザベス・ヒュースをクラスの子に声をかけて呼び出してもらった。クラス内の男子たちは、ざわめいた。

〝おい、姫が女王をご訪問だぞ〟

〝表敬訪問?〟

〝ヒュース嬢が姫に大層優しいってのは本当だったんだな〟

「氷の女王」との異名もあるエリザベス・ヒュースが、氷も即座に溶かしそうな温かな笑みを浮かべて颯爽と密のもとに歩み寄る。彼女の流れる黄金の髪は前生と変わらず豪華で、密は嬉しくなる。

「どうした? 密。私に何の用事だろう」

「うん、ちょっと、こっちに来て」

 好奇心に満ちた衆目を避けるべく、密は廊下の端、人気の少ない階段までエリザベスを伴い、潜めた声で言った。

「……お願い、リズ。私をどうか助けて欲しいの」

 エリザベスの表情が引き締まり、戦士のそれになる。

「――――天之御中主が何か?」

「そうじゃないの、それとは別の、極めて深刻な問題」

 自分の目を真っ直ぐに見つめて来る密の願いを、エリザベスが断る筈もない。

「密。何でもしよう、あなたの為なら。私は何をすれば良いのだ?」

 凛々しい美少女は、頼もしい声で請け負った。


 エリザベスと同じクラスの渓は、密がエリザベスを呼び出す一部始終を、当然見ていた。

 彼は少し思案深げな表情を浮かべると、おもむろに席を立った。



「渡辺先生。迷える子羊がまたお待ちですよ」

 職員室で愛妻弁当を食べ終えた定行に、技術教諭の谷原から声がかかる。

「あ、はい。解りました。どうも」

 ひょろりとした古木のような立ち姿の谷原は、頭の白髪もほぼ全滅に近く、目鼻立ちは線で描いたように細い。しかし定行は、この教師がこれで中々、筋の通った老人であることを付き合いから学んでいた。職員室と言う空間に集う人種は実に多種多様で、定行には非常に興味深く、日々、面白く観察させてもらっていた。

 昼休み、職員室の一角、薄いミントグリーンのカーテンで外部と仕切りを作ることの出来る、茶色の粗末なソファとテーブルが置かれたその場所は、今では定行に少年少女が悩みを打ち明ける簡易カウンセリングルームとなっていた。

 定行は待っていた生徒の為に、二人分の湯呑みを流しで洗い、緑茶のティーバッグを入れた急須にポットから湯を注ぎ入れた。湯呑みと急須の載ったお盆を手にカーテンの向こうに足を踏み入れる。

「やあ、お待たせ――――」

「渡辺先生、僕の悩みを聞いてもらっていいですか」

 そう水のような響きで口にした生徒の顔を見た定行は、お茶を用意したことを後悔した。

 一応、お盆をテーブルに置き、赤い髪を掻きながら言う。

「……うーん。悪いけど、お引き取り願っても良いかな」

「お前は教師だろうが。給料泥棒」

 途端にソファーに座っていた迷える子羊、長谷川渓の態度が一変した。

 目には教師に対する敬意の念の欠片も無く、ふてぶてしい表情を晒している。

「教師にそんな物言いする生徒はいません。――――何しに来たのさ、君」

「悩みを聞けと言っている」

「上から目線だし。僕、君のこと大嫌いなんだけど」

「知っているが私は気にしない。姫様以外の存在から向けられる好悪の感情は、私にとってミジンコの(さえず)りに等しい。奴らに囀るなどと言う高度な芸当が出来ればの話だが」

「笑えるくらい変わらないよね、その傍若無人なところ。同様な台詞を生物教師の奥園先生の前で言わないようにしなよ。彼は奥さんに逃げられるくらい微生物を偏愛している。そもそも何で、ミジンコの中から僕に白羽の矢を当てたの?」

「消去法だ。対象たり得る中において止むを得ずお前が残り、止むを得ずここまで出向いた。言い方をアレンジすれば、足を運んでやったのだ」

「対象たり得るミジンコに僕が入っていてとっても光栄だ、驚いてるよ。そして国語教師として指摘させてもらえば、君はアレンジと言うカタカナの使用法を誤っている。お引き取り願っても良いかな」

 ソファの破れ口にぞんざいに貼られたガムテープをさすり、新調すれば良いのにと頭の中でぼやきつつ、定行は再び気の無い口調で言った。そして、ああ今日も良い天気だ、あそこを飛んでるのは(とび)かなと窓の外に目を遣る。

 渓の存在は最早、意識の外です、と全身で彼はアピールしていた。

「……密のことに関しての悩みだ」

 自分のアピールを無視して発せられた渓の言葉に、空に視点を置いていた定行は難題を前にしたような表情になった。

 全花守に共通する弱味が理の姫・空也密だ。

 定行は渋い顔で渓に向き直る。だから嫌いなんだよと思いながら〝国語教師・渡辺定行〟の表情を努力して引っ張り出すと、人質を取った犯人を宥めるように両手を渓の前に広げて見せた。

「解った。……解った、じゃあこうしよう。君はあくまでこの中学校の一生徒、長谷川渓君だ。そして僕は生徒の信任厚い頼れる国語教師。懐の、とっても深い先生だ。そういうことであれば僕も、寛容な心で君の悩みを伺おうじゃないか」

 それは反逆者・水臣に対する極めて大きな譲歩だった。

「……密の身体は」

「ちょっと待って」

 定行が早くも右手を挙げてストップをかける。赤いフレームの眼鏡を外し、レンズを磨き、目をこすってからまた眼鏡をかけ直して、視線を渓から微妙に逸らして言う。

「――――あの、それさ、もしかして保健体育の先生にでも話したが良い話じゃない?」

「そうでもない。お前が想像する程、過激な話じゃない」

「……続けて」

「密の身体は、意外に肉感的で何と言うか。エロい。俺はどうすれば良い、明臣」

 定行は右手人差し指をカーテンの外に向けて突き出した。

「とっとと出て行け、色魔。どこが過激じゃないだ。まじめに相手しようとした僕が間違ってた。君に比べたらミジンコさんたちのほうがずっと崇高だ、彼らに謝れ。君には過去を悔いるって気持ちが無いのか。莫迦は死んでも治らないの実証例を僕に教えてくれてどうもありがとう、そしてはいさようなら!」

「待て、おい。俺はどうしたら良い、あの、全身で誘惑する果実を前に」

 現状における外見の見た目とは逆に、花守の中では最年少に当たる国語教師は、ついに癇癪を起こした。

「うるさいうるさい、うるさいし気持ち悪いよ、君!姫様のことをそんな風に表現するだなんて、不敬も良いところだ。(ただ)れてるっ。何で君の愛情はいつも路線をすごい外れる上に度を越して濃厚なんだ、ベルギー産の生チョコだってこうはいかないよっ!!」

「――――お前、食べたことがあるのか?」

 山奥の田舎の寺で生まれ育った渓には、ベルギー産の生チョコを食べる機会などこれまで無かった。伊達にこいつは都会から赴任して来てないな、と妙なところで定行に感心する。

「あるよ! 琴美がそういうの好きでねっ」

 定行が自棄になった声で答える。

 結局、渓は迷える子羊の駆け込み先・ミントグリーンのカーテンからぺ、と放り出された。



 定行の自宅は中学校から徒歩圏内にある。

 他の田舎と御多分に洩れず、過疎化の危機が迫りつつあるこの村には空き家が手頃な価格で入居可能だ。定行は現在の勤め先の中学に赴任するに当たり、先輩教師から優良物件を紹介してもらい、現在は風情ある古民家で妻と共に暮らしている。

 そろそろ初夏の風を感じる時期になるなあと思いつつ、定行は家路に就いていた。

(夏のかぜ 山よりきたり 三百の 牧の若馬 耳ふかれけり)

 この村では馬もしばしば見かける。狸、狐、鹿、猪、猿といった野生動物も身近な存在になった。奔放な女流歌人・与謝野晶子の歌を思い出しながら、定行は気持ちの良い空気を吸い込んだ。

 田んぼや山々が広がる光景は、以前、赴任していた学校では望むべくもなかった。

 たまに行き合う部活を終えた生徒から受ける挨拶に、朗らかな挨拶を返す。

 定行が学生時代を過ごした町はもっと都会で、初めてこの村に来た時には田舎振りに気が滅入ったものだが、暮らしてみると思った以上に、悪くない。風情ある古民家も、改装して手を加えれば大変居心地の良い住まいとなった。いわゆる、今流行りのリノベーションである。暮らし始めには、風情はあるが不便も多い住居に不満を並べていた妻の琴美も、改装後は機嫌良く家事をこなしてくれている。改装に際して、居間の天井に下げられたシンプルで可愛いシャンデリアは、彼女のお気に入りとなった。

 何よりここは空の色がクリアーで、空気が清々しい。人付き合いにおける多少の窮屈さはあるが人の表情が素朴で、都会よりも柔らかく感じられる。琴美の花粉症の症状がここに住み始めてから軽減した事実も、定行に新しい赴任先を満足させる大きな要因となった。

(住めば都とは良く言うなあ。尤も僕の知ってる都は荒れ放題だったけど。人間だったころ生活していた土地を思い出すし……)

 何より琴美と一緒であれば、大抵の苦難も幸いに変わる。

「先生、さよーならー」

 白いヘルメットを被った自転車通学の女子生徒から通り過ぎざま、声がかかる。

「はい、さよならー。気をつけてね」

 人の姿を見かけなくなり、赤い郵便ポストが見えてくると、我が家も近い。お向かいのお宅に住む丸顔の御隠居の、本日のゲートボールの勝敗はどうだっただろうか。彼は表情に出やすい気性なので、顔を合わせればすぐに判る。

 その時、前方から歩いて来る少年がいた。

 帰宅する中学校の生徒とは逆の方向の進路だ。丁度、定行とすれ違う形になる。

 ラベンダーパープルのボタンダウン・シャツにグレーがかった白いズボン。茶色の革靴。

 その少年を見た定行の第一印象は、〝良いとこのお坊ちゃん〟だった。

 自分も妻の薫陶を受けて、それなりに見目の良い装いを心がけているつもりだが、今、眼前に迫る子供の服装はセンスが良い以上に、とてもお金のかかったものに見える。

 そしてもう一つの印象。

〝嘘くさい子供〟

 思春期ごろの子供特有の、混沌とした感情の揺れが感じられない。

 感情に当然あるべき汗や泥と言った不純物を一切排したかのような、人間離れした表情。

 それは教師として、多くの年頃の子供たちと接して来た定行ならではの感想だった。

 少年は不思議な笑みを唇に浮かべ、定行とすれ違った。

 その瞬間、定行の背筋に悪寒が走った。

(――――――――尋常でない神気――――……!)

 すぐさま振り返るが、少年の姿は嘘のように忽然と消えていた。

(……どうして真っ先に気付かなかった。服装じゃない、表情じゃない、一番、彼が異常だったのは。髪の色だ)

 眩しく輝く銀髪。今現在、花守たちが何より警戒すべきその色が、なぜかすれ違う寸前まで定行の目には入らなかったのだ。

 定行は考えるより前に走り出した。

 途中、我慢出来ずに人目が無いのを確認し、空間を飛んでしまった。

(琴美。琴美。琴美――――)


「琴美!!」

 民家の広い玄関の三和土(たたき)に駆け込んだ定行を、妻の琴美がびっくりした顔で見た。

 玄関の向こうは、改良されたキッチンに繋がっている。琴美はキッチンと玄関の境目のスペースに立って、湯呑みの載ったお盆を下げようとしていたようだ。玄関の端にはじゃがいも、人参、キャベツが盛られたざるが転がっている。また知り合いの農家からの頂き物だろう。

「あれ? 定行。いつ帰ったの?」

 青に白い水玉のエプロンは、明るい色柄のシュシュで髪をまとめた琴美に似合って、彼女の愛らしさを引き立てている。

「琴美、今、誰か来てただろう!?」

 のんびりした琴美の疑問には答えず問いかけると、琴美はすぐに笑みを浮かべた。

 チョン、と障子の向こう、木調の丸テーブルのある居間のほうを指差す。

「惜しかったわねえ。今、生徒の男の子が一人、あなたを訪ねて来てたわよ。これからお世話になるから御挨拶に伺いました、って菓子折りまで持って来て。随分、大人びた子で驚いたわ。定行が帰って来るまで引き留めようとしたんだけど、塾の時間があるから、って言って。たった今、帰ったところよ」

「…………そう……」

「都会からの転校生でしょうね?すごくお洒落だったもの」

 それから琴美は菓子折りを広げ、「わあ、嬉しい」と歓声を上げると、早速、夫と自分のお茶を淹れる仕度を始める。――――ひどく大切な、定行の日常。

 転校生が来るなどと言う話は、定行の耳には入っていない。少年が口にしたのは、とんだでまかせだ。密を守ろうと自らの行く手を阻む花守に対して、〝これからお世話になる〟とは言葉による圧力だ。

(そう。そうやって、揺さぶりをかけるか。天之御中主)

「…………琴美……ちょっと」

「ん? 何々?」

 手招きに素直に従い、近くに来た妻の身体を、定行は抱き寄せた。

「え、え、どうしたの? 定行」

 彼女からは優しくて柔らかい匂いがする。幸福の匂いが。

「ごめん……。ちょっとの間、このままでいて」

「――――うん」

 

 明臣は花守の中で唯一、人間から神と成った。

 日本史において中世と呼ばれた時代、応仁の乱で都を含む多くの土地が戦乱で荒れていたころ、古賀朱丸定行(こがあけまるさだゆき)と言う名だった彼には(とみ)という許嫁がいた。

 東軍からも西軍からも自分たちの暮らす土地の自治を守る為、定行が戦に赴いていた間、一揆を組んでいた仲間の一人の裏切りにより、器量の秀でた富は権力者に差し出されそうになった。富はそれを拒み自害した。

 戦から戻り、全てを知った定行は裏切り者を殺害し、その家に火を放ち、自らもその中で焼け死んだ。死んだ後も定行は怨霊となり、裏切り者の一族を祟った。見かねた理の姫がその魂を救い上げ、神の位に封じるまで祟りは続いた。そして定行は花守の一員となった。

 定行は花守となってもずっと富の生まれ変わりを探し続けた。それは、仲間の花守たちも理の姫も知るところだった。ようやくその生まれ変わりと再会を果たしたのは、およそ五百年後のことだった。水臣のあとを追って理の姫が散っても、彼が他の花守のように殉死出来なかった理由がそこにあった。生まれ変わるタイミングをずらすことで、再び嘗ての許嫁を見失うことを彼は恐れた。

 だが、本来であれば神と人は関わりを禁じられている。どうしてもと望むのであれば、神が人の世に不安定な形で転生するしかない。

 定行が禁忌を犯し続けることを神界がいつまで見過ごすか、彼は常に危惧していた。


(……金臣はお坊ちゃまと評してたけど。どうしてどうして、曲者じゃないか。水臣の次、僕に脅しをかけて来るなんてね。花守の和を乱すのが狙いだろうか。……えげつないな。ますます、姫様との縁組を阻止したくなったぞ)

「ねえ琴美。僕は君から離れないで良いかな?」

「冗談じゃないわ。離れないでよ、絶対」

「――――神罰が当たるかも知れないんだけど」

「良いわよ、定行となら――――本当に神罰に当たったって良いわ」

 妻の本心からの返事に、定行は悲しげに微笑した。


 

 密の隣に、エリザベス・ヒュースの姿を見た渓は、意味が解らず混乱した。

 この泉は、小岩は、木苺の繁みは、これらの場所は全て密と渓、二人だけの聖域ではなかったのか。例え花守であっても許されない侵害だ。睨むような目でエリザベスを見る。

「ヒュース嬢。ここは僕の家の土地で、関係者以外は立ち入り禁止ですよ。もちろんこの場合、あなたは関係者には該当しません」

 碧眼の美少女の返答は簡潔だった。

「姫様たってのご要望だ」

「――――……密?」

 密はエリザベスの流れるロングスカートの向こうに身を隠している。

 子供のように怯える目をしているかと思いきや、違った。

 伏し目がちに物思うような瞳には、何かを悟った大人の女性のような色がある。

 そして、その右手に握り締められ、口元に当てられたリボンの赤。

 渓の燃ゆる思ひに、彼女は唇をつけている。

(火が移る。燃える――――諸共に)

 その暗示。

(密――……、君。君は)

 渓の胸が高鳴る。

「……ごめんね、渓」

 渓は謝罪の意味を察した。甘くて苦い思いと共に。

「木苺の季節はもうすぐ終わるのに?」

「うん」

「密の大好きなルビーを、食べなくて良いの?」

「もっと大好きなものがあるから良いの」

 そう語る少女は大人のような眼差しで。理の姫のような眼差しで。

 深い真理に到達した色。

「……じき夏になる。僕は今までよりもずっと強く、泉から君を呼ぶだろう」

「――――呼ばないで」

 拒絶の言葉が渓の胸を過ぎてゆく。

「もう私を呼ばないで、渓」

 渓の表情は動かないが、手は拳を握っていた。拳の中は汗ばみ、頬は微かに紅潮している。望む言葉が、間もなく自分の耳に届くであろう確信に、渓の胸は熱く脈打っていた。

 彼は少女に尋ねた。

「――――愛してるの?」

 密は目を見開いた。そこには甘い恐怖があった。

 常緑樹の作る薄暗がりに差す光の中で、罪人の告白のように密は項垂れて言った。

「……愛してるわ」


 密の謝罪と懇願を、愛の告白と引き換えに、渓は受け容れた。

「解った。――――けど、忘れないで、密」

「……なあに?」

「僕のほうが、ずっと強く君を愛してる。絶対にだ」

 言い切った渓の顔に、揺らぎは無かった。

 凪ぎの湖――――――――。

(知ってるわ、渓。いつもあなたが先なの。先に行って、私を待つの)

 琥珀の髪が靡く向こう、薄青い瞳が、波一つ立たない水面を見返していた。

 渓は揺らがない表情のまま、身を翻した。


「姫様……」

 渓の後ろ姿が見えなくなり、静かに涙を流し始めた密の肩をエリザベスが抱いた。

「――――愛してるわ、だから今は触れられてはいけないの。もし渓が触れたら、私は容易く堕ちてしまう。時間が欲しいのよ、金臣。それが彼にとって酷なことだと解っていても。楽園に、お別れを告げる時間が欲しいの。ごめんなさい、渓――――……」

 金髪の少女は、琥珀色の髪の少女に寄り添ってずっと立っていた。



 タタン、タタン、と揺れる車窓から見える景色は、至って長閑だった。ほとんど、空の青と、田畑と山の緑の二色しか見えない、和やかな風景の美しさ。

 しかし、七時間近くも列車に揺られるのはさすがに退屈し、門倉剣護は大きな欠伸をした。趣のある木製の肘置きや紺色のビロードの座席も、彼の退屈を紛らわせる材料には物足りない。長い手足をずっと折り畳んでいるのも窮屈だった。退屈を感じるピークを過ぎ、彼は旅の同行者の一人である最愛の妹におおっぴらに甘え始めた。

「あ~。暇だ、暇。マジ、暇。しろ、コーヒーくれ~」

「はい、はい。どうぞ」

 缶コーヒーではなく、自宅で丁寧に淹れられ、保温ポットに入れて持参されたコーヒーの入ったポットの蓋を受け取る。それから、これは自分で持って来ていた、喫茶店に置いてあるようなミルクと砂糖の小さな入れ物を幾つか取り出し、ポットの蓋の中に大量に注ぎ込んでからコーヒーもどきとなった飲み物を飲む。

「ああ、うめえ。肩揉んで~」

「……もう。はい、はい。あ、結構凝ってるね。さすが物書き!」

「ん。だろ? アーモンドチョコも」

「はい、どうぞ」

「あーん」

 カパッと開いた兄の大口を前に、妹が戸惑う。

「ええ? …うわあ、剣護すごいね、虫歯も銀歯も全然無いよ」

 口の中を覗いた真白の思考が逸れた。

 そこで剣護の座る窓際の座席横の壁に、ボックス席の斜め向かいからドカッと蹴りが入る。剣護に当たっても何ら構わない、と言わんばかりの鋭く遠慮の無い蹴りだった。素早く剣護が頭を避けたのは優れた反射神経の賜物だ。

「……ああ、すんません、先輩。俺の長い脚が、俺の愛しい俺の妻に甘えてこき使う先輩向いて、ゆるうく伸びてしまいましたわ」

 緑の目が、笑顔で謝罪した足蹴りの主に向かう。

「俺の俺のって所有格の主張がうるせえよ。しかも色々、日本語間違ってら。大体、俺のほうが身長あって脚も長いし。お前がそう連呼するんなら、真白は俺の従兄妹だ、俺の妹だぞ!」

 注釈を加えるなら妹であったのは前世の話だ。

 成瀬荒太が、胡散臭いものを見る目で剣護を見た。

「内容が矛盾しとるし――――あのですね。何でいるんですか、先輩。今回、俺は取材旅行を兼ねて、〝五行歌を嗜まれる、女流歌人の奥様も良ければご一緒に〟言う、編集部さんのご好意で真白さんと夫婦旅行するつもりやったのに。空気の綺麗なとこらしいから、真白さんの身体にもええやろ思うて」

「ざーんねんでした。俺も取材旅行ですうー。小説の。仕事だよ仕事、ざまあ!」

「……どうせまた、担当さんに無茶言うたんでしょ。目に浮かぶわ」

「でも、人数が多いのは楽しいね」

 にこやかに真白が言い、男たちは沈黙する。お互いに内心、こいつがいなければもっと良いのにと考えている。真白を独り占めしたいと言う思いは一つだ。

「真白さん。今晩、泊まる宿は雉鍋と川魚、山菜が美味しいって評判なんやで。……それで、美容効果のある温泉もあってな。――――眺めの良い混浴風呂があるそうや」

「絶対、入りませんから」

 つれない妻の言葉に、隣席に座る荒太が叱られた子犬の表情になる。

「――――…なんで?」

「混浴風呂ってことは、荒太君以外にも男の人たちがいるんだよ?解ってる?私は、夫である荒太君以外の男性に、肌を見られたくありません!荒太君一人でも入らないでね。他の女の人が裸でいるんだから!」

 盲点だったと言う顔の夫を、真白は軽く睨んだ。

「あ! あー。せやな。そらそや、うん。却下、却下。なら、内風呂で一緒に入ろう」

「う、うーん」

「ええやん!最近、だいぶ慣れて来たやろ?」

 にこにこと笑う夫に赤面した妻が唸る。

「う、ううーん」

「風呂風呂風呂風呂、うるせえな、この助兵衛がっ。そんなに入りたきゃ、俺が内風呂で一緒に入ってやるよ!」

 荒太が著しく眉を顰める。恐々と剣護から距離を取り、左手で真白の右手を握る。

「すんません。俺、そんな趣味は無いんで。妻もいますし」

「ちげーよ! 俺が真白とだよっ!!」

「出てけ」

「いや、ここ走行中の列車内だし」

 車窓を指差して告げた荒太に、剣護が尤もな反論をする。

「剣護先輩、常識に囚われてたらええ小説は書けませんよ。レッツ・フライ!」

「飛べるか、莫迦野郎」

「この際やから言わせてもらいますけど先輩、今書いてる連載小説の主人公とヒロイン、あれはなんや、あれは?」

「ええ~何があ~?」

 剣護が左手の小指で左耳をほじるポーズを取る。

「うっわ、ごっつ白々しいし! 緑の目の主人公に、白い肌、焦げ茶色の瞳と髪が印象的なヒロインってなんやねん! 誰がモデルか解りやす過ぎるわ、よう堂々とラブシーンとか書けるな、羞恥心が無いんかっ。お、俺の真白さんが、俺の真白さんが、何であんたとダンスしたり熱烈なキスを交わしたり挙句には、……あかん、これ以上、言いたない」

「あー、何のことだかさっぱり解らん。俺の作品はフィクションであり、緑の騎士とジョアンナはあくまで作中の登場人物であって、実在の人物とは一切関係ございません」

 その時、通路から控えめな咳払いが響いた。顔に苦渋を滲ませた車掌が立っている。

「――――お客様、大変申し訳ないのですが、もう少しお静かに願えますでしょうか。他のお客様のご迷惑にもなりますので……。壁を蹴るなどの乱暴行為も、控えていただければと」

「どうもすみません、申し訳ありませんでした。以後、注意します」

 恐縮して謝る真白の言葉と同時に、荒太と剣護も頭をペコペコ下げる。

「……ごめん、真白さん」

「しろ、悪かった」

「うん、良いよ。車内ではお行儀良くしようね」

「はい」

 異口同音に、男性二人が素直に頷く。

 成瀬真白はその様子を見て微笑んだ。焦げ茶色の瞳が和む。

 この旅の先に、過去に失われた愛しい存在との再会が待っていることを、彼女はまだ知らない。列車が進むにつれ、神の姉妹の邂逅もまた、近付いているのだとは。

 車窓の外には変わらない田園風景が続いている。もうすぐ目的の駅に着く。

 青空の下、広がる緑の中にポツンと白いものがある。中鷺だ。

 中鷺が飛んでいるのが見える。

 何かの天啓のように、白い鷺が。



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