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 黒板に並ぶ文字は、生徒が教師を品定めする基準の一つとなる。

 その点で、国語教師の渡辺定行(わたなべさだゆき)の書く文字は、生徒たちの合格基準を満たしていた。

 綺麗と称するよりは読みやすく解りやすく、バランスの取れた字体が好評だった。文章を書いている内に斜めにずれていくこともない。

「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしもしらじな 燃ゆる思ひを」

 チョークで板書したあと、和歌を詠み上げる声も朗らかで淀みない。

「これはねえ、百人一首の中でも僕の好きな歌だ。火傷しちゃいそうな、ちょっとドキドキする歌だよ。若い君たちには相応しいんじゃないかなあ。詠み手は藤原実方朝臣。彼はこの歌でこう訴えている。……この通りとだけでも伝えたいけれど、どうして言葉で表せるでしょう、とても言えはしません。反語だね。伊吹山のさしも草のように燃えているこの想いを。あなたはよもや、それ程とはご存じありますまい。…………どうだい?女の子なら、一度くらいこんな過激な台詞、言われてみたいんじゃないのかな?」

 真っ赤な髪の若い国語教師は、赤いフレームの奥の目を細め、にっこり笑う。フレームの奥の目の、更に奥。潜む薄い青に気付く者はそうそういない。ほとんどの人間が、まず鮮やかな赤い髪に目を奪われるからでもある。

 二年二組の女子の間からクスクスと照れたような笑いが起こる。

「〝えやはいぶき〟は〝えやは言ふ〟と〝伊吹山〟の〝伊吹〟をかける。〝いぶきのさしも草〟は同音の〝さしも〟を導き出す序詞(じょことば)だ。そして、僕は次がこの歌の一番のポイントだと思ってるんだけど、さしも草の〝もぐさ〟――――これはお灸に使うもぐさを作る(よもぎ)のことで、伊吹山の名産らしいんだ。まあ、このあたりにだってそこらじゅう、足元にわんさか生えてるけどね。その、お灸に使う〝もぐさ〟の縁語から〝燃ゆる思ひ(火)〟と結ぶ。解るかい? タンタタ、タン、と手早く始まり終わっちゃう、今風の恋愛とは、ちょっと事情が違った訳だ」

 さながら火のような、自身が燃えているような髪の色の定行は、嫌味の無い軽やかな口調で言葉を紡いでいく。

「――――身を焦がすような熱い、激しい恋が、当時の宮廷人の中にはあったんだね」

 それから定行は副詞や係助詞などの文法の説明を終えると、教室内を見回し、尋ねた。

「さて。四限目の授業はこれで終わるけど、最後に質問はあるかな?」

 はーい、と複数上がる声は、主に女子のものだった。

「じゃあ、寺内若菜子(てらうちわかなこ)さん」

 このクラスには寺内姓が三人いるので、名指しもフルネームで行われる。

「定行先生の髪は、地毛なんでしょうか?」

 無邪気でおっとりした質問に、教室全体から苦笑や失笑が洩れる。

 定行の端整な顔にも苦笑いが浮かんでいた。

「寺内さん。渡辺先生と呼ぼうね。先生の情熱を傾けた授業にノータッチな質問を、どうもありがとう。先生の髪は、嘘偽りなく地毛です。ローマにある真実の口に手を突っ込んで宣言しても良いですよ。何度黒く染めてもすぐ赤い地毛が浮いて来るので、校長先生、教頭先生、生活指導の高山先生のお三方も止むを得ず認めてくださいました。そう、空也さんの、綺麗な髪の毛の色と同じだね。突然変異という事象は、案外に自分の近くで起こるものだ。なので、寺内さんも皆も、寛容な目で僕らを見守ってくださいね」

「はーい、先生。もう一つ」

「何かな、工藤さん」

「先生もお、奥さんとの間にそおんな激しいラブがあったんですかあ?」

 ニヤニヤ笑いの工藤真美(くどうまみ)に定行はにっこり笑いかけた。

「これまた授業に関係ない質問が来たぞ。そうだね。それはそれは燃えるような、激しい恋愛をしましたよ。消防車でも追いつかなかったくらいです」

 盛大なのろけとしか聞こえない定行のこの発言にはクラス中が一斉に沸き、そこここで口笛の音が鳴った。

 授業が終わったあとも、定行の周囲には女生徒が集った。山奥の保守的な田舎の中学校で、赤い目立つ髪、それに合わせた洒落た赤いフレームの眼鏡をかけた端整な顔の国語教師は、性格が気さくで明るく、授業も解りやすいので学生たちに人気があった。気難しい顔をした大人連中に媚びることのない、風変りで身軽な言動も若者の好評を大いに博した。毎日の服装が他の教師たちと比べてどこか垢抜けているのも、彼の好感度を高めた要素の一つだ。主に群れるのは女子だが男子生徒からも彼は好かれており、時に思春期特有の相談事が寄せられた。密も彼のことが好きだった。

 ただ、先程の定行のやんわりと密を庇うような言葉のあとに、斜め後ろのほうから「空也のはどうだか判らないじゃんね」と言うボソリとした女子の声が聴こえ、背筋が冷たくなった。

「みっちゃん、今日も髪が綺麗ね! お昼食べる前に、梳いてあげるわ」

 にこやかに言ってブラシを取り出して来る寺内若菜子は、密が級友の中で唯一親友と呼べる存在だ。今の言葉も、密にあてこすりを言った女子に聴こえるよう、わざと大きな声で言ったように密には感じられた。彼女の存在は、二組の女子の中で孤立しそうな密にとって救いだった。

「ありがとう、若菜子ちゃん。若菜子ちゃんがいてくれて良かった」

「まあ。とっても嬉しい言葉だわ、みっちゃん」

 微笑む顔、肩のあたりでふわふわと揺れる髪。おっとりした言葉。そしてその中に秘められた過激な意思。

「――――変わらないのね、若菜子ちゃん」

「ええ、もちろん。私はいつでもみっちゃんが大好きよ」

 好意を語る瞳の奥には、薄い青。

 敬愛と憧れを、未だに抱いてくれる彼女に申し訳なくて、密は俯く。

 その琥珀色の髪に、若菜子が優しくブラシを当てた。


 放課後、帰宅してから隠れ処に向かった密を、渓が待っていた。

 泉に立つでも小岩に座るでもなく、後ろ手に改まった様子で小岩の先端に立ち、密を見ている。顔にはどこか読めない笑い。暮れる前の光を浴びる整った顔立ちに密は警戒する。

「渓。怖いし、何だか気味が悪いわ。一体今度は、何を企んでるの? 白状するまで、私はそっちには近付かないわよ?」

「ひどいな、密。僕は密に、贈り物があるだけなのに。密はそういうの好きだろう?」

「ロマンチックは大好きだけど、渓がそんな風に言うと怖いのよ。何? 何があるの?」

 渓が背中から密に差し出したのは、緑色の紙に包まれた一抱えもある蓬の束だった。

 バサ、と腕に受け取った瞬間、蓬の独特の芳香が立ち上る。

「密にあげるよ。僕の気持ち」

 密は思わず笑ってしまった。

「やだ、渓ったら。渡辺先生の授業、受けたんでしょう」

「そう。あいつ、教えるの上手いよね。意外な天職だよ」

「先生をそんな風に言っちゃダメだよ。でも、彼が国語教師だなんてね」

「奴に教えられるのは日本史か国語くらいだろ。大体、教員免許自体、正規の物を持ってるのか怪しいもんだよ」

「うーん。美術、技術に体育、家庭科なんかはどうかしら?」

「……どれもイメージじゃないな」

 渓が首をひねる。

「あ、書道!」

「技術だけは、そりゃあるかもね」

「倫理とか」

「一番、イメージじゃないって。だって本来の姿があれだったじゃないか。あいつが燃えるような恋愛を語るなんて洒落にならないよ。まさに燃やしてしまったじゃないか。火つけは大罪だよ、密」

 ブンブン、と激しく手を横に振った渓に、密が反論する。

「あら。でもそのあと、ちゃんと改心したわ。富さんとも再会出来たし」

 微笑む密に、渓が静かに異を唱える。

「――――しかし、お言葉ですが、神界の規律には反しています。長く続く生活ではありますまい」

「……やはり、そうなのかしら。どうにも、出来ないのかしら…………?」

 急激に曇った密の顔に、渓が慌てる。

 最近の罪滅ぼしの思いもあって、少年は少女を喜ばせる為に様々な仕掛けを施しておいたのだ。密のお気に召す、ロマンチックを。

「密、蓬の草だけじゃないよ。他にも色々ある。ほら、リボンを見て?」

 促され、密は蝶結びの形に蓬を束ねたリボンを見る。

「……リボンが赤だわ。燃えるような真紅。これは〝思ひ〟の〝火〟ね? 芸が細かいわ!」

 渓が微笑みながら言う。

「それだけじゃないよ。包んでる紙の色、表と裏を良く見てごらん?」

「え? ……表側は薄い緑。裏は濃い緑の紙。二重になってる。色合いが綺麗ね」

「そう。その色は昔で言う萌葱色(もえぎいろ)でね、平安時代の女性の衣の表裏の配色、(かさね)の色目の一種なんだ。……さて、何て呼ばれた色目だと思う?」

「もしかして――――?」

「そう。『蓬』だよ」

 渓は得意満面だ。密は蓬の束を抱き締めた。

 顔には輝く笑みが浮かんでいた。クスクスと笑ってしまう。

(私の蛇は、ずる賢くて、博識。知恵の実で誘惑するだけのことはある。――――――――――――ロマンチックで素敵な蛇!)

 蓬の香りごと渓にぶつかった。渓は危うく泉に落ちる手前で、密を抱き留める。

(あっぶな。このお姫様は――――……)

「素敵。渓、大好きっ!!」

「お褒めの言葉を頂戴出来て何より。でも密? 和歌と蓬の意味を忘れてもらっちゃ困るよ?」

「あ、燃えてるのよね。……焦がしながら、は、激しくね。うん、了解」

「〝あ〟、て」

 呆れて言ったあと、渓が密の顔を見てぷ、と噴き出した。

「密。密の顔までさしも草だ。燃えちゃって」

「渓が和歌の意味の念押しなんてするから……」

 密は眉尻を下げて、困った顔で渓を上目遣いに見上げる。

「うん。真っ赤で可愛いよ」

 ペロ、と顔を舐められた密は、場所を忘れてうっかり渓を突き飛ばし、彼を泉に落としてしまった。濡れついでに渓は結局、その日も密を泉に誘い込んだ。


 密と渓の通う中学校で、二年二組の空也密が「お姫様」的存在として男子に憧れているとすれば、渓と同じ二年五組の金髪碧眼のエリザベス・ヒュースは、「女王様」的存在として憧憬と崇拝の的だった。渓はそれなりに女生徒の受けが良いが、エリザベスからは大変冷淡な扱いを受けていた。「お前、何して女王を怒らせたんだよ」とクラスの男子にからかわれるくらいだ。からかった本人は、良い気味だと思っている。渓はげんなりした。反対に、エリザベスは密には出逢った当初から優しかった。

〝あの、初めまして、エリザベス〟

 委員会の集まりで初めて顔を合わせ、緊張して挨拶した密に、彼女は魅力的な笑顔で握手を求めながら言った。

〝初めまして、密。私のことは、どうかリズと呼んで欲しい。私はあなたと仲良くしたいと願ってる〟

〝ほ、ほんとに?〟

〝もちろん本当だ〟

 碧眼が優しく細められ、密は凛とした美少女の笑顔に見惚れてしまった。

 密はそれ以来、この物怖じしない堂々とした態度の金髪の少女に憧れ、すれ違う時には好意的な笑みと言葉を交わし合うようになった。二人の様子を見て、さすが姫と女王は仲が良い、と男子たちは噂し合った。揃って明るい髪色の、タイプの異なる美少女二人が睦まじく語らう光景は、男子生徒の憧れをますます喚起し、目の保養とされた。


 クラスに人が消えた放課後を見計らい、渓はエリザベスに声をかけた。

 彼女はまだ帰らず、自分の席で何やら熱心に本を読んでいた。

 教室の窓際に座る彼女の背後にはベージュの長いカーテンが風に大きく揺れている。窓から入る陽を浴び、流れる金髪をポニーテールにまとめて難しい表情で本に見入る美少女は、知的な雰囲気を漂わせて絵になる。渓は、密くらいセーラー服の似合う少女もいないと考えているが、エリザベスはセーラー服を着こなす以上に付き従えているかのようだ。

 だがそれは渓にはどうでも良いことだった。

「おい、エリザベス」

「気安く呼ぶな」

 本から顔も上げずに素っ気無く冷淡な返事が返る。

 しかも内容はやや異なるが、誠と似たような口調だ。

「……エリザベス様。何のご本をお読みでしょうか」

「『古事記』だ」

「イギリス人が?」

 渓は面食らって人種差別に抵触する失言をした。

 渓に向かったエリザベスの碧眼は当然、普段以上に冷たさを増して氷のようだ。

「〝彼を知り己を知れば百戦殆うからず〟。兵法の基本だろうが」

「ははあ、『孫子』ですか。恐れ入りました。で、何か奴に関して手がかりがございましたか?」

「その癇に障る物言いをやめろ。――――『古事記』には大したことは載っていない。姫様が口にされたと言う、その箇所で全てだ。『日本書紀』には国常立尊(くにとこたちのみこと)、そして国狭槌尊(くにさつちのみこと)が現れ、高天原にいる神の名を天御中主尊と言う、とあった。その点を鑑みるならば、必ずしも天之御中主が原初の神とは断言出来ない。近世には妙見信仰の中に関わりがあったようだが、文献を当たったところで得られるものは僅かなようだ。…………今、確実にはっきりしているのは、相手の神位の高さ、狙い、その二つ。そしてそのいずれもが厄介だ。現在になって姫様に執心し始めたのは、お坊ちゃまの気紛れか。何とも、頭の痛い話だ――――お蔭でお前なんぞとも口を利かねばならない」

 揺れるベージュの布の前に毅然と座る少女の身体からは、渓に対する紛れも無い憎悪の念が滲み出ていた。

「……私が許せぬか。金臣」

 ぎらり、と青い目が渓を睨みつける。並の男子では竦み上がって逃げ出しそうな目だ。

「愚問だ。極めて、愚問だ。それを私に問うこと自体、私を愚弄している。水臣。私はこの、目の前で、最愛のお方が散るのをただ見ていたのだぞ。……見ていることしか許されなかった。全てはお前の卑劣な企みのせいだ。肝に銘じておくが良い。我ら花守は皆、水臣。お前を憎んでいる。お前は我らから光を奪った。永久(とこしえ)の花を奪った。終生、許さない」

 吹く風を感じながら、渓は怒りに震える少女を見ていた。

 ――――憶えている。

〝共に逝かせて〟

〝なりません、姫様っ〟

 迫り来る悲嘆、在ってはならない悲嘆の予感に取り乱す金臣。

 常に凛々しく泰然としていた美女が、その後に上げた身を裂くような悲鳴。

 彼女は唯一、水臣と、彼を追った理の姫が散る様を看取った花守だ。

 水臣の目に金臣の悲嘆は映っていなかった。

 ひたすら理の姫の姿を目に焼き付け、彼女との来世での邂逅を夢見ながら死んだ。

「気の済むまで憎むが良い。……私にはそうされるだけの咎があり、お前たちにはそうするだけの権利がある。私は――――姫様をお守り出来ればそれで良い」

「本当に?」

 即座に苛烈な響きが返る。

 五組の入口に、寺内若菜子が立っていた。そのまま教室内に入ると、ピシャリと戸を閉める。若菜子は密に見せていたものとはまるで違う、皮肉な表情を浮かべていた。腕組みをして、顎を逸らせると挑発的な声音で続けた。

「殊勝な仮面を被ること。嘘おっしゃい、水臣。私はちゃあんと、姫様から色々聴いてるんだから」

「色々?」

「――――蛇」

 一言告げて、若菜子は渓を睨みつける。

「汚らわしいわ、あなた。よりによって、まだ姫様の恋人気取り? まだ十四であられる(いとけな)いあの方の、操を狙うだなんておぞましい。図々しいにも程があるわ。……みっちゃんが〝渓〟を語る時の表情のほとんどが幸福に満ちたものでなかったなら、天之御中主なんかよりまず、真っ先にあなたを排除してやるのに」

 渓は表情を変えずに、真っ向から若菜子のきつい視線を受け止めている。

 (そし)りは幾らでも受けるつもりだった。自分はそれだけのことをした。

「――――やめて、若菜子ちゃん。やめてちょうだい」

 若菜子が二年五組に張った結界に、柔らかい声が割り込んだ。懇願の響きを帯びたか弱い声が。

「……姫様」

 若菜子とエリザベスの顔に怯んだ表情が浮かぶ。密を捉えた両者の瞳から険が消える。

「水臣ばかりを悪く言わないで。私のこともちゃんと責めないと、じゃないとフェアじゃない、不公平だよ。私はあの時、あなたたちの悲しみを、思い遣らなかった。姉上様の優しさも踏みにじって、自分の責任も役割も全部投げ捨てて、自分の悲しみしか見えなかったの」

 苦しげに、涙を流しながら密は言葉を絞り出していた。

「良いのです、姫様、それ以上仰らなくてよろしいのです」

 若菜子が必死になってかける声に、密は目をギュッと閉じて頭を振り、言葉を続けた。

「…………水臣しか、見えなかった。罪は私も負うべきだわ。でも、やっぱり今生でも渓といたいの、一緒にいたいの、ずっといたいの…………」

 泣く密の肩に、右から若菜子が手を添える。左からエリザベスが手を添えた。

 だが密は庇護しようとする空気を抜け、顔を手で覆ったまま渓に向かう。渓の手は、自然と彼女を迎え入れようとして動いた。

(――――ああ。これもまた私の罪か)

 花守からさえ密を遠ざけてしまう自分の存在。それに満足する心。

「渓が好きなの。渓が好きなの。渓が好きなの、ごめんなさい、」

 渓はそれまでの誰に責められた時より、辛そうな表情になった。

 生徒の上履きとは違う、固い革靴の音が鳴る。

「謝る必要はありません。姫様に罪があるとしても、あなたに罪を犯させたのは、やっぱり水臣でしょう。姫様に殉じなかった僕であっても、いや、殉じることの出来なかった僕だからこそ、彼の行為を認めることは出来ない」

 赤い髪の国語教師は、静かな顔でそう言った。

「明臣……」

「君はどう思う、黒臣?」

 定行が視線を遠い先に向けて訊く。

 吾妻誠が、教室の後ろ側の黒板の前に佇んでいた。黒板の上には、五組の生徒が書道の授業で挙げた成果が貼り付けられ並んでいる。誠は両手を生徒の鞄置きの棚の上に、大きく広げて乗せ寄りかかっている。詰襟の黒い学生服は、彼の纏う禁欲的な空気にとても似合う。

 密が縋るような目を誠に向けた。

 その目を受け止めた彼の瞳の奥にも、やはり薄い青はあった。

 全員の視線の集中を浴び、彼は口を開いた。

「……俺はただ、姫様の幸いを思う」



「渓」

 日暮れ時、泉に足半分だけを浸して地面に座る渓は、どこか悄然としているようだった。

 密の呼びかけに、緩やかに顔を上げる。

 白いブラウスの下の、風に揺れる緑のスカートを見て、相変わらず丈が短いなと思う。

 すんなりと白く眩しいような脚を見せつけるのは、自分に対してだけにして欲しいものだ。

 しかしそのスカートの色は。

(……さしも草の色だ。わざと、選んでくれたのかな)

 我が儘なようでいて、思い遣り深いこの少女は。

〝追いつけなくても、ちゃんと届いているわよ〟

 そう告げる、密の声が聴こえる気がする。

「……落ち込んでるの」

「密。こんな僕でも、自分が嫌になる時はあるんだよ。花守連中の言葉はそれぞれ堪えたけど、中でも黒臣のは格別だったな」

 飼育小屋の前で渓を罵りはしたものの、いざ意見を求められた際には密の幸福を最優先事項と言い切った。

〝今は私怨を忘れてでも、花守総出で姫様をお守りせねばなるまい〟

(言葉通りだ。あいつは昔から第一義が揺るがない。土の属性は伊達ではないな)

 どっしりと構えた大地を彷彿とさせる気性は、昔から水臣には堅苦しく息苦しく、自分にはどう足掻いても持てない強さを備えているようで、煩わしかった。

 花守には木、火、土、金、水、の性質に則り、相性がある。

 土剋水(どこくすい)。土は水を濁し、討ち滅ぼす。

 花守の中で黒臣だけが、水臣を殺す力を備えている。水臣には逆に、火の性質の明臣を死に追い遣ることが可能だ。

 黒臣には関係性からして既に負けている。苦手意識を持っても無理ないだろう。

 ねぐらに向かうのか、飛んで行く烏の数を目で数えながら、渓が尋ねる。

「密は黒臣が好きだろう?」

「好きよ。でもね、渓。この世とあの世のどこを探しても、あなたより好きな人は私にはいないわ。渓が私の、一番の騎士(ナイト)よ」

 烏に逃げていた目線を、少女に合わせる。

 密は真剣な顔だった。

「不思議だね。密は僕がへこんでる時、一番に欲しい言葉をくれる。とびっきり、僕に優しくなる。僕はどんどん、密に溺れて逃げられなくなるんだ…………」

 密が不思議そうな表情になる。

「おかしなことを言うのね、渓? 逃げられないのは、私のほうじゃなかったの? 一体どっちが本当なの? 頭がこんがらがって来ちゃったわ」

「どっちもだよ、密。どっちも本当だ。騙し絵みたいに。互いに見える絵が違うだけで」

 そこで渓は言葉を切り、自分の横にチョコンとしゃがみこんでいた密を見て黙った。

「渓は、私から天之御中主のことを聞いてからずっと、元気が無かったわね……。隠そうとして無理してたけど」

 慰めるように言いながら、密は渓の顔を澄んだ瞳で覗き込む。

(その純粋さが、優しさが命取りだと、誰もあなたに教えなかったのか)

 慈愛の空気に触れながらも邪な渓の目は彼女の唇と、今にも豊かになろうとする胸元に向かう。

(――――どっちが柔らかいだろう。にしても無防備だな……)

 それともこれは、襲われることなどないという、信頼の証ととるべきか。

 渓の中で蛇が鎌首をもたげる。

「密は僕が油断のならない男だって事実、すぐに忘れるね」

「え?」

 渓が無造作に右腕を動かしただけで、密は簡単に下草の上に仰向けになった。

 足を水に浸したまま、渓の身体がその上にある。上から、密の顔を睥睨する。

 密は何も言わず、大きな目を怯えの為にもっと見開いて、自分の上にある渓の顔を凝視していた。今の流れでどうしてこうなるのか、彼女には理解出来なかった。

 蛇は常に蛇であるのだと、まだ解っていない。

 一瞬、胸のふくらみに渓の手が向かいかけるが、気が変わって密の口の上から、覆い被さるようにキスをした。密が少しだけホッとしたのが判った。

 まだ大丈夫、まだこれは馴染んだものだと。安全圏にいる者の安堵。

「…………」

 それが癪で、再び渓は舌を忍ばせた。また嫌がって、もがけば良い。力で勝てる筈ないのだから。

〝さしも知らじな〟

(どこまでも貪ってやる――――!)

 燃えてしまえば良い。渓の火が密に燃え移り、二人諸共に燃えれば良いのだ。

(あなたが未だ、御存じでないと言うのなら)

〝さしも知らじな〟

(姫様……)

 燃ゆる思ひを。

 密の身体が身動きする。柔らかい身体のあちこちが当たり、渓は刺激される一方だ。

 自分の舌に密のそれが寄り添ったのを感じた時、渓は驚いた。

(――――……抵抗しない?と、言うより)

 この反応は。

 悦びだ。密は今、悦びを感じている。

 渓が盗み見た密の目は霞がかかったように潤んでいた。

 対して蛇の目はこのチャンスを逃すまいと小ずるく光った。

 そのまま彼女の舌と舌を絡ませ合いながら、渓は密の着ていた白い半袖ブラウスのリボンを解いた。ボタンを外す。一つ。二つ。三つ―――――――。

 真っ赤に熱い頭の中で渓は抑え切れない興奮と共に考えていた。

 このまま天使は堕ちるのだろうか。純白のその羽がついに?

 密が渓の両頬を手で挟んだ。

 彼女は今、蛇を求め、欲していた。食事をねだるようにピンク色の唇を開け、来て欲しいと蛇を呼んでいる。蛇はそれに忠実に応えた。密の頬の裏側、歯の付け根、歯茎の裏を這い回り、密の舌に吸いついた。密の舌が喜んで応える。

(……密…)

 しばらくして唇から移動した蛇が少女の白いふくらみに這う。

 求める少女に求められる歓喜を渓は知った。

 

 密の意識はそのころ、ふわふわと花園の上を漂っていた。

 淡く優しく甘いピンクに、密はうっとりとなる。

 気付けば背中に羽があった。

 密は飛んだ。行ける限りの果て、花園の果てまで。

 しかしこの花園には果てが無い。終わりが見えない。

 広がりは無限のようだ。


(ああ、何だかとても気持ちが良い。酔っ払ったみたく、ふわふわしてるわ。でも足りない。渓。まだ足りないわ――――……あれ。ええっと。何がだっけ?)

 自分は今、何をしているのだった?

「……ん……」

 密は濡れた女の声にギクリとした。

(何、今の声)

 嫌らしい声。「女」の声だわ。性の悦楽に酔った声。

 汚らわしい。汚らわしい。不届きな。追い出さなければ。一体どこに?

 とても近くで聴こえたように思えたけど。そう、まるで。

 まるで自分の口から出たような――――――――。

 我に返ると、左胸の上に渓の頭があった。妙な感覚がある。噛まれるような、吸いつかれるような。痛い――――いや、心地好い?――――嘘だ。

 いつの間にかブラウスのリボンもボタンも外されて、下着が露わに覗いている。更にその下の、肌、左部分がもろに空気に晒されてひどく涼しい。その上に、渓の頭が動く。

 蠢く蛇。それを受け容れている自分。

 ――――何てふしだらなの。許せない。

(何してるの、渓。何してるのよ!)

 憤りと羞恥で、密の頭の中がスパークした。

「いやあっ」

 眩い光が弾け、渓はしばらく何も見えなかった。身体全体にビリビリと痺れが走っている。女神の逆鱗に触れた報いを受けたのだと、即座に呑み込む。

 ようやく視界が利くようになると、上半身がほぼ下着と素肌だけの密が身体を震わせて立っていた。さしも草の色が、風を受けて翻る。今現在、密が陥っている混乱を渓は正確に理解していた。

「渓――――私、私――――?」

「密、君が悪いんじゃない。そういう時期で、そういう衝動があるのは普通なんだ」

「そういう、そういうって、い、嫌らしい。嫌らしい女になっちゃったんだわ、私。どうしよう、どうしよう、渓。私は汚れてしまったの?」

「密は世界で一番清らかな存在だ。今回はちょっと、僕の計算外だった。正直言うと嬉しい誤算だけど。ああ、余計なことを言った。忘れて。とにかく密、僕が言うのも何だけど」

「何?」

「下着を戻して、ブラウスのボタンとリボンを留めて」

 密は慌てふためいた手つきで渓の要請に従った。

 その後、密はがっくりと座り込んだ。琥珀色の髪が垂れ下がり、衝撃の余り顔面蒼白だ。震える右手で口を覆う。

 水から上がった渓がすぐ隣にひざまづくが拒まれはしなかった。

(あの「女」は私だった。あの「女」は私だった。あ、あんな声を、淫らな声を私が出したの?本当に? ああ、若菜子ちゃん、リズ、嘘だと言ってちょうだい)

 密は渓ではなく、自分自身にショックを受けていた。自分に裏切られた気分だった。

「――――渓。私は堕ちちゃったの?」

「いや。残念ながらまだだ。惜しかったので、僕は残念に思ってる」

「嘘」

「本当」

「こ、怖いよう。怖いよう、渓。天之御中主より渓より、私は私のことが怖くて堪らない…」

 少女は泣きじゃくり、あたりには薄闇が漂い始めていた。渓は項垂れた頭を撫で、琥珀の髪の毛を手で梳いてやった。

「密、大丈夫、怖がらなくて良い。誰も君を軽蔑はしない。保証する。今日は甘い飲み物でも飲んで、早めにベッドにお入り。ゆっくり眠って、良い夢を見るんだ」

「け、渓は?」

 この質問の意図が解らず、渓はきょとんとした。

「……え? 僕?」

「渓は、一緒にいてくれないの? 同じお布団で、寝てくれないの? ねえ、今日は家にお泊まりしてよう。一緒に眠ろうよう」

「…………」

 渓は頭を抱え込んで沈没した。

(どうしてそう言動が〝とんちき〟なんだ――――混乱してるとは言え)

 密は渓に添い寝を望んでいるのだ。親のような守りを。

 すなわち、密と同じ布団に横たわり、彼女の身体の感触を真横に感じながら、子守唄でも歌い、そのまま寝入れと要求する。

(……拷問だよな? 僕に苦痛を味わいながら徹夜しろと言ってるも同じだ)

 どういう発言を、誰相手にしている、しかもさっきの今だぞ、と渓の中で叫び声が駆け巡った。

(落ち着け。深呼吸だ。……天使発言には慣れてるだろう)

「あのね、密。僕と同じベッドで寝たら、蛇に丸呑みにされる、……夢を見るからやめといたが良い。ウサギさんのぬいぐるみを抱いて寝なさい」

「ラビちゃん?」

「そう。ラビちゃんを抱っこして眠りなさい」

 それでも密は、眉根を寄せ、駄々をこねるように渓を詰った。

「ひどいわ、渓。薄情だわ、冷たいわよ。渓は私のことが嫌いなんだわ……」

(どこがだっ、どっちがだっ、誰がだっ!?)

 理不尽な言いがかりに渓の握り拳は震えるようだった。

 渓は拗ねた密を伴い、いつも以上に疲れた心持ちで隠れ処をあとにした。

 この姫君の相手は、時々、異常に渓を疲弊させるのだ。

 けれど彼の胸は不埒な確信にときめいてもいた。

 天使が堕ちる日は、遠くない――――――――。



 銀色の双眼を光らせ、彼は極めて不愉快な思いで宙に浮いていた。

 周囲に在るのは満天の星々。

 漆黒に浮かぶ金、銀、青、赤、とりどりの色。

「なあ、爺よ。光の姫は私の物である筈よな?」

 同じく宙に佇み、脇に控える銀灰色の老人が答える。

「いかにも、その通りでございます、若。彼のお方と若は許嫁同士。麗しき一対にして比翼の鳥、連理の枝ともなられるべきお二方でおられます」

 そう、それが道理だ、と天之御中主神は頷く。

「したが、姫に触れる下賤の男がおる。姫もまた、それを拒まぬ。いずれは私の伴侶となるべき光の方は、どうやら火遊びがお好きらしい。ふん、光ゆえにと言うところか? 私は寛大な未来の夫として、どこまで許して差し上げれば良いのであろうな? 無垢なあの方に対し、悦楽に酩酊するを教えて差し上げるのは、夫となるこの私の役割。そうあるべきではないのか?」

 恭しく、老人は拝礼する。

「若。若こそは至高の君。神界に最も長く君臨せらる、最高神であらせられます。いかに相手が光の姫君様であられようと、ここは譲られてはならぬ一線かと爺めは考えます。姫様に傷がつかぬ内に、厳然と対処なされますよう――――――――すなわち」

 天之御中主が横目で忠実な臣下を見遣る。酷薄な銀の色が光る。

「水臣。あの間男の排除か」

「左様でございます」

「ふむ。ああ、このような時は至高神と言う立場が邪魔臭いな。私には凡俗共には考えもつかないような仕事が多い。世のバランスを保つ為、常に仕事に追われているのだ。人間は、あの、栄養ドリンク? とやら申すのか、あれで仕事の疲れを取るとも聞くが、真であろうか。私とて疲労は感じるのだぞ、爺」

「お察し申し上げまする。若は実に、お忙しき御身でおられますれば」

 天之御中主は何度も頷く。そのたびに豊かな銀髪が揺れる。

「そう、そう。そなたぐらいだよ、私に同情し、労わってくれるのは。花守たちまで結託して私に刃向おうとする。愚かだ……実に嘆かわしい話だ。仮にも神の端くれが、あの水臣はちょっと別に置いといてだぞ、この私に敵対せんとする。本来なら進んで私と姫の仲を取り持つ立場ではないのか。分別が成っていないのだ、あれらは」

「…………は」

「いかがした、爺」

 銀灰色が、重い口を開く。

「一つ、懸念致しておりますことが」

「ん、何だ。申してみよ」

「――――雪の御方様が、動かれねば良いのですが。情に厚いご気性と伺っております。妹君の嘆きをお知りになれば、放っておかれるとはとても思えませぬ」

 耳にした名前に、天之御中主神が盛大に顔を顰めた。

「……おっと。ふむ、あのお方か。姫の姉上であったな。確かに、雪の御方様に出て来られると些か、ことは面倒になる。卑賤の人間を連れ添いに選んだとは言え、神族は神族。神位の高さも厄介なら、我が許嫁の姉上であられるお立場も厄介だ。ええと、今の人の世での御名は何と仰せられた、爺?」

 銀灰色の老人が、懐から和綴じの本をヒョイと取り出してパラパラめくる。

「――――む、ございました。これですな。成瀬……、〝成瀬真白〟様と言うお名前でいらっしゃいます。御夫君の名が〝成瀬荒太〟どの」

 うるさそうに、天之御中主の手がひらひら動く。

「人間の亭主の名前なぞどうでも良いわ。爺のアドレス帳は便利で良いな」

「恐れ入りましてございます」

 銀色の瞳が物憂く動く。

 宇宙の壮大な眺めの中にふわりと浮いて、彼は思案を巡らせた。

「成瀬真白様か。うーん。前生での経緯ゆえ、姫から助けを求めることは考えにくいが……。勘付かれる前に、あれやこれやと終わらせておくとするかな」

「御意」



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