四
翌日の日曜日。
渓は企みを秘めた笑顔で、いつものように密を誘った。
「おいで、密」
上半身に着ていたシャツは脱ぎ捨て、麻のゆったりとしたズボンを清水に浸し、少女に手を伸ばす。透明な水の中で、少年の足を小魚がつつく。ユラユラと揺れる水草がなぜる。
水の中で細かい光が躍る。
けれどその光ではとうてい渓には足りないのだ。彼の求める光は今、小岩にしゃがみ、澄んだ瞳で窺うようにこちらを見ている。小さく臆病な、愛すべき生き物。
毒見を済ませたあとの食べ物を見せるように、泉と、その中に立つ自分の安全性を渓は強調する。にこやかに、白い歯を見せて。もちろん今の渓は、密に対する危険な思惑に満ちている。爽やかな笑顔も、いつも以上に優しい呼び声も彼女の為に準備された罠だ。
「僕と水が受け止めてあげるから。怖くないだろう?」
渓も水も、密を傷つけ、損なうことなどなかった。
――――昨日までは。
渓が蛇であることを、密は知ってしまった。清らな顔をした蛇。
あわよくば自分を、どこか怖いところへ引っ張り込もうとしている、その狡猾さ。
そして、渓は密に恋していたということを。物心ついた時からずっと、恋愛感情を持っていたと言う。その事実は密に、嬉しさより先に恐怖を感じさせた。
密は渓の唇を恐ろしいと思うようになった。渓に手を舐められた時、頭に点灯した赤がもっと熱く、激しくなったら、密は自分の知らない自分になってしまう。考えるだに恥ずかしいような「女」という生き物になってしまう。渓はそれを望んでいる。
今の密と渓は、さながらイヴと蛇だった。
(でも本当は渓はアダムに、「男」になりたいんだわ。だから私を「女」にしようとして、今は蛇でいるの。渓は、そういう意味で、私のことが欲しいの。そのくらい、私にだって解ってる。けど私たち、まだ十四歳じゃない。恥ずかしい。恥ずかしいわよ。私が抵抗感や反発を感じたって、ちっともおかしくない筈だわ。渓は昔から早熟過ぎるのよ……)
結婚式への憧れをまくしたてたのは、本音も入った、密なりの渓に対する精一杯の牽制だった。
琥珀の髪を風に揺らし、少女は少年を見る。
(愛してるだなんて)
彼は本気で言っていたのだろうか。まだ信じられない。大人でさえそうそう使わない台詞だ。下手に囁けば空々しさが浮き彫りになる。
しかし泉に立ち、自分を呼ぶ少年は美しい。
(渓って綺麗……。肌が滑らかで、全体の均整がとれてて)
美術の教科書に載っていた、ミケランジェロの生み出したピエタ像のキリストを、密は思い出す。だが渓は企むキリストだ。何より、蛇だ。秘め事を、胸に抱く。
(あなたのその泉に、知恵の実があるの? 禁断の果実をかじらせようと私を呼ぶの?)
「密――――」
ついに密は、その秘め事を抱く胸目がけて身を躍らせた。少年の罠に落ちた。
ミントグリーンのブラウスと、オレンジのショートパンツが降って来る。
渓の腕はしっかりと愛しい少女の身体を抱き留めた。バシャン、と大きく水音が響き、二人は頭から濡れるがいつものことだ。驚いた小魚たちが水中で逃げ惑う。細かい銀色が右往左往している。
「……焦らせるよね。僕の天使。僕の女神は」
「渓はすぐ、渓はすぐ、そんなことを言うのね」
「そんなこと?」
「愛してるなんて、本気で言ったの?」
「心外だな。本気に聴こえなかったの?」
「……すごく本気に聴こえたわ。だから私は、逃げられなくて困ってるの」
渓が空に向かい、楽しそうな笑い声を上げた。
密の両頬に手を添え、目を覗き込む。
蛇は微笑んだ。
「莫迦だね、密。逃がさないよ」
そうして密が〝結婚式まで〟許さないと宣言した唇は、その翌日に呆気なく奪われた。
抗う密を力で封じて、渓は中々唇を離そうとしなかった。
まるで密を罰するようなしつこさだった。逃れようとする密の身動きで清水がバチャバチャと波打つ。その内、口の中に初めて侵入した渓の舌の感触に密は気が動転し、一層、激しくもがいた。密はゾッとしたがそれは不快感ではなく、渓の舌に悦びを感じ、進んで迎え入れようとした自分の内面に対して感じた恐怖だった。
(禁断の実。禁断の実だわ、渓の舌がそうだったの?蛇と実は同一だった。何てこと。これを受け容れてはいけなかったのに。やっぱり私を騙したのね、渓。蛇。ひどい、ひどい人――――――――!)
またもや頭に点灯した赤を、これ以上大きくなる前に消さなければならない。
渓の思うようにはさせない。
邪な赤。淫らな赤を、毅然としてはねつけなければ。
懸命な少女の力を、少年は歯牙にもかけない。その代わり、牙は彼女自身を襲った。口の中も、そして頭の中も渓によって掻き乱されて滅茶苦茶になり、密は訳が解らなくなった。一匹の美しくずる賢い蛇が、密の口で勝手気儘にのさばり、乱暴の限りを尽くした。
陽光が哀れな少女に降り注ぎ、少年に思う様奪われる姿を見守っていた。
裏森に棲む野鳥たちは密の心も知らず、今日も平和に囀っている。
世界は残酷だった。密の心とは関わりの遠いところで、円滑に運営される。
散々に口中を蛇によって蹂躙された密が諦めて大人しくなったころ、ようやく唇は解放された。そのころには、何とかして抗おうと力を籠めた両腕も自由になったが、渓に掴まれていた箇所には鈍い痺れが残った。
それまでの強引さが嘘のように渓はとても慎重に唇を離し、そっと密の口から舌を引き抜いた。一筋の唾液が金色の糸を引いて光る。密が恥じ入るように、急いでそれを拭う。
「…………」
真っ赤な顔の密は、渓の予想に反して泣きも怒りもしなかった。
茫然とした表情で震える指を自分の唇に当てると、まるで蛇の這ったあとを確認するように、何度も何度も端から端へと行き来させた。密は震える指を自分の口の中にも伸ばそうとしたが、途中で思い留まり、代わりに拳を握って下に降ろした。その拳もまた、細かく震えていた。
反逆者の渓は、天使の様子を窺った。
――――――――まだ彼女は堕ちていない。
(……あんなに食べさせたのに、な)
無念と安堵の両方の色が、渓の目に宿る。
次に密が発した一言は、渓の胸に鋭く刺さった。
「裏切り者」
「………密、……」
「キスのことじゃないわ。――――愛してるの?」
唐突な問いに、渓はすぐ真顔で答えた。
「愛してるよ」
「嘘」
「嘘じゃない。……君だってもう、それに気付いてる」
「嘘って言ってよ、渓」
「言えない。ごめんね」
渓の謝罪の理由を、密も渓も解っていた。
渓が密を愛することは、密を楽園から追放させる。
少女はもう、花園で夢見ることが出来なくなる。
行く手に待ち受けるのは、過酷な外界だ。
密の愛した世界が、慈しみと優しい微睡みで構成された世界が、根こそぎ奪われる。
密はよろめきながら、白い素足で荒野へと追われなければならない。
数多の傷を彼女は負うことになるだろう。白い肌を血が伝うだろう。
泉の水が優しく足にまとわりついても、密は許すことが出来なかった。
「――――ひどいわ、渓。あなたに何の権利があって、私から取り上げるの?」
茫然とした瞳のまま密が呟いた、その非難は妥当だと渓も感じた。
「……密。僕が君を愛することで、君は楽園にいられなくなるだろう。灼熱の大地も、極寒の雪原も、木苺とは比較にならない棘も、……人の真の醜悪さも、知ることになる。君は大人にならざるを得なくなる。解ってる。全部、僕のせいだ。でも君の手には、僕が残る。僕は永遠に密のものだからだ。……それで僕を、許してはくれない?密」
楽園と引き換えに密に差し出せる物を、渓は自分自身しか持たない。
「僕の全部を、君に捧げるよ」
「……ひどいわ、渓」
密はもう一度呟いた。
それからのろのろと泉から自力で上がり、地面に立つと泉の中の渓を見下ろした。
薄暗がりの中、差し込む光を浴びた密はやはり綺麗で、物言いたげに睨まれている渓は、女神の不興を買った崇拝者の気分だった。魅入られたように目を細め、女神を見つめる。
彼女の口の中は極上に甘かった。とろけるような甘さを、渓は夢中になって貪らずにはいられなかった。企みも忘れ、快楽で頭がクラクラした。密の心情を、あの時思い遣っていたとはとても言えない。一瞬、密の舌も渓に応えようと動いたかに思えたのは、気のせいだったのだろう。
(それでも愛しているんだ。密――――)
そして女神は身を翻し、それ以上何も言わずに渓を置いて聖域から去った。
その後一週間、密は裏森の隠れ処に姿を現さなかった。
渓は狂いそうな気分で、身を焦がすように時を過ごした。
密が隠れ処に来なくなって五日目になる週末の金曜日、渓は飼育小屋の掃除に向かっていた。回避不能な当番制とは言え、動物が大嫌いな彼には苦痛な作業だった。
手早く終わらせるに限る、と学校敷地の角にある目的地に着くと、そこには先客がいた。
制服のズボンのポケットに両手を突っ込んで、吾妻誠が兎小屋の中を見ている。
小屋の中では白い兎がモソモソと、誰かが差し入れたのだろうキャベツの葉を食べていた。薄汚れた白い毛をした兎の赤い目は全く誠を見向きもせず、愛想の欠片も無い。
特に誠自身が餌をやる訳でもないようだが、彼の目元に漂う空気は和んでいた。
(あれがあんな生き物にくれてやる視線かよ。無頼は弱者に優しいってか?)
渓は鼻で笑う思いで小屋に近寄った。
「吾妻」
渓の気配には気付いていたようで、誠はゆっくり振り向いた。
「そんなに動物が好きなら、掃除当番を代わってやろうか? 存分に癒されろよ」
誠の顔に極めて不快な色が走る。
「怠けるな。自分の仕事だろうが」
「ああ、そう。密以外の人間の仕事の肩代わりはしない、と。じゃあさっさと退けよ。邪魔だから」
「気安く呼び捨てにするな――――解っているのか、お前」
険しい声に、小屋の鍵を開けようとしていた渓の手が止まる。
「自分の犯した大罪が?」
渓の表情は変わらない。
「姫様を死に追い遣ったのはお前だ。水臣。我らを裏切り、あのお方を裏切り、独断で死のうとしたお前の愚行が、理の姫様までをも貶めてしまった。光に満ちたあの方が、神界において使命を放棄したと言う汚名を着せられたのだ。――――そしてお前は、未だのうのうと姫様の傍に居座っている。……この、恥知らずめ」
憎しみに満ちた、吐き捨てるような口調で罵られても、渓の表情は変わらないままだった。兎小屋の鍵を開けると、誠を無視して箒を動かして掃除を始めた。たむろしていた数羽の兎は慣れたものでノソリ、ノソリと鈍い動きで箒の動きから距離を取る。元々動物は嫌いだが、この飼育小屋の兎たちは人馴れし過ぎている上に態度が厚かましく、太り過ぎだと渓は思う。〝兎のパイ〟と言う献立を頭に思い浮かべる。密は喜ぶだろうか、いや、泣くなと結論づけてその妄想を却下した。兎の食べ残しや生徒が勝手に与えたパン屑、糞の転がる地面を掃くことで上がる土埃に、渓は顔を顰めた。その上、この独特の獣臭さと来たら。兎小屋の横のアヒル小屋、更にその横の鶏小屋にもそれぞれ掃除当番が中に入り、バサバサと羽を動かす彼らと格闘しながら掃除に励んでいるようだ。先程からそれら鳥たちの鳴き声が耳に喧しくて仕方がない。渓は真面目に掃除する生徒に感心すると同時に、あっちよりはまだマシだな、と余り褒められたものではない比較法で自分の境遇を慰めた。
(もしこれが密の飼育だったら喜んでするのに……。小屋にいるのが密だったら、兎なんかより断然愛らしいに決まってるんだから。他の奴らはどうしてそこに思い至らないんだろう。間が抜けてるよな。身近な生き物の真価を測り間違えてる。小屋に座る密は僕の姿を見ると駆け寄って、〝渓、渓〟って甘えた声で木苺の食事をねだるんだ。それで耳の後ろを撫でてやると、気持ち良さそうに目をうっとり細める。――――うん、良いな。すごく良い! さしずめ僕は〝密の飼育係〟だ。素晴らしいじゃないか)
渓は現実逃避し、好き勝手な空想の世界を繰り広げた。
「銀色の子供を警戒しろ」
空想を破る低音の、誠が口にした不意の忠告に彼は顔を上げる。
「何?」
「姫様のおられる場所の結界を、今まで以上に強化しておけ。厄介な存在が動いている」
苦々しい顔で続ける誠の顔を、渓も真剣な表情で見据える。
「厄介な存在? 銀色の子供とは何だ」
「……形ばかりの姫様の許嫁の神だが、どうやら思った以上に姫様に執心している。神位の高さは俺やお前とは比ぶべくも無い――――最高位と言っても差し支えないだろう。今は私怨を忘れてでも、花守総出で姫様をお守りせねばなるまい。良いか。くれぐれも用心しろ。理の姫様から目を離すな」
鋭い眼を光らせて言うだけ言うと、誠は飼育小屋から遠ざかった。
日曜の夕暮れ、小岩に腰掛けていた渓は、ふ、と差した影に顔を上向けた。
静かな表情の密が立っていた。可憐な水色のワンピースを着ている。
密は本当はピンクより水色が一番好きだ。昔から、水の色が。
「密…………」
夕日の沈む前、地上に投げかける輝きの中、彼女は美しかった。
サワサワ、と心地好い風が吹き、藪椿や椎の樹の葉を揺らした。
「私を待っていたの?」
「うん。僕は他には誰も待たない」
「ずっと? ……月曜も、火曜も、水曜も、木曜も、金曜も、土曜も、……今日も?」
「うん。知ってただろう? 密は」
「どうして?」
琥珀色の髪が斜めに傾く。
その髪に指を絡ませたい、触れたい、と渓は思った。髪に、肩に、頬に、唇に。
「だって密もここに来てた。……木陰に紛れて、僕には会ってくれなかっただけで」
「――――うん。そっか。ばれてたんだ……」
「当たり前だよ。密が僕に隠し事なんか出来っこない」
渓の声には誇らしげな響きがあった。
密が手を後ろに組んで、足元の小石をチョンと蹴る。いつも通りの白い素足で。指に乗っかる小さなピンク色の爪もいつも通り。渓を魅惑する。
その顔には満足そうな微笑が浮かんでいた。
「密」
「なあに?」
「僕を許してくれるの?」
密が、立ち上がりながら尋ねた渓の顔を見る。少女の表情を、渓は読み取れないでいた。
天使の唇が動く。
「色々ね、考えてみたの。違う。考えてみよう、って思ったの。難しい問題でも。でもね、考えようとすると、渓との間の思い出が、洪水みたいに溢れて止まらなくなって。結局私、この一週間、記憶のアルバムをめくってばっかりだったわ。あんなことがあった、こんなこともあったって。アルバムにはどれも幸せな記憶ばかりで、私、気がつけば何度も笑ってた。それで、渓も一緒にいてくれたら、笑ってくれたらどんなに嬉しいだろう、ってそう思った。……許すとか許さないとか言う考え、ちっともまとまらなかったわ。それでね、それがつまり私の結論なのよ、水臣」
渓は神妙な顔で密の言葉を聞いていたが、最後の呼びかけには目を見張った。
「……え?……密、……」
密は少し悪戯っぽい笑いを唇に刻んでいる。
渓の顔はポカンとしていた。
「――――いつからですか」
「あなたに初めてくちづけされた、十歳の時から、少しずつ。あなたの唇は確かに、私の記憶の水面を揺らした。……乱した」
密が拗ねた少女の顔を装い、渓を軽く睨む。
「渓がおませさんだから、いけないのよ?」
「姫様」
「……それでも初めは、思い出してはすぐに忘れた。不安定なものだった。水に浮かぶ泡のように。記憶を固定して、密でいられるようになったのは、ごく最近。……いつも同じだ、水臣。いつもあなたが、私の存在の根幹の、鍵を握っている。どうして許さずにいられる? 私を支配しているのは、渓。あなたなのに。泉から呼ぶあなたに私が抗えないのも道理だ。私は水を、あなたを追って、あなたが恋しくて、……散ったのだから」
「……姫様。私は前生においても罪を犯しました。許されざる。あなたを自分のものとせんが為に、傲慢にも自死を図り、あなたを陥れ、貶め――――――――」
言い募る渓の唇を密が甘く封じた。背の高い少年の為に、少女は背伸びして唇を与えた。
柔らかい感触は、ずっと渓が餓えていたものだった。
途中からは渓のほうが積極的に求めた。餓えていたぶん、乾いていたぶん、潤いを飲み干そうとするように。求められるままに密は与えた。
少年が欲するまま、甘美な恵みをもたらした。
渓がようやく唇を離して息を吐いた時、密は優しい表情を湛えていた。
「そう。渓。あなた、私を愛しているわ。前も、愛してくれていたわね。他の人にはとても出来ない、桁違いの強さで。深さで。何もかもを知った上で、私は渓にお願いしたいの。ずっと私を好きでいて。愛していて――――私もきっとすぐ、あなたに追いついて見せるから」
渓は密を抱き締めた。
誰よりも尊い女性を。琥珀色の髪がかぐわしくて切なくなる。
この体温が、どうか変わらず自分の腕に在り続けますよう――――。
「あなたは私に追いつけない。決して」
「なぜ」
「私のほうがあなたを強く愛しているから。それは常に先んじて、変わることはない」
「渓はずっと勝ちっぱなし?」
「違う。負け続けるってことだよ。密」
言葉にならない想いが胸を占めた。蘇るのは、前生における自分の、罪深い記憶。
愚かな花守・水臣の。
「渓。渓。泣いているの? どうして?」
〝水臣……、……私を、独りにしないで……独りにしないで……頼む〟
縋りついて泣く理の姫の声を聴いた時、水臣は計略は成った、と思った。
理の姫を永劫の嘆きの淵に沈めることで、彼女を手に入れたと。
今だからこそ良く解る。自分は愚かだった。水臣は愚かだった―――――――。
妄執に狂い、取り返しのつかない過ちを犯した。
最初から、理の姫に愛される資格など持たない男だった。
「お許しください……。今生にては、決してあなたを独りには致しません。姫様。それが私の贖いに見合うとは、とても思いませんが」
背中を穏やかに撫でる手の感触を、渓は感じた。
水臣の犯した罪は余りに大きかった。自分の死に理の姫を巻き込み、他の花守を殉死に追い込んだ。魍魎との闘いも、摂理の壁を見守る役目も放棄させた。
だが彼女はとうに水臣を許しているのだと、背を撫でる手が物語っていた。
まだ間に合う、大丈夫。これから取り返せるよと語りかける。
涙の混じる声で、なぜか悔しいような思いで渓は吐き出す。
「密は。密はそんな風に優しいから、僕につけ込まれるんだ。莫迦だよ。……天使だ、全く」
「莫迦でも天使でも良いわ。……悲しいことは忘れて。私と幸せになろう?渓」
「密。密――――姫様」
「なあに、水臣?」
「くちづけても?」
「ええ。私はあなたが大好きよ。例え楽園にいられなくなっても」
密は晴れやかに笑った。
「渓。あの星、何?」
「知らない。オリオン座と北極星くらいしか判らないよ。星座になんて興味ないもの」
「つまんない。こんな時、彼氏にならスラスラ答えて欲しいわ。渓は見た目がいかにもインテリで、星座のことなんて詳しそうなのに。良いわ。じゃあ、何なら興味があるの?」
「密」
「……渓は昔から、そればっかりね」
「そうだよ。『密の一日』なんて物語があったら、ずっとそれ読んでるよ。嬉しい癖に」
「うん。嬉しいけど」
「交換日記しようよ」
「絶対、言い出すと思ったわ、それ!嫌よ、何回目、この遣り取り?」
すげない返事に渓がむくれる。
「どうしてさ」
「だから。私、筆不精だもの」
「絵でも良いよ? 密、絵を描くの上手いじゃない。文章が面倒なら〝愛してる〟だけでも良いよ」
「書かない、書かないっ。だからね、渓。私まだ、あ、あ、愛してるの段階まで到達してないの、理の姫の境地には至ってないの、無理よ、無理!」
「……踏ん張るね、密。突っついて、落っことしたくなるよ」
「ひどい」
「まあそう言わず。早く堕ちて来てね、天使ちゃん」
密は黙り込んだあと、声をつかえさせながら怯えるように問うた。
「……あのね。渓、は……、渓は……、私が空から落っこちたら、どうしたいと考えてるの」
「それは、密。多分、君が想像してる通りだよ…………」
「――――怖いのよ、渓。あなたが大好きよ。でも、とても怖いの」
「うん。でも僕は、君を愛してる」
だから……、とその続きは空気に溶けた。
日が暮れて暗くなり、空に星が光る時間になっても、密と渓はまだ小岩に寄り添い寝そべっていた。渓の腕は密の身体を抱いたまま放さない。密も渓にピッタリ身体をくっつけていた。二人共、離れ難い思いだった。愛しさが増した相手の体温に酔いしれていた。
「……今夜は月が明るいね、密」
「うん」
一緒にいるだけで、満ち足りた思いだとお互いが感じている。
「密の生まれたところで、密そのものだ」
「うん」
理の姫は、日光と月光から生まれた神だった。
「僕の女神」
「そうだよ?」
腕の中の最愛の少女が、今、何を考えているか渓は予想していた。
伊達に生まれた時から幼馴染をやってはいない。
今の穏やかな空気を渓は壊したくなかった。
草の匂い、樹木の匂い、腐葉土と水の匂い、そして少女の甘い匂い。
夜の澄んだ空気にそれらは満ち、星と七日月が空に輝いている。
七日月が投げかける光で、夜でも闇には沈んでいない。
渓にはそれが、密がいるからだと思えてならない。
烏の姿はとうに消え時折、蝙蝠のはためく影が見えた。
腕には密の柔らかい身体。
しかしこの平穏と幸福を守る為にも、渓は口を開かなくてはならなかった。
「密。吾妻が誰だか、もう判ってるね」
彼の存在は問題無い。渓への敵意はともかく、密を敬い、守ろうとする男だ。
「……うん。彼はいつも優しくて、気苦労が多いの。変わらないわ」
問題なのは。
「あの、生意気な侵入者。あの少年が誰だかも、密は知ってるの?」
「…………うん……」
知ってるよ、とか細い声で密が答える。出来れば語りたくない、と声が告げていた。
「神気の強さは半端じゃなかった。吾妻は彼を最高位の神と評していた。――――あなたの、――――……許嫁だとも」
渓には口にするのもおぞましい話だった。
密が渓に隠れようとするかのように、身体を強く寄せた。
怯えているのだとすぐに判った。
「渓。渓。私は何も言いたくない。口にしたくない。認めたくないのよ。あんな、あんな私の意思を無視した縁組なんて、無効だわ。嫌よ! 無理強いされるくらいなら、あなたと逃げる。でも解ってるの、逃げられないわ。彼が相手では。これまで上手く避けていられたのに、どうしてあの時あの場所で、見つかってしまったのか。花守たちも巻き込みたくない。きっと怪我させられるわ。……解る? 渓。私は今、とても、とても途方に暮れてる。絶望から目を背けようとして、あなたの温もりに縋っているの――――――――」
悲痛な声を出す密を抱く渓の手に、力が籠る。励ますように密の頬に唇を押し当てる。密をこれ以上怯えさせないよう、努めて穏便な口調で渓は訊いた。
「あれは一体、何者なのですか。まさか姫様より神位が高いなどと言うことは」
「……神位は、ほぼ同格なの。だから彼も私の意向を、全く尊重しないと言う訳にはいかない。けれど彼は私よりあなたよりずっと古くからある神。そう、最高位と呼ぶのも間違いではない。渓は『古事記』を読んだことがある?」
「――――『古事記』に名の載るような神なのですか?」
密はすう、と空気を吸い込んでその内容を諳んじた。
「天地初めて發けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みな獨神と成りまして、身を隠したまひき」
密が諳んじたあと、空気はシン、と静まり返った。
「その、三柱の内の、いずれかなのですか」
強張った顔で尋ねる渓に、密が悲しみの混じった苦笑を見せた。
「……最高位と言ったでしょう」
(莫迦な。それでは――――――)
「そう、あの少年。私の許嫁は、天之御中主神。天地開闢の時より神界に在った最高神。……笑っちゃう。冗談みたいなお話よね」
クス、と密が笑いをこぼす。渓の顔は青ざめ、笑うことは出来なかった。
柔らかく咲き匂う目の前の花と自分との間に、冷たい風が吹き抜けた気がした。