三
琥珀色の長い髪がヨタヨタと、よろめきながら廊下を歩く後ろ姿を吾妻誠は目撃した。
クラスの男子がチラチラ、そんな彼女を気遣わしげに見ているが、声をかける勇気のある者はいないらしい。可憐な少女に憧れながら、近付けないでいるのだ。
誠は彼らを嗤った。
「空也さん」
密が振り返る。
「あ、吾妻君」
「大変そうだね。今日二組は書道があったの?」
「そうなの。お蔭でごみが結構、嵩張ちゃって。他にも何だか今日はごみがたくさん出たの。和紙も溜まると重いよね」
自分の非力を恥じるように密が笑う。誠の切れ長の目に優しい光が浮かぶ。
「そうだね、空也さんには猶更だろ。俺が持つよ」
誠はさらりと言って、密が口を挟む隙を与えず二年二組のごみ箱を取り上げてさっさと歩き出した。
「あ、ありがとう、吾妻君!」
背中にかかった礼に、吾妻は振り返らないまま右手を振って応えた。
裏森に再び木苺のルビー色が華やぐ時期になった。
密が一番好きな季節だ。赤い宝石がたくさん、密の為に転がっているのだ。
泉の上にせり出した小岩に座った密は、渓から与えられる食事に勤しんでいた。
「はい、密」
そう言って差し出された渓の手から、密は木苺をついばむ。
「甘い」
「美味しい?」
「うん。渓、大好き」
とろけそうな笑顔の密の唇には、木苺の汁が濡れている。
「……密」
「なあに?」
首を伸ばし、少女の唇から渓はそれを舐め取る。渓はその行為に不自然なくらいの時間をかけたが、密は大人しくされるがままだ。無邪気に唇を預けている。
「……うん、甘い。確かに」
「あ、汁がついてた?」
密は恥じらうでもなく、のほほんと口に手を遣る。
彼女は渓から木苺の実の御馳走をたらふく貰って上機嫌だった。
「ねえ、密」
「なあに?」
「今度は密が、僕に食べさせてよ」
「木苺?」
「うん」
「そうよね、渓が採って来てくれたんだもの。私ばかり食べちゃ、不公平だわ」
密は納得顔で頷くと、脇に置いてあった銀色のボウルから赤い実をつまみ上げた。
口を開けて待機する渓は、中々果実が入って来ないことを訝しく思い、密を見た。
彼女は渓の口中に眺め入っていた。
「やだ、渓ってば。歯並び良いのね」
「――――はあ? そう?」
「うん。歯の色も白いし……」
密はまだ、渓の開けた口をじっと見ている。
少し、羨ましそうだ。
「…………」
渓は開けた口をそのまま、密のふっくらした頬に移行し、それに吸い付き、歯を当てた。
チュウゥ、と音が鳴る。
「うわあっ」
密が我に返って悲鳴を上げる。手に持っていた木苺を弾みで放り投げてしまい、それは赤い軌跡を描いて泉に落ち、小さく音を立てた。
「だって密が僕に美味しそうなほっぺをかじれって見せつけるから」
「見せつけてない、見せつけてないじゃないの渓っ」
責められる前に弁解を始める渓に、密がブンブンと首を横に振る。
「じゃあ早くちょうだいよ、密。お腹空いた」
(こっちは密をおあずけされて待ってんのにさ……)
恨みがましげな目で見られ、密はもう一粒の果実を手に取る。
「ごめんね。……はい」
「ん」
何度か渓の口に木苺を運ぶ内、密はどうも変だと思った。
渓は木苺を食べる際、必ず密の指まで舐める。時には口に含みそうになる。
「ねえ、渓。幾らお腹空いてるからって、指まで食べる必要は無いと思うのよ?」
渓は口の端を舐め、考えありげに答える。
「ん――――……。そこは必要性の問題じゃあないんだよねえ。密、もう一粒」
「はい、はい」
渓が小さな子供のように我が儘を言うのは、実は密には嬉しい。自分が少しお姉さんになった気分になるからだ。いつもと立場が逆転しているかのような、優越感に浸れる。
けれどその内、それどころではない気分に密はなっていった。
渓が指を舐める舐め方は、何だか変なのだ。密は今では眉を寄せ、口を半ば開けていた。
彼は執拗に密の指をねぶる。ゆったりと舌を這わせる。
どことなくその動きは、密に蛇を連想させる。
アダムとイヴを唆し禁断の実を食べさせて、彼らがエデンの園から追放される元凶となった罪深い生き物。知恵の実をかじったアダムとイヴは、羞恥の意識に目覚めるのだ。
そして二人は、最初の罪人となった。
沈黙の中、ピチャペチャと濡れた音が薄暗がりに響き、それは密の指から木苺がとうに消えてからも長く続いた。なぜか密はひどく恥ずかしい気分にさせられた。渓から正体不明の辱めを受けているような心地になり、白い頬は鮮やかな朱に染まった。密の頭にぼう、と熱い赤が点灯する。しかしそれは木苺のように澄んだ紅ではなくどこか淫らな赤で、密は初めて自分の中に見る色に恥じ入り、困惑し、いたたまれなくて苦しくなった。
(ここはいつもの隠れ処で、渓は渓なのに)
まるで世界が違って感じられる。よそよそしく密からそっぽを向いて。
お前だけが知らなかったのだよと嘲笑う。
ひどい、と密は思う。
密に優しかった場所が、今になって手の平を返した態度を取る。
約束が違うじゃないの、と叫びたかった。
そう思う間にも渓は一心に密の指に舌を這わせていた。
「……や。やだよう……けい……」
脇目も振らない熱心さが、密をますます追い詰める。少女の逃亡を許さず絡め取る。
「渓……!」
やめて欲しいという意味を込めて彼を呼ぶが、渓は一顧だにしない。
密の人差し指の爪先から中指との谷間まで舌を這わせると、次は中指の頂に向かう。
舌の動きはひどく緩慢かと思えば急くように荒くなり、止まることがない。
渓の舌はそれそのものが独立した生き物であるかのように、密の指を飽くことなくねぶった。
(蛇――――――――)
密を楽園から追放しようと賢しらに目論む。
その生き物は密に愛撫を求めるのではなく、逆に愛撫し、翻弄し、彼女を初めての場所に連れて行こうとしていた。
密を罪人にする気なのだ。羽を奪うつもりでいるのだ。
渓は何てひどいことをしようとしているのだろう。
(やめて。やめて。私をそこに連れて行かないで)
行きたくない。
まだ密は、そこには行きたくなかった。
(――――水臣。私は、私はまだ、)
「渓、渓ぃ」
やっと渓の舌が密の手から離れる。食事を終えて満足したかのように、彼は自分の口をゆっくりシャツの袖で拭ってから答えた。密を上目遣いに見る目は悪びれていない。
「なあに、密? どうしたの? 顔が、真っ赤だけど」
「だって! だって渓がっ!」
「指を少し舐めただけだろ。密、意識し過ぎ」
白々しく言った渓の顔を密はしばらく非難の色を籠めて見ていたが、やがてその大きな瞳が潤んだ。少女の顔に雨が降る前兆に、渓がギクリとする。
(あ、やば。しまった。やり過ぎた)
密は両目からボロボロと涙を落として泣き出してしまった。これでは洪水だ。
取り繕うように急いで渓は彼女を抱き寄せるが、弱々しい拒絶に合う。
「渓の莫迦」
「僕は莫迦じゃない。けどごめん、密。泣かないで」
「け、渓は、渓は、私が嫌いだから、あんな、い、意地悪するの?」
「嫌いじゃないし、意地悪でもないよ。それは密が色々、知らないからそう言うんだ。僕は今ちょっとムッとしたけど、密の無知に免じて許してあげる」
「な、何それ。何、それえ? い、意地悪だよお……。私の手を涎まみれにして楽しいの?」
ここで正直に答えれば天使の逆鱗に触れるだろう。
「……僕は密が、僕を男として意識してくれて、嬉しいんだよ」
密が渓から身を離し、涙の跡を残したまま腑に落ちない顔になる。
まだ軽くしゃくり上げながら言った。
「渓は、ずっと、男の子じゃない。私、ちゃんと知ってたわ」
渓は物分りの悪い生徒を前にした教師になった気分で、諭すように密に語りかけた。
「知ってることと意識することは違うんだ、密。今まで密は、僕とキスしたって、全然平気だったろう。何も、感じなかっただろう? 不快感も、快感も。気持ち良くて、天にも昇る心地になんて、一遍だってなったこと無いだろう。それは、密が僕を男として意識してなかったからだよ」
濡れた瞳で密は必死に訴える。
「……でも私、渓のことがずっと大好きだった。本当に、本当に、大好きだったわ」
「知ってるよ。けど、密が〝大好きな渓〟の前で真っ赤になって、そんな自分にたじろいだのは今日が初めてだ。それを僕がどんなに嬉しく思っているか、きっと密には想像もつかないよ。…………密、今の僕にキスされても平然としてられる?」
渓の顔が、密に近付いて来る。
何をしようとしているかは明らかだ。
今までに何回もしている些細なことだ。
けれど密は、迫る渓の瞳の青を見て悟った。
(あ。違う。些細、なんかじゃ、ない。怖い。怖い)
大好きな渓が今は怖い――――――――。
(やだ。そんな目で見ないで。そんな目で見ないでよ)
渓が目を見開く。
密が手をつこうとした空間に、冷たく固い岩の感触は無かった。手が宙に大きくはみ出る。
感情のまま逃げるように後ずさった密は、小岩から泉に転落した。
「密――――!!」
激しい水飛沫が上がった。
水から密の身体を地上に押し上げた渓は、自分も泉から上がった。
二人して短く茂る雑草の上に大量の水を滴らせる。
下草に両手をつきびしょ濡れのワンピースを纏い咳き込む密の背を、渓はさすってやる。
そうしてやりながら彼が今の状態の密を見る目は危険で、内情の蓋を開ければ邪心だらけだった。それも止むを得ないだろうと、渓は自分で自分に言い訳する。
濡れた白いワンピースは密にピタリと張り付き、彼女の身体の線を露わにしていた。白い布が透けて、うっすらと肌の色までが見える。下着の線まで明瞭に見える。
これは断じて自分のせいではない、と渓は思う。
(自分でこんなシチュエーションを作ってしまうんだから)
この姫君はどうしたものか、と渓は呆れながらも目を逸らさず、じっくり密の姿態を観察していた。こんな時に後ろを向いてやる程、自分は紳士でも出来た人間でもない。
去年より一つ年を重ね、それに伴い体つきの変化した密を時間をかけて拝む機会は、これまでありそうで無かった。こんなチャンスはまさに見逃せない。
渓と同じ十四歳になった密の身体は、羽化する蝶のように、日に日に幼さから脱してゆくようだった。腿の上のふくらみはまろやかに腰は細くくびれ、胸も豊かになっている。
男を魅了するに十分な女性の体型に成りつつある密の身体を、渓は濡れたワンピース越しにしっかり見て取った。
「……密。そのワンピース、もう着ないほうが良いよ。光に透けるし」
実はその点は既にチェック済みだった。
ようやく呼吸が落ち着き、密は控えめに意見した従兄弟を、初めて見る男性のように見た。渓は何という目で自分の身体を凝視するのだろう。絡みつくような視線は、密に自分を脅かした闖入者の少年を思い出させた。大好きな渓が大嫌いな少年と同じ目で密の身体を見たということがショックだった。
今まで、なぜ何回も、何十回も彼とキス出来ていたのか。
(私、だって何にも、考えてなかったもの――――――――)
渓は従兄弟でも幼馴染でもなく、それ以前に一人の異性だった。
〝気持ち良くて、天にも昇る心地になんて〟
(じゃあ渓は、ずっと、今まで、ずっと、そんな気分になってたの? だからあんなに何回も何回も、私の、唇を、唇を、)
考えるとまた顔が熱くなりそうだ。
〝愛してる。密だけだ〟
〝僕を男として意識してくれて、嬉しいんだよ〟
もしかすると。
天啓のように頭に閃いた結論を、密は口にした。彼女は今、確信に至ったのだ。
「渓は私のことが好きなのね? さながら恋人を想うように!!」
犯人を追い込んだ探偵の目で高らかに言った密に、渓は唖然として再度目を見開いた。
(は、何て? さ、さながら?)
驚きの極致に至った渓は、恐慌状態に陥った。
彼は呼吸困難の人間のようにパクパクと口の開け閉めを繰り返した。
(…………金魚みたいで面白いわ)
渓の心情を顧みない密の感想は、長閑だった。
渓の口から、ようやく言葉が、蛇行運転する自転車の見せる心許無さでよろめき出る。
「え。……え? ……今更それなの? 密」
生まれて初めてここまで呆れ果てた、という顔で言われ、密もさすがに気まずくなった。
(そんなに、呆れ返ることないじゃないの……)
こんな時の渓ってば大袈裟なんだから、と思う。気まずさも手伝い、子供のように緑の草をドシドシと踏み荒しながら思うところを主張する。それに恐れをなして逃げる羽虫たち。水滴が密の動きに合わせて飛び散っては光を弾く。
「だってだってだって、ちゃんと、これは恋愛感情だよ、とか、渓は前もって詳しく解説してくれなかったじゃない! 懇切丁寧に! 私が機械製品とか触る時、〝ご利用に際しての手引き〟とか読まないと使いこなせないって知ってる癖にっ。不親切だわ、気付かなくたって不思議じゃないわよ! 私が悪いんじゃないわ!! 責任者である渓の手落ちよっ」
渓はまじまじと目の前の濡れそぼった少女を見た。
今、自分はどういうクレームをつけられた?
責任を全て渓に押し付けようとする密は、図々しさが過ぎないか。
宇宙人の語る奇怪な言葉を初めて聞いた人間は、こんな気分になるのではないだろうか。
〝詳しく解説〟?
〝懇切丁寧に〟?
挙句の果ては〝ご利用に際しての手引き〟だと?
本気で彼女は言っているのだろうか。いや、彼女はどこまでも本気だ。いつも通りに。
こんな生き物がこの世に存在するのかよ、と誰にともなく渓は悪態吐く思いだった。
存在するのだ。渓の目の前に。それが現実だ。
密は間違いなく、あらゆる意味で天使――――奇跡の存在だった。渓は再認識した。
「あのね、密……。言葉にするのも疲れるけど、僕は君を愛してるから疲労感と戦って言うよ。普通、恋愛感情についての解説なんて、男女間ではしないものなんだ。同じ年頃の男女なら特にね。僕は密に対して、これまでむしろ親切過ぎる程、アピールして来たつもりだよ? それなのにまるっきり気付かなかった密ってのは、実に不思議の極みなんだ。今、僕は君を世界七不思議に推薦したい気分で一杯だよ」
「――――ありがとう、渓」
そこで礼を言うのも間違っている、と渓は激しく突っ込みたい気分だったが、グッと堪えた。彼女を、つまり奇跡を愛した時点で、渓は負けているのだ。
だから渓は引きつった顔で一言、答えた。
「……どういたしまして」
それから透明な雫をポタポタと落としながら、少年と少女は拠点である小岩に戻り、ボウルに残っていた木苺を、今度は自分たちの手で取り黙々と食べた。
ボウルが空になったあとは二人で寝そべり、他愛ないお喋りに興じた。
「お腹が木苺でパンパン。幸せ~。ああ、お腹がルビー色になった気がする。胃袋、赤く光ってるんじゃないかしら? 今」
木苺のもたらした幸福感で、密はすっかりいつもの調子を取り戻していた。
渓は少し、拍子抜けしてしまった。だが寝そべる二人の間には、これまでに無かった拳二つ分ぐらいの隙間がある。そのことに気付かない渓ではなかった。
「お腹がルビー? そりゃ面白いね。是非とも断面図を見てみたいもんだ。MRIで撮ってもらって来てよ、密」
「あ、そう言えば昨日、吾妻君がね、優しくしてくれた!」
相手の言葉を余り聞かず、脈絡の無い密のお喋りに、渓は慣れている。
「……吾妻が?」
「うん。ごみ箱をね、焼却炉まで持って行ってくれたの。同じクラスの男子たちは意地悪く知らんぷりだったのに。重かったから、助かっちゃった」
渓は無表情に相槌を打つ。
「へえ。……あいつ、結構、密には親切なんだね」
「そうだね。困ってると、さりげなく色々手助けしてくれるよ。親切な子」
吾妻誠は鋭い眼光が印象的な男子で、イメージ通り腕っぷしが強く、他の男子たちにも一目置かれている。その割りには比較的成績優秀で、目上の人間へも礼儀正しく教師からの信頼も厚かった。無頼な雰囲気が格好良いと、男女共に一部のファンがいた。
「密は吾妻が好きなの?」
「す、……ちょっと待って。それ、恋愛の意味の?」
「うん」
「じゃあ、好きじゃないわ。もう、ややこしいなあ」
「恋愛の意味じゃなければ?」
「好きよ? お友達になりたいわ」
「……ふうん」
「渓、怖い」
「面白くないからね」
「恋愛じゃない好きでも?」
「うん。僕は密に関してはひどく狭量なんだ」
淡々と語る渓は開き直った雰囲気だった。
そんな彼を横目で見て、密は切り出す。
「……渓。あのね、キスのことなんだけど」
ガバ、と渓が起き上がって密を期待の籠った目で見る。
「してくれるの?」
「そんなに嬉しいの?」
「うん、嬉しい。欲しい。ちょうだい! ちょうだいよ、密っ!」
「あの、今じゃないんだけど」
落胆した表情で渓が問う。
「じゃあ、いつ? 家に帰る前? 明日? …明後日は遠過ぎるからね」
「え、ちょっと、遠いんだけど」
「…………いつ?」
密は恥じらいながら微笑み、唇を開いた。
渓は自室の畳に敷いた座布団に座り、片膝を立てた上に肘を置き、頬杖を突いていた。
密の部屋とは違い必要最低限の物しか置かれず、装飾の一切無い殺風景な部屋に、彼は物憂い風情でぼんやりしていた。装飾ではなく、宝物の陳列された部屋の戸棚を見る。そこにはこれまで密から貰った品が、大から小まで厳かに保管されていた。色褪せたパンジーの造花の花束、色とりどりのビー玉におはじき、用途不明な土産物の提灯の玩具に赤ん坊サイズの狸の信楽焼き。渓が喜ぶとでも考えたのか、なぜかプラスチック製の玩具の刀。その内容は多種多様だ。もちろん密の写真が納まった写真立てもギッシリ並んでいる。それとは別に、勉経机の上にもA4サイズに引き伸ばされた密の写真が飾ってある。その写真は毎年、一年成長した密の写った物に更新される。
それらを見た姉からは散々にストーカー呼ばわりされたが、無論、渓には馬耳東風だった。
開け放した窓からは爽やかな風が吹き込み、渓の髪を軽く揺らす。
今日は月の出ない闇夜だ。どんなに目を凝らしても、紺青色に瞬く星くらいしか見えない。光が、ない。
(つまらないな――――)
日光も月光も、渓はこよなく愛していた。およそ眩しい光の全ては、彼の大切な少女を象徴するものだった。だから月のない夜は、渓にはとても物足りなかった。
(今夜は光が、僕につれない。密がいてくれたら問題無いんだけど……)
人天蓋の下で妄想に耽ろうにも、今時分の本堂にはきっと父親がいるだろう。
今日は密に、渓から向けられる恋愛感情の自覚が芽生えた喜ばしい日だ。
同時に彼女からひどい宣告を受けた日でもある。
いつであればキスをしてくれるかと迫る渓に、密は微笑んで言った。
〝私たちが結婚式を挙げる日に〟
素敵でしょう? と言わんばかりに告げた彼女の両目は輝いていた。
目が点になった渓に密は、モジモジと恥ずかしそうに続けた。
〝だって私は渓が大好きだし、渓も私を好きでいてくれるなら、きっといつか結婚するでしょう? 二人で白い教会で、青く晴れた日に、皆の祝福を受けて結婚式を挙げるの。渓は白いタキシードで、もちろんとびっきりに格好良いわ。私も白いウェディングドレスを着て、渓だってきっと見惚れてくれるでしょう? パパは泣いちゃうかも知れないわね。そしてほら、神父様の前での、誓いのキスがあるじゃない。その時に。ね?〟
夢見る瞳で語り、同意を求めた密を思い出して、渓は深く項垂れた。
砂糖菓子の少女を、文字通り、甘く見ていた。
彼女の夢物語を聞いた時と同じ頭痛がまだしている。
〝あのさ、密。密――――まさかとは思うけど、それまで僕は密とキス出来ないの?〟
〝うん、そう。だってこういうのって、特別感を大事にしたいし〟
つまり密は、これから何年もの長い間、渓に唇も、もちろんその先も許す気は無いということだ。ふざけるなよ、と渓は思う。何が特別感だ。くそ喰らえだそんなの。キスなんて食事みたいなものだろうが。今まで散々味わわせ、中毒にしておいて次からは全て取り上げると非情にも言ってのける。自分の、彼女に対する恋愛感情を理解した上でそれを言うか。腹の底から怒りがふつふつと湧いた。
(男を舐めてんのか。莫迦にしてるのか。――――違うな、根本的に解ってないんだ)
男と言う生き物が。
何度目になるか解らない溜め息を渓は落とす。
(自分と同じように、砂糖菓子喰って生きてると思ってるんだ)
天使基準で世界を測るな、と怒鳴りたくなる。
(空也家の性教育ってどうなってんだろ……。一体どうやったら姫様があんな風に育つんだ)
誰もが密のように純粋無垢ではないのだ。
密であっても、いつまでも子供のままではいられない。
(そうだよ。密だって。今日、反応して見せたみたいに)
変わらずにはいられなくなる。
(天使め。今に見てろよ。天上から引き摺り下ろしてやる)
自分の足元に転がる堕天使を必ずこの目に見届ける。
あの甘く澄んだ声で狂おしく、愛していると言わせてみせる。
「よーっす、渓。物騒な面してんなあ、お前!さては密と夫婦喧嘩でもしたかあ?」
断りも無く襖をパンと開け、ズカズカと渓の部屋に入って来たのは、姉の竜妃だった。
(夫婦か……)
今の渓には近くて遠い言葉だ。
今年で大学一年になる竜妃は、スポーツで鍛えた引き締まった肉体を持ちながら、色気とはまるで無縁だった。気性は男前の江戸っ子のようにちゃきちゃきとして豪快だ。刈り上げたショートカットが良く似合う。彼女は基本的に、冬以外はタンクトップにジーンズをまくり上げたスタイルで通していた。肌の露出度と色気は必ずしも比例するとは限らないということを、渓は姉を見て学んだ。
そんな彼女に今の自分の懊悩を打ち明けて、どれ程実りある答えが期待出来るだろうか。しかし物は試しと思い、渓は率直な疑問をぶつけてみることにした。
「竜妃姐。訊くのも無駄だとは思うんだけどさ」
「お前、訊く前から要らん一言つけんなよ」
「女ってどうすりゃその気になんの?」
「はあ? そんなんお前のほうが詳しいだろ、手練手管、知ってんじゃないの?」
「……全く的外れなお言葉とも言わないけどね。何、その偏見に満ちた決めつけ」
「だってお前、今、部屋入った時とか、すっげー野獣のオーラ出してたぜ?ヤる気満々って感じ。しばらく密に会うなよ、危ないから。密が。まあお前は? 干からびて死んじゃうかもだけどおぉ~」
「竜妃姐、般若湯で酔って弟に絡んでくんのやめろよ!」
「あははははあ~。赤い顔~。渓クンは密にドボドボに酔ってましゅねえ~~!?」
酒臭い息を撒き散らしながら、竜妃はしっかりした足取りで渓の部屋から出て行った。
酔っ払いの特権と言おうか、あくまでマイペースだ。
(……牽制して行ったな)
竜妃は昔から、密のことを目に入れても痛くないくらい可愛がっている。
敏感に渓の危険な意気込みを察知するあたり、密への愛情の成せる業と言えた。
渓は姉の消えた襖を睨んでいたが、彼女の気配が遠ざかるとそっと濃い緑色のシャツの袖をめくり上げた。
(微妙に痛まない、こともないか……)
そこには木苺の棘によって出来た無数の傷跡があった。一応消毒はしたが、気を抜けばまだヒリヒリする。
密はこれを知らない。知られないように、渓は木苺の実を摘んでやる日には長袖のシャツを選んで着ているのだ。密は渓が器用に棘を避けて、無傷で木苺を摘んでいると思い込んでいる。渓は密に対し、密は棘を避けて採るのが下手だからと言い含めて、木苺摘みを許可したことは一度も無い。櫨の葉と同じように、手を伸ばそうとすれば叱り、自分が摘むからと言って赤い繁みから遠ざけた。木苺を収穫するのはいつも、渓の役目だ。もしも事実を知れば密は、もう要らないと言うだろう。
ごめんなさい渓、と泣いて自分を責めるのだろう。甘い香りのする髪を渓の肩に押し付けて。目に見えるようだ。
けれどそれはおかしい、と渓は思いシャツの袖を戻す。
(だってこれは、僕が好きでしてることだ)
だから密は知らないままで良いのだと、渓は当然のように考えていた。