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3/17

 秋になると、常緑樹の多い裏森の中にも、所々、赤や黄色の色が見られた。

 密がいつも寝そべる小岩の上にも、それは数枚、散っていた。

 (はぜ)の葉は、皮膚に触れると赤くかぶれることがある。

 美しく魅力的な赤に手を伸ばしたがる密の手を、そのたびに渓が掴んで止めた。

 あの赤は危険だと、何度言い聞かせても密は聴かないのだ。木苺といい、密は多少の危険を孕んでいても、自分が心惹かれたものには進んで身を投じてしまうところがある。彼女のその危うい気質は渓の頭を悩ませた。

(本当に痛い目に遭わないと解らないんだ、密は)

 腹立たしく思いながらも、渓は密の白い肌がかぶれることのないよう秋の落葉の時期になると毎日小岩の上に目を光らせて、落ちている葉が櫨と見るやすぐにそれを家の寺から持参した竹箒で払った。その内面倒になり、櫨に限らず赤い葉を見れば軒並み払うようになった。小岩の影に竹箒が立てかけてある光景は、二人の隠れ処の秋の風物詩だった。

 渓がザカザカと竹箒で小岩の上を払う。密はうずくまり、頬杖を突いてその様子をただ見ている。それからいつものように泉に二人して浸かると、小岩の上にくっつき合って寝転び、秋の日の光で濡れた身を温めた。

 陽の温もりにトロトロとしてきた密は半分寝惚けて、甘えた声を出す。

「渓、渓、あのね、」

 その声を聴くと渓は、また始まったなと思い、いかにも今眠り入ろうとしていたような声を作り応じる。

「――――ん、何?」

「あのお話をして?」

「あの話って……?」

 密が何の話をせがんでいるか解った上で、ゴロン、と密に向かって寝返りを打ち、渓は訊き返す。寝惚け眼をこする振りをしながら。

 そのとぼける行為を何度も繰り返されている密は気分を害し、今日もまた唇を尖らせた。

 渓が、唇を尖らせた自分を見たい為にわざと訊き返しているとも知らずに、まんまと策に嵌まっている。濡れたように光る艶めいた唇は、盗んで見せろと言わんばかりだ。

(見せつけるよなあ)

 他の男の前ではするなよと、渓は切実に思う。

 青く澄んだ秋の空も、彼の目には映っていない。密以外は映らない。彼が罹っているのはそういう病気だ。

 ふ、と企む顔で笑んでから渓は言う。

「そうだな。それじゃ、密から僕に、キスしてくれたら話してあげる」

「よし。良いわ。手? ほっぺた?」

「……学習しないよねえ。密は」

 呆れた声で言って、密の顔、息がかかるくらい近くに自分の顔を寄せて、自分と同じ色を宿した瞳を覗き込む。間近に見る密の顔はとても綺麗で、渓は何気なさを装うのに苦労する。

「わざと言って、とぼけてるの? 僕を莫迦にしてるの? ……当然、唇にしてくれないなら、あの物語はしてあげないよ。――――それとも本当は、聴きたくないんじゃないの? 密」

 その苛立ちすらも、渓の演技だと密は気付かない。

 オロオロと渓の思惑通り、親の怒りを買った小動物のように狼狽して見せる。

「やだ。ごめん、渓。……ちゃんとするから、怒らないで」

 渓はじっとしたまま、密の前から顔を動かさない。

 密は顔を彼に寄せると目を閉じて、臆病な小鳥のようにそっと渓の唇に自分の唇をつけた。

 終わったあと、ふう、と息を吐いて苦情を言う。

「……ねえ。どうして渓は目を閉じてくれないの?」

「密が閉じてるから関係なくない?」

「それでも、直前までじっと見られるとやりにくいの!」

「――――ふうん、やりにくいんだ」

 窺うような目の渓に、密は真っ正直に答える。

「うん。やりにくい!」

 渓が笑顔で宣言する。

「じゃあやっぱり、僕は目を閉じない」

「ひどいわ。……渓は、私を困らせて楽しんでるんだ」

「そうだよ――――。……あーあ、何だか気が変わったな。密、もう一回してよ」

 渓が自らの唇を吟味するように撫でながら、密を翻弄するように気紛れな口調で言う。

「……ええ?約束が、違うわよう。渓」

「けど僕はまだ全然、物足りないんだ。しょうがないじゃない。別に一回きりだとは、言わなかっただろう? 嫌なら良いよ、密。どうする?」

 渓が微笑む。綺麗な顔をした悪魔みたい、と密は思う。密は時々、渓が自分を好きなのか嫌いなのか良く解らなくなることがある。自分を苛めて喜んでいる気がするのだ。

 大好きな渓が、こんな時にはひどく憎たらしい。

「…………」

 密は、渓からされるのには慣れているが、自分から渓にキスするのには慣れていない。

 それなりに、覚悟が要るのだ。

 渓の両頬を、密は小さな手で包む。緊張した彼女の表情を、渓はやはり凝視していた。

 再び、密は渓にくちづけた。そのまま唇を離そうとした密の頭を急に渓が上から押さえる。驚いた密が目を見開き、両腕を激しく動かす。両足で渓の身体も蹴るが、彼の手の力は緩まない。

「ん――――っ、ん、ん――――っっ!」

 無言の格闘の末、渓の手が離れ、やっと密は空気を取り戻した。細い肩が大きく上下している。

 そんな密とは対照的に、渓は腹を抱えてとても愉快そうに笑い転げていた。小岩から落ちる寸前で危なっかしく留まっている。

「あはははは!! 密は可愛い!! 可愛い!! 結婚して!!」

「……もうっ! 渓い!!」

 密がガバッと上半身を起こす。

「――――昔々、あるところに、美しい女神様がおりました」

 猛烈に抗議しようとした密を遮り、唐突に渓が語り始めた。

 それはこれまでに何回も、密が渓に頼んで聴かせてもらっている物語だった。

 密は声を出すのをやめて易々と怒りを忘れ、再び渓の隣に身を横たえる。その物語に聴き入る。唇を結び、目を大きくして一心に。

(……簡単)

 不思議で綺麗で悲しいロマンスが、密の態度を微笑ましく思う渓の口から紡がれていく。

「彼女は光から生まれた神様で、皆からは理の姫様と呼ばれ、敬われていました。理の姫様の役割は、摂理の壁と言う、万物の摂理を司る壁を守り、その予告する内容を知り、それに沿って動くことでした」

「理の姫様は、とても綺麗な女神様なんでしょう?」

 尋ねた密に、渓は偽りの無い答えを返す。琥珀に光る長い髪に、指を絡ませながら。

「うん。密と同じくらいにね」

 深い色の目で言った渓に密が笑う。秋風に少女の高い笑い声が響く。

「嘘ばっかり」

「本当だよ。僕は知ってる。うっとりするくらい、神々しくて美しいお方なんだ。――――いつも皆、見惚れてた。理の姫様には、彼女を守る、花守と呼ばれる五名の存在がいました。彼らはそれぞれが、木、火、土、金、水の特性を持った力を有していました。すなわち呼び名も木臣(もくおみ)明臣(あきおみ)黒臣(くろおみ)金臣(かなおみ)、……そして水臣(みずおみ)と言いました」

「いつも思うけど、水臣は渓みたいね。水を操るところなんかそっくり。私、もしも水臣に会ったら、きっと仲良くなれると思うわ」

 渓の頬に頭を寄せて密が言う。それには答えず、甘い香りを嗅ぎながら渓は続けた。

「…………理の姫様は慈悲深く、常に人の幸福を願い、その為に、神々の行動に制限を加える摂理の壁を新しく生まれ変わらせました。ところが、その転換期に際して人の世に、災害の代行者となる、」

魑魅魍魎(ちみもうりょう)でしょ?」

「そう。それを生み出してしまいました。理の姫様は、姉上様である(ゆき)御方様(おんかたさま)の力も借りて、彼らを滅して行きました。花守ももちろん、その為に働いたのです。……ところがある日、花守の一人である水臣が、魍魎との闘いで傷を負いました。死を免れない傷を負った彼を見た理の姫様は……、自らの身を、宝剣で刺しました。水臣と理の姫様は、深く愛し合っていました。水臣の死は、姫様には耐えられないことでした。そうして二人は戦いも半ばに放棄して、互いを想いながら亡くなりました。明臣を除く他の花守も、理の姫様に殉じて亡くなったそうです。魍魎は、雪の御方様の勢力の手により滅びました――――――――密。……泣かないで」

「だって――――だって。雪の御方様は、理の姫様のことを怒ったかしら?」

「……優しいお方だから、きっと許していらっしゃるよ」

「明臣だけは、生き残ったのよね」

「そうらしい。彼は数百年探し求めていた、許嫁(いいなずけ)の生まれ変わりを見つけたばかりで……離れることが、出来なかったんだってさ。それじゃあ仕方ないよね」

「知り合いみたいに言うのね、渓」

 密は渓の語るこの話が大好きだが、この話を聴けば必ず泣かないではいられない。

 愛しく、辛く、誰かに謝らなくてはならない気持ちになる。

 そしてなぜか、渓が普段よりももっと恋しくなる。少しくらい意地悪された不快感など、吹き飛んでしまう。渓だけが傍にいてくれればそれで良いと思う。

 両手で顔を覆って泣く密の琥珀色の髪を、痛ましい表情で渓は撫でた。

(……自分を責めないで良いんだよ)

 罪も咎も全ては自分が負うべき物だ。

 光の姫は今、自分の隣にいて他の誰より自分を慕ってくれている。

「渓。渓。渓。大好き。一番、渓が好きよ。離れないでね」

 渓にはそれで十分だ。少なくとも今は。子供が発する精一杯の愛情表現を、成長を待つ大人の、どこか諦めた微笑で受け容れる。

「解ってるよ。離れるものか」

 本当は櫨の葉など比較にならない。

 剥き出しの渓に触れたら、密は赤くかぶれるくらいではすまない。

(……火傷よりももっと。私はきっとあなたを、燃やし尽くしてしまうだろう)

 自分が密にとってどれ程危険な存在であるか熟知した上で、渓は彼女から離れることなど出来ない。

「密から離れたら僕は、死んでしまうから」

 さらりと口にする、それは真実だ。

 水臣と同様、赤く苛烈な熱は、渓の奥にも潜んでいる。

(知ったらきっと密は、僕を怖がって泣くんだろうな…)

 しかしそう遠くはない内に、その日は訪れる。ぬるま湯のような関係は終わる。密が泣いても喚いても、渓は自分を止められない。狂いそうな愛しさで、手は過たず少女に伸びるだろう。

(だって僕は、もう今にも密が欲しいから)

 ただ時を待っているだけだ。密が堕ちる時を。聖少女の堕天を。

「……密は、僕のことが好きなんだよね?」

「好きよ。もちろん!」

 照れ臭さの少し混じったはにかむ微笑みは、輝く笑顔となる。

 その言葉を免罪符にしようとする、自分の卑劣さ。

 渓の寂しそうな表情の理由が、密には解らなかった。だから手を伸ばして、彼の髪を密も撫でた。慰めたいと思ったのだ。純粋な少女の手に撫でられた渓は、慙愧(ざんき)の念に目を伏せた。

 ごめんね密、と思いながら――――。


「おい。渓。お前という奴は、どこに転がっている。起きなさい」

 上から降って来た重低音に、渓は閉じていた目を開いた。

 彼は流光寺(りゅうこうじ)の本堂の畳に仰向けに寝転んでいたのだ。

 しかも渓が転がっていたのは、本堂の中でも「人天蓋(にんてんがい)」と呼ばれる金色の瓔珞(ようらく)の垂れ下がるその下、本来であれば流光寺において法会の中心人物・導師となる住職である渓の父が座るべき、金刺繍の入った紫の座布団の上である。キラキラと光る人天蓋の下にいると渓は、密に上から微笑みかけられている気分になる。父の不興を買ってでもこの場所をお気に入りとして譲らないのはその為だった。本堂に満ちた線香の匂いと密の甘い香りはかけ離れているが、それぐらいは我慢する。

 人が見ていないことを確認して、渓は仰向けのまま、天蓋に向けて乞うように両手を伸ばす時もある。

(密――――)

 心の中で呼びかければ、なあに渓、と澄んだ声が降って来そうだ。

 チラチラと、キラキラと金に光る天蓋に、愛しい少女の面影を思い描くと渓の顔は得も言われぬ程優しく、穏やかなものになった。

 本尊である金色の十一面観世音菩薩の視線など、渓にはどうでも良い代物だ。不届きと睨むなら睨んでみろと思う。

 いわんや憩いの邪魔をした父親の眼光においてをや、である。

 観世音菩薩より、密のほうが渓にとってはるかに尊ぶべき存在であり、琥珀色の髪を持つあのあどけない少女を、彼は崇拝していると言っても過言ではなかった。

(仏像なんて、ただ金箔を貼っただけの張りぼてじゃないか……)

 さすがに渓も、それを父の前で口に出して言う程愚かではない。のっそりと、いかにも無精に身体を起こす。 

「何ですか、父さん」

「お前は勉強だけしていれば私が文句を言うまいと舐めているな。みっちゃんと遊ぶ他に熱を入れて打ち込む物は無いのか、良い若い者が」

「熱ならちゃんと入れてるよ。脇目も振らず打ち込んでもいます」

「―――――ほう?」

「密に」

「莫迦者っ!! 御仏の前で不謹慎な物言いはやめんか!」

 流光寺住職が大声で怒鳴る。高い木の天井、畳の間と本尊の安置された内陣の板の間を含めた広い面積の本堂に、その声は爽快なくらいに朗々と響き渡る。音響効果は抜群だ。

 読経を上げるのに鍛え上げられた喉から出る発声に、渓は両耳を押さえた。

「うるさいなあ。僕だって寺の息子として経文くらい唱えられるんだから」

「……初耳だな。言ってみなさい」

「弥陀成仏のこのかたはいまに十劫をへたまへり法身の光輪きはもなく世の盲冥をてらすなり南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」

 住職は目を閉じて息子の唱える念仏に聴き入り、感心しているように見えた。

 だが良く見るとそのこめかみには青筋が浮いているのが判る。

「見事だ。……臨済宗の寺の住職を務める父の前で、浄土真宗大谷派の念仏を唱えるその度胸。――――――読経違いだこの莫迦たれっ!! 親をおちょくりおって。そこに座禅を組みなさい。渓。みっちゃんへの煩悩(ぼんのう)共々、お前のあらゆる邪心を焼き尽くすまで夕飯は抜きだ」

 渓は父の怒声を聞いてヒョイと軽く右手を挙げる。

「あ、じゃあ僕は飢え死にです、父さん。それで本望です。僕の骨と位牌は、密の部屋に置いてもらってくださいね」

 彼の意識はあくまでも密から離れない。

 平然とした顔でさらさらと淀みなく死後の要請をした息子の台詞に、流光寺住職の顔に今度は朱が上る。これは息子の為にもガツンと説教をせねばなるまい、と彼は固く決意した。このままでは渓は道を踏み誤ることになりかねない。一僧侶としても彼の親としても、それを見過ごす訳にはいかなかった。そして住職は口を開いた。

「この莫迦息子が、お前は間違っとるっ。全く以て解っておらん!! 良いか、渓。心して聴きなさい。みっちゃんの部屋はかわゆらしくて女の子らしい、アメリカンカントリー調だっ。ウッディーなドレッサーやらクローゼットやらベッドやらが並んどるんだ。みっちゃんみたいにラブリーなウサギさんのぬいぐるみがちょこんと置いてあったり、ファンシーなパッチワークのベッドカバーがかかってたりするんだ。ランプシェードはもちろんガラス製の淡くて甘いピンク色だ。部屋全体がみっちゃんそのものを表わしてまるでお砂糖菓子な夢の空間なんだ。骨壺と位牌は雰囲気もデザインも合わんこと甚だしいだろうが!! そんな組み合わせが許されるか、喝っ!!」

 渓はカタカナを連発して力説する父の言に首を傾げた。

 密の部屋の内状に詳し過ぎやしないかこのおっさんは、と胡乱(うろん)な目付きで思いつつ。

「――――――突っ込むべき問題点はそこで良いんですか、お父さん」

 的を得た質問ではあった。

 渓には男勝りの姉が一人いるが、父は常々、「みっちゃんのようなフワフワキュンキュンした女の子が欲しかったんだ……。どうしてあの子が家の寺に降臨してくれなかったんだ」と溜め息と共にこぼしては妻の不興を買っている。そして父の言葉を聞いた姉は「うっわ、親父マジでキッモ!」と盛大に顔を歪める。

 住職の妻曰く「私だって欲しかったわよお! 昔っからいつだって、妹のほうが私よりくじ運が良いんだから!」だそうで、頻りと自分の双子の妹を羨ましがった。何でも妹と顔を合わせて互いの子供の話題になるたび、勝ち誇った顔をされて悔しい思いをしているらしい。

 そこに渓の姉が加わると「言わせてもらやあ、あたしだってこんな可愛げのない弟より密を妹に欲しかったさ!!」と叫び、「渓より密が欲しかった」の大合唱で事態は更に収拾がつかなくなる。

 そうした一幕は主に長谷川家朝食の席において日常的に繰り広げられ、渓は別段拗ねもひねくれもせず一人黙ってたくあんをかじり、味噌汁をすする。そういうところが可愛くないのだと家族には至って不評だが、渓には一向に気にするところが無かった。

 とかく「密が長谷川家の娘であれば」と連呼する家の人間がうるさく、渓は一度彼らに尋ねてみたことがある。

〝じゃあ僕が、密みたいに可愛く純真無垢で素直だったら満足ですか〟

 父を始めとして家族はこの問いに押し黙った。

 それはちょっとあれよねえ、ああ、ちょっとそれはあれだな、と母と父が顔を寄せて小声でボソボソ何やら言い合う。

 両親と異なり、眉根を寄せた姉は遠慮無く明快に言い放った。

〝気持ち悪いこと言うなよな、渓。そんなのお前じゃないよ!〟

〝ひどいな、竜妃姐(たつきねえ)

 そう言って渓は朗らかに笑った。


 透明な水の上に舞った楓の葉に、密の目は釘づけになった。

 このあたりに楓の樹は珍しい。それが泉の水面を数枚、彩っていた。

 いつものように小岩の上に寝そべっていた密は、赤い色に惹かれ下に向けて手を伸ばした。当然、届く筈もない。

 それでも密は、琥珀色の髪の毛が、小岩の先から垂れるくらいに身を乗り出して、泉を覗き込んだ。じいっと恨めし気に泉を向いたままの密の姿を渓が見れば、すぐに取って来てあげようかと言って、実際、身軽にそれを実行に移すだろう。だが密は今一人で、寂しく水面を見つめている。自分の手で取るのでは意味が無いのだ。

 呆れたように笑い、渓が密を甘やかして赤い葉を取って来てくれることに意味がある。

(まだかな、渓)

 密は頭を動かし、斜め上方に視線を移す。

 学校も終わった放課後、秋の日は暮れかかって、空にある朱と赤の混じった大きな輝きが眩しい。その眩しさに近い空は薄く紫がかって見える。渓と一緒であれば、美しさに密は歓声を上げるだろう景色だ。飛んでゆく烏の鳴き声が密を一層、物淋しくさせた。いつもなら、とうに渓もここを訪れている時間だ。ヒュウ、と吹く風が密の髪を大きく揺らし、密はますます物淋しくなる。

 渓のいない世界はこんなにも密を孤独にする。独りぼっちにする。

「取って来てあげようか?」

 耳にするりと入り込んだ響きは、渓の物ではなかった。

 密は息を呑み、身体を起こして立ち上がると、信じられない思いでその少年を見下ろした。すっきりした身なり。品の良い顔立ち。その姿には覚えがあった。

「あなた……、」

「楓の葉が欲しいんだろう?」

 にこやかに言うのは、夏に出逢った少年だった。

 長袖の、鮮やかな赤茶色のシャツを、モスグリーンのズボンの上に着ている。靴は生成り色のスエードだ。夏に見た時もそうだったが、全体的にとても上質感の漂う服を季節に合った色合わせで着こなしている。田舎の中学校で見る男子たちとは違う、いかにも都会に育った良家の子息といった雰囲気だ。しかし、他の女の子が見れば高い好感度を抱くであろうこの少年が、密は苦手だった。なぜか怖いとも、感じていた。

「――――良いの。要らないわ」

 楓の葉は、渓に貰ってこそ意味を成す。

 密に好意的な微笑みを向けながら少年は泉をちらりと見遣る。

「君の為にだったら、僕はそのくらいのことはしても良いのに。……今日は、寒くなさそうだね」

 少年は密の言葉を受けて話を変えたが、それは夏に密が着ていた服装に対する揶揄だった。密は今日、膝丈の朱色のスカートに、八分袖でパフスリーブの白黒のチェックのブラウスを着ていた。やっぱりこの子は嫌い、と密は心の中で呟く。

「君の名前を教えてくれる?」

「……空也」

「それが下の名前?」

「ううん。名字よ」

 少年が口元を押さえ可笑しそうに言った。

「こんな時、女の子はフルネームを答えるべきじゃない?」

「……私、あなたには教えたくないもの」

「悲しいな。でも君は僕に、教えてくれるよ」

「――――どうして?」

 少年がにこりと笑う。

「光のマジック」

 密は少年を睨みつけた。

「……脅迫」

「うん。――――そう怒らないで。どうか僕に名前を教えて。光の姫君」

 そんな歯の浮くような台詞は、渓にしか言われたくない。

(渓、来てよ。早く、早く)

「空也、密。(ひそ)かと書いて、密よ」

 観念して名乗った密に、少年がひどく満足そうな顔で何度も頷く。手に入れた〝密〟と言う名前を舌の先で転がして味わい、楽しむように。

「密、密。ふふ、秘密の密か。面白い符牒だ。音は光にも通じる。相応しい。綺麗で、誘うように蠱惑的(こわくてき)な名前だ。……まるで君、そのもの。それこそ甘いんだろうね。蜜の味みたいに……」

 そう評して密を見た少年の視線は、密の身体に絡みつくようだった。

 ゾワッと鳥肌だった両腕を掴み、密は動けなくなる。

 この少年はただの育ちの良い、お行儀の良い子供ではない。

 密の様子を顧みることなく、彼は密の立つ小岩まで何気なく足を運ぶ。長い脚の動きは大層優雅だ。優雅に、軽やかに、少年は密を追い詰める。まるで自然界のピラミッドの頂点に君臨する王者のように悠々と。彼の接近に、密の声も身体も震えた。

「こ、来ないで」

 声の震えを聴き取った少年が、クスクスと笑いを洩らす。それから軽く自分の唇を湿した彼の仕草が、密の目には舌なめずりに見えた。

「さっきのはほんの冗談だ。初心(うぶ)で可愛いね、密は。本来なら僕を見下ろす存在なんて、あってはいけないんだよ?相手が君だから、僕はそれを許したんだ」

 何て居丈高な物言いだと密は呆れたが、今はそれどころではなかった。

 少年との間合いは、もう二、三歩程しかない。

 いざとなれば泉に身を投げてでも逃げようと密は本気で考えていた。

 きっと清らかな水は、これまでのように密を助けて守ってくれる。

(渓――――)

「……う、初心じゃない、初心なんかじゃないわ、莫迦にしないでよ。私、もう何回も、何十回もキスだってしたことある。本当よ! ほ、……欲しいって、そう言われて。抱き締められたことなんか、数え切れないくらいだものっ!! すごく大好きな男の子がいるもの、あなたに笑われる筋合い無いんだからっ」

 無我夢中になって密の叫んだ直後、少年の纏う空気が一気に豹変した。冷たく、氷のように。

「――――何だと?」

 密の細い手首を、むしるように掴む。避ける暇も無かった。

 夕日の光に真っ向から照らされた少年の整った顔はそれまでになく険しく、密が怯えるには十分だった。彼の目に浮かぶのは、自分の所有物に他人が無断で手を出した時に人が見せる、傲慢な怒りだ。厳しく詮議する表情で、少年が密に迫る。

「姫よ。それは聞き捨てならない」

「いや、あなた変だわ。渓、渓――――」

「けい? それが相手か。――――……もしやそれは」

 感情のままに言葉を連ねる少年の、本来の銀色の双眸が現れそうになった時。

「その耳が飾りでないなら手を放せ」

 流れる水のような声が、昂ぶる少年の耳をしなる鞭のように鋭く打った。少年の耳に、物理的な痛みが生じる。

(言霊か。小癪な)

 彼は密の手首を掴んだままゆっくりと振り返る。

 少年に劣らず、凍れるように凄みのある表情の渓が立っていた。黒いジーンズに、白いシャツの服装は少年の垢抜けた装いに比べるとありふれた、シンプルな物だったが、立ち姿は少しも見劣りしなかった。

 大人ですら竦んでしまいそうな憤怒の形相で、渓は少年を睨んでいる。

「聴こえなかったのか? ――――密から手を放せ、触るなっ!! 僕のだ!!」

 吠えるような渓の声を、密は初めて聞いた。彼の父親にも負けない迫力のある大音声だった。そして僅かに少年の手の力が緩んだ隙を密は逃さず、自分で振り解いて渓に向かい駆け出した。

「待っ……、」

 少年の伸ばした手をすり抜ける。それでも密を追おうとした彼の目前、光の珠が生まれて白く弾ける。眩しさに、少年は咄嗟に目を庇った。

 すぐそこにいる渓までの距離はひどく遠く感じられた。渓も密に駆け寄って来てくれた。密のもつれる足取りより彼のほうが速い。

 密はやっとの思いで渓に辿り着くと、少年から隠れるように彼の後ろに回り、その背中にしがみついた。

 彼女の身体が全身、ガタガタと震えているのを渓は感じ取る。不遜にも密のお気に入りの小岩に土足で立つ少年は、彼女を本気で芯から脅えさせたのだ。よりによって自分の目を盗むようなタイミングで。

(よくもよくもよくもよくも)

 密と渓の聖域に土足で踏み込んだばかりか、渓の聖域である密に、見知らぬ男は手荒く触れた。何より大切な少女を、震える程に脅かした。

 八つ裂きにしてやりたいと猛る心を、背に触れる密の感触に宥められる。

 渓の怒りに引き摺られ、ザ、ザ、ザ、と不穏に波打っていた泉の水面が少しずつなだらかになる。渓は自分を抑え、深呼吸した。

「……密、大丈夫? 他には、何も、されてない?」

「うん――――」

 渓を見上げる涙に光る目は、待ってた、と強く叫んでいた。

「――――……ここは僕の家の所有地だよ、君。部外者は立ち入り禁止だ。看板が目に入らなかったかい?」

 密を取り戻したことで幾らか落ち着いた渓は、強いて余裕のある声を侵入者の少年にかけた。

 束の間驚きを顔に浮かべて固まっていた少年が、渓の言葉を鼻で笑う。

「若造が。この世で私の訪れを拒める場所などあるものか」

「……君さ、ちょっとおかしいんじゃないの? 警備会社か、さもなくば警察を呼ばれる前にとっとと消えろよ」

 渓には答えず、少年は小岩を降りて二人に迫りながら密に一礼して言った。

「姫。光の姫君。少々、無礼が過ぎたようです。どうか私を許してください。……僕はまた君に会うよ、密。それが僕らの成るべくして成る、……そう、〝摂理〟だからね」

 密は少年の言葉が響く間中、ずっと目を閉じて渓にしがみついていた。

 渓の温もりだけが密を守り、支えていた。

(渓がいる。渓がいる。渓がいる。……良かった)

 渓も密の右手を上から左手で包んでくれていた。

 二人の様子を醒めた目で眺めた少年が渓の横をすれ違う瞬間、ボソリと何か囁きを落とした。

 密に示した強い執着に反して、彼の後ろ姿はすぐに見えなくなった。

 渓の顔色が変わったのを見て密は驚く。

「――――渓? どうしたの」

「大丈夫。何でもないよ、密」

 しかし渓は耳打ちされた言葉に動揺を隠せずにいた。

〝花守風情が図に乗るな〟

 あの少年は自分を花守であると見抜いている――――。

 他にも彼は、渓と密に関する秘されたキーワードを並べた。

〝摂理〟

〝光の姫君〟

 それらは恐らく、渓に対する意図的なプレッシャーだ。

(……何なのだ、あの子供は――――。神気が、異常に強かった)

 密は、光の姫は自分のものだ。自分だけのものだ。今生こそ。

 前生で、息絶える前に彼女に請うた。次こそは自分のものになって欲しいと。永遠を与えてくれと。理の姫は答えた。

〝私は、初めからあなたのものだ〟

 その言葉こそが光だった。

 予期せぬ闖入者(ちんにゅうしゃ)の存在に、渓は底冷えのするような脅威を感じていた。

 自分の手の内にこの先もあると信じて疑わなかった花が、光が、不確かなものとして揺らぎ始めた。渓はその事実を心底恐れた。

「渓。あの子が、夏に私が光を使うところを見たのよ」

「そう…………」

 では自分が安穏としている内に、脅威は密に迫っていたのだ。夏に密から話を聴いた時には、法事に退屈して森に紛れ込んだ、檀家の身内の子供あたりだろうと目星をつけていたのだが、実際はそんな可愛らしいものではなかった。

 あれは神族だ。それも、相当に高位の――――――――。

 ズルリ、と座り込む渓に密が慌てる。

「渓?大丈夫?」

「密。密――――……」

 光の姫に縋る。とうに日は暮れて闇の迫る中、密の温もりと柔らかさだけが、渓の頼る全てだ。灯台のように、渓の行く手を照らす。

「うん、なあに?」

 澄んだ声が金色の光のように降って来る。

「――――――――愛してる。密だけだ。他の誰にも、密を取られるのは嫌なんだ。絶対に」

 絶対に、と渓は繰り返す。

 一瞬の間を置いてふわりと自分の上から被さる体温を、渓は感じた。

「渓だけだよ? 私も。ずっとずっと、渓しかいないよ」

 渓は目を閉じる。

(――――私の女神)

 愛しているという言葉は密にはまだ物慣れない響きで、使うことが出来なかった。



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