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十五

 残照の欠片を浴びながら、密と渓は小岩に並んで腰掛けていた。


「今日、逢えるって教えてくれてたら、もっとお洒落したのに。アクセサリーとか着けて。濃い色のリップだって塗ったのに。渓は意地悪だわ。乙女心が解ってないんだから……」


 密は足を泉の上に揺らしながら口を尖らせる。今着ている赤いワンピースを渓はどう思っているだろうかと、先程から気を揉んでいた。組み合わせた手の指も腿の上でモジモジと動き、休まらない。


「いつものままで密は天使だ。それに」


「それに?」


 渓が密の顔を見て微笑む。


「綺麗になった――――心配に、なるくらい。リップなんて塗ったら僕が全部、舐め取ってやる」


 密は顔を赤らめた。


「あのね、告白は少しだけされたけど、渓がいるから、ちゃんとお断りしたわ」


 渓は曖昧に頷く。


「……やっぱりね」


「渓は?」


「え、何が?」


「――――向こうの学校でモテたでしょう。絶対」


「……ああ、そうかも知れないけど。相手にしなかったんで良く解らない。転校生ってのが珍しかったんじゃない? でも何か、一回、平手打ちされた」


 真剣な顔で迫る密に、空模様の話をする素っ気無さで渓が答えた。


「どうして平手打ちなんかされたのよ、何したの、渓っ?」


 渓が不服そうな顔になる。


「僕は何もしてない。ただ相手の女子は、僕のことを冷血動物だと言って罵ってた」


 密はその光景を見て来たように想像出来た。


「女の子を傷つけたり泣かせるのは良くないわ、渓」


「…………密がそう言うなら努力する」


「うん。でも、優しくし過ぎないで。私、焼き餅焼いちゃうから」


 少年が面白そうな顔になる。


「へえ。焼かれたいな」


「離れてる間、想像して何度も嫉妬したわ。都会で洗練された、架空の可愛い女の子たちに。シナリオまで出来たのよ。聴く?」


「ぜひ」


「華やかで押しの強いA子ちゃんと、目元に涼しげな知性の光るB子ちゃんが渓を巡って火花を散らしている間に、渓はたおやかで控えめで、野に咲く一輪の花のようなC子ちゃんにグラッと来て〝懇ろ〟になっちゃうの。渓はその晩、剣護さんに〝友達の家で勉強会してそのまま泊まる〟って公衆電話から伝えるのよ。何だか怪しい、と思った剣護さんが渓を問い詰めようとした時、十円玉が切れて、渓は受話器をそっと置く。それから外で待ってたC子ちゃんの手を取り、都会の人込みに紛れて二人はラブホテルへ向かうわ。お宿代の相場は解らないけど、きっと三万円くらい。渓はその後しばらく、お財布が寒くて寒くて苦しむわ。でも自業自得よね。――――――――ここまで考えたら私、もう頭に来て、渓に電話して怒鳴りつけようかと思っちゃった」


 渓は話が終わるまで、顔を俯け肩を震わせていた。


「あははは、あははははは!! 変わらないね、密っ! 怒鳴りつければ良かったのにっ。そうしたら僕は君の妄想に合わせ、浮気を平謝りに平謝りして許しを請うたのに!!」


 脚を激しく揺らし、腹を抱えた渓の大きな笑い声が響く。


 涙目にまでなることないじゃない、と密は思う。


 だが弾けるようでいて尚、涼しげなその音が自分の隣に聴こえることを、密は夢のように嬉しく感じた。


「姉上様にお電話で相談したら、やんわりと窘められたの。密は少し想像力がたくまし過ぎるわね、って言われたわ。……あと、それくらい寂しいのねって」


 ねぐらに向かう烏の声が空から降っていようと、今ここは、密と渓の為に用意された甘く優しい聖域であり時間だった。間も無く薄闇に変わるであろう濃い桃色の空の下、水の少年の顔は穏やかに密を見ている。


 愛おしむ眼差しは離れる前より更に深い。


「密」


 髪に触れられただけで心臓が暴れる。


「C子なんかより君のほうがずっと綺麗だ。比べものにならないよ」


 渓はあやすような小声を寄せると、密の耳たぶを食んだ。


 血と熱が耳に集中する。


「今度の土曜日、木苺を採ってあげる」


 甘い誘惑の台詞の形に動く唇と顔がどんどん近付く。


 当然貰えるものと、確信している表情で。


 唇に唇が触れ、密は息が止まるかと思った。


 水の少年は狂おしい熱を密に運んで来た。


(この水は私を熱くする。私も実るのかしら。……実ったのかしら。木苺みたいに?)


 密は自分から一秒も目を逸らさない渓に何か取り繕わねばと思い、頭の中で片っ端から言葉を探し出しては放り投げ、また探し出しては放り投げ、を慌ただしく繰り返した。


 結果、口から出て来たのは、自分でもどうも妙だと感じる台詞だった。


「渓って熱湯みたい」


 ちっとも詩的じゃないわ、と自分の語彙の乏しさに落ち込む。


 それでも渓は嬉しそうな顔をしていた。






 金曜日の放課後、中学校の門柱の外壁に沿う植え込みの前に、密を待つ人影があった。


 ターコイズ・ブルーのシャツにベージュのスラックス。


 その弟との服とはまたイメージが異なるが、相変わらず身なりが良い。


 笑顔でひらひらと手を振る彼に、密は笑ってしまった。


「銀っ! どうしたの?」


 神界では惜しげも無く銀色の髪を晒す少年も、今は現世に合わせて黒髪だ。


 校門を出る女子生徒の視線がちらちらと彼に投げられている。


「やあ、密。その、セーラー服? それも似合うね。とても可憐だ」


「何のご用かしら、天之御中主?」


 密と共に下校していた若菜子は、警戒する顔つきで天之御中主を見た。密に好意を寄せ、神界からの帰還を可能にさせたとは言え、まだ気を許し切れるものではない。さりげなく密の前に立つ。ふわふわした髪の美少女に、天之御中主は鷹揚な視線を向ける。


「姫に話があってね。外してくれないか、花守」


 若菜子は問うように密を見た。密は頷く。


「ええ、良いわ」




 密は帰り道を歩きながら天之御中主と話していた。


 都会風に身なりの良い見慣れぬ少年を、すれ違う村人たちが物珍しげに見る。


 ヨネ子さんの仕立て屋の前を通る時、店の中にいたヨネ子さん、こと松本ヨネ子と目が合い、密は小さく手を振った。彼女は相変わらずショッキングピンクにカラフルな色が満載されたエプロンを着けて、陽気な笑顔で密に手を振り返した。


(愛するご主人を亡くしても、頑張ってらっしゃるヨネ子さんはすごいわ)


 一旦は、生涯の仕事と思い定めた仕立て屋をもやめようとした彼女を、蘇らせたものは何だったのだろう。


(渓がいないと生きて行けない。私は甘えた弱虫なのかしら。人の世を舐めていると非難されても、仕方がないことかも知れないわ)


 けれど密にとって渓は、紛う方なく命の水だった。


 水脈が絶たれれば、密の命も絶たれる。それが密の自然の理だ。摂理だ。


 天之御中主は奇妙な生き物を見る目でヨネ子を眺めていた。


 人間の世界は興味深い、と発言する彼に、密は話を本題に戻した。


「銀。あなたの言うようにすれば、それが可能なの?」


「揃う顔ぶれが顔ぶれだ。やって通らないことはないんじゃないかな。雪の御方様には僕からお伝えするかい?」


「いえ、私からお話するわ」


「じゃあ僕は、淡砂と氷木こおりぎ、神産巣日かみむすひを、――――」


 少年が言葉を切って顔を向けた先に密も目を遣ると、カーブミラーの横に渓が立ち、こちらを見ていた。


「渓」


 誤解されたのではないか、と密は怯えた。詰襟の黒い学生服を着た渓の顔は凍てついた湖面のようだった。渓は数歩、密たちのもとに足を動かしたが、途中で思い直したように踵を返した。


「待って、渓! ……ごめんね、銀。また、」


「――――うん。早く追うと良い」


 笑って見送る少年の顔に、変わらない自分への好意を感じ、密は小さく胸が痛んだ。




 道を曲がり百メートルくらい走ったところで、密は渓に追いついた。アスファルトの灰色の中、黒い色。郵便配達のバイクが、密の横を通り過ぎて行く。息が整わない状態で排気ガスを吸い込んでしまい、軽く咳き込む。


 その咳き込む音に、黒い背中が反応した気がした。


 渓が本気になれば密を簡単に置いて行ける。


 まだ話を聴いてくれる余地はあるのだ、と密は思った。


「渓っ」


 拒絶するような黒い背中に手をつくと、渓は突然振り返り、密を抱きすくめた。


 痛いくらいの力に、密は顔を顰める。踵が宙に浮き、学生鞄も取り落してしまった。


「見られないで。触れられないで。話さないで。笑いかけないで。……他の男に」


 日に照らされた風が山から水田に降り、密たちの身体を通り過ぎて行く。


 けれど琥珀の髪は揺れる余地も無く渓の腕の中だ。


 渓の匂いに圧迫されて、息が苦しい。


 このまま窒息しても良いかも、と密はちらりと思う。


「渓、」


「僕のだっ!」


「渓」


「……僕のだっ。君が、嫌だと言っても」


「……言わないわ。私は、渓のものよ」


 喘ぐように何とか声を出す。


 渓の腕の力が緩むと、今度は逆に密が渓の首に抱きついた。


「渓の、私よ。心配しないで。……あのね、銀が、私と、姉上様と、造化三神、つまり銀と淡砂と神産巣日の五柱で神界に働きかければ、明臣と琴美さんを、このままずっと暮らさせてあげられるんじゃないかって提案してくれて。そのお話をさっきしてたのよ」


 渓の薄青い瞳がゆっくり瞬く。


「呆れた? 密。――――僕はちっとも成長してない」


 身体を離し、密は渓の前髪にそっと触れた。


「そんなことないわ。……嬉しかった」


 触れた右手を渓が掴み、自分の額に押し付ける。


「……あいつの神気を感じたから、先回りして待ってたんだ」


「うん。渓はいつでも、私の騎士だものね。ありがとう」


 渓の嫉妬は、束縛は、何て甘やかなのだろうと密は思う。


 渓が募らせた想いを見せつけられる程、密も深みに溺れて行く。


 果ての見えない深みへ。


(私の羽を奪うのが、あなたで良かった)


 密の心にストン、と、その決意は落ちて来た。


 密は決意の果実を静かに咀嚼した。


(――――甘い)


 密が左手で渓の手を握ると、右手は解放された。渓は密の鞄を拾い上げ、自分の鞄と一緒に左手で持った。


「帰ろう、渓」


「うん」


「あのね、渓?」


 密が前を向いたまま言う。


 道の端、忘れ去られたような無人野菜販売所に置かれた、柑橘系の黄色い果物に目を遣る。


(実る果実)


「うん」


「私はいつ、離れにお邪魔すれば良いの?」


 渓が無言で密を見た。密も渓を見る。


「――――姫様」




 土曜日の午前中、密は流光寺境内に集まった花守たちに、穏やかに宣言した。


「今夜、私はお寺の離れで渓と過ごすわ」


 その言葉の意味を察した彼らの間には、やや複雑そうな空気があった。


 ざわり、と大きく風に鳴った楠の葉擦れは、花守らの心中を表わすようだった。


「よろしいのですか、姫様。そう、急がれずとも」


 若菜子は足元の砂利を見ながら、出来れば賛同を避けたい面持ちだ。


「木臣。……姫様が決められたことであれば私に異存はございません」


 しかしそう言うエリザベスの顔も、晴れやかとは言い難かった。


「――――……致し方ないことなのでしょう。姫様のお幸せを祈ります。今度こそは」


 定行は伏し目がちに微笑み、そう告げた。


 誠はいつもと変わらない口調だった。


「もしあれがまた姫様を泣かせるようなことがあれば、私は決して許しません」


「黒臣。私はこの先、渓と出逢えた幸福にきっと泣くわ」


「万一の時は制裁を加えるお許しをください」


 頑固な誠の物言いに密は苦笑した。


 彼らの顔を見渡す。


「渓に対するものとは違うけれど。私を見守ってくれるあなたたちを、愛しているわ。私の宝よ。いつまでも――――――――」


 青い空に白雲が動く。


 光の姫の言葉に、花守はひざまずき、こうべを垂れた。






 昼下がり、渓は密の持参したゴム手袋をはめて木苺の実を収穫した。


 泉のほとりに座り、密も渓も、言葉少なにボウルに入ったルビーを食べた。


 渓は密に触れようとしなかった。


 今度触れた時、触れられた時が最後だと、二人共解っていた。


「着替えてから、また夕方に来るね」


 そう言って笑った密を、渓は危ぶむような顔で見送った。


 渓は心配性なのよね、と密は思った。




 夕刻、密が流光寺の境内を訪れた時、寺全体がしんとして明かりも見えなかった。


 藍の空には早くも星が一つ、二つと輝き始めている。


(伯父様たち、お留守なのかしら)


 離れの木の戸に取り付けられた、赤と白のねじれた紐を振ると、先端に結ばれた金色の鈴がシャンシャンと音高く鳴った。


 少しの間のあと、白いシャツに水色のスラックスを穿いた渓がカラリと戸を開け出て来る。密の姿を見て軽く目を見張り、そして細めた。


 密が入口の石の上に草履を揃えて置くと、渓は恭しく密の手を取った。


 木の廊下を軋ませながら白い足袋で進む。芳香が身を包むように流れて来た。


 目前に、竹で編まれ、光沢のある紫の、繻子織の緞子で縁取りされた御簾が見える。御簾からは紫の組紐と、同じ色の糸の房が等間隔に垂れている。


 渓が廊下との境に降ろされた御簾を高く掲げ、密が畳の間に入ると、香の匂いが部屋中に漂っていた。


 空気まで染め上げるような香りに酔いそうだと密は思う。


(……酔っても良いのだわ。この、夜は)


 床の間に置かれていたのは、精緻な金細工の香炉だった。


 細くたゆたう煙が見える。


「伽羅です」


 渓が密の視線を追って言う。


 見上げると、大きな窓には廊下との境にあった物と同じ御簾が掛かっていた。


 畳の縁にも濃い紫に金糸が織り込んである。


 違い棚には、季節の花々が描かれた、赤い絵蝋燭が蝋燭立てに並べてある。


 その手前にも、草花が描かれた行燈風の四角いランプが置かれてある。


「……火事にならないかしら」


 絵蝋燭を見た密の懸念を察した渓が、口を開く。


「明臣のともした火です。心配ございません。―――――何かお飲みになりますか」


「そうね。水をちょうだい」


「はい」


 少しして、渓が瑠璃色の切子ガラスに入った水を持って来た。ガラスに刻まれた、二羽の小鳥が戯れる模様を見て、密の目が和む。


 可愛い、と言って、密は喉を鳴らしてそれを飲んだ。


 液体を通しながら小さく動く白い喉を渓は見つめていた。


「……着物で来るとは思わなかった」


 水を飲み終えた密から切子ガラスを受け取ったあと、渓が呟いた。


 密が含み笑いをする。


 襟元から覗く色は朽葉色、振り袖の地は赤く、青や水色の涼しげな花模様が散っている。


 金色の帯の上には、朱色の帯締めと桜の彫り込まれた珊瑚の帯どめがある。帯は密の背中で立て矢結びになっている。琥珀の髪の上部を緩く束ねるのは、渓にも見覚えのある赤いリボンだ。


「襲の色目」


「そう。赤に朽葉。解る?」


「…………『百合』だね」


「うん。姉上様に、着付けを教わったの。頑張ったのよ?」


「来る時、家の人に何か言われなかった?」


「ううん。渓のお宅で勉強会して、そのまま泊まるって言って来たわ。でもパパは、泣きそうな顔してた。ちょっと可哀そうだったわ。伯父様たちは?」


 その格好で勉強会も何も無いだろうな、と渓は思う。


「眠ってもらった」


「言霊を使ったの?」


「うん」


 密が上目遣いに渓を見る。


「悪い人」


 しかし、そう言う赤い唇は弧を描いている。


 赤い三日月に渓の目が細まる。


「――――よろしいのですか」


 渓の座る後ろには金地に花鳥図の描かれた屏風がある。渓の手が、その屏風をすいとずらすと、向こうには白絹が敷かれてある。


 白い褥が。


 畳の間に入ってすぐは、屏風が褥の目隠しになっていた。


 その上で一夜を過ごして良いのかと、改めて少年は問う。


「……何て華やかな屏風なの」


 鶉、大鷹、真鴨に雉、鶴と言った鳥がひしめき、桜やら百合やら牡丹等の花々が咲き誇る、絢爛豪華な屏風絵に密は見惚れて溜め息を吐く。


「江戸中期、当寺に滞在した画僧の手による物だそうです」


 密がしとやかに尋ね返した。


「嫌だと言えば、あなたは私を帰してくれるの?」


「…………いいえ。恐らく無理でしょう。ここまで来て、あなたを帰すことは出来ない」


「帯の解き方とか、着物の脱がせ方は解る?」


「……解らない。我流で良いですか」


「着物の脱がせ方に流派があるの?」


「無いでしょうね」


 クスクスと笑う密の頬に、渓の指が触れる。


 密が笑いを収めて渓に秘め事のように囁く。


「……水をちょうだい」


「――――はい」


 女神の求めに首肯しながら、渓は思い出していた。




 地に落ちた種はやがて芽吹き、緑なす大地と広がるだろう。その大地に咲く花はやがて、一筋の細い水の流れと出逢うだろう。




 それは前生において水臣が最期に予感したことだった。


 切に望んだことだった。


(事実、私はあなたに逢えた)


 そして少女は願いを叶えてくれると言う。


 密の頬にあった渓の手は、琥珀を結ぶ赤いリボンに向かった。


 しゅ、と片端を引く。


 燃ゆる思ひが解き放たれる。


 長い髪がはらりと流れる。密が微かに身震いした。


(姫様)


 少女は全く平然としてここに座している訳ではない。そのように装っているだけだ。


 共に燃える覚悟が整ったと自らを見定め、渓のもとに来た。それは密の誠意だ。


 待たせてしまったという引け目も、そこにはあるのだろう。


 渓は密を安心させるように、後ろから柔らかく抱擁した。髪を手で何度かゆるりと梳くと、密の肩から力が抜ける。頭がコツン、と渓の肩にぶつけられた。


 愛おしさが込み上げる。


「何があろうとお守りします」


「……解っているわ、水臣」


 立ち上がった渓が明かりを消すと、ランプと絵蝋燭の火が光源となり二人を照らした。


 帯締めと金の帯が畳に落ちる。金の帯は、陽光を受けて煌めく小川の流れのようだった。足袋を脱がされた白い足先を渓が舌でつと舐めた。


 密は白絹に倒れ、渓の顔を見ていた。少年の顔は静かな湖面だった。


 今から自分は渓に奪われる。その代償として密に用意されるのは彼の創る花園だ。


 罪びとのエデン。


 赤い唇を渓が吸った時、密の頭の芯に熱がともった。


 頭が熱い。身体が火照るように熱い。


 渓が触れる端から燃え移ってゆく。燃えてゆく。


(火事にならないかしら)


 着物がはだけられていくのを感じながら密は思う。


 喉に強くくちづけられると、密の口からか細い声が洩れた。


 その声が聴きたくてしたのだと悟る。


 渓の手と唇は慎重に少女の身体に触れた。


(熱いわ。花まで、燃えそう)


 白い首はうっすらと汗ばみ、髪が張りつく。


 人類にともった原初の赤に、密は焼かれていた。


  急流に翻弄される櫂の無い小舟のように、密の意識はくるくると舞った。


 密ははるか昔のことを思い出していた。




(私は日光であり、月光だった。あなたは私が光を投げかけた湖だった)


 神位を得てからも、こんな日が訪れるとは夢にも思わなかった。


 夢にも思わなかった。




 水の少年は自らと共に光の少女を燃やした。




「……密。大丈夫?」


 俯せに横たわる密の肌にしどけなくかかるのは、朽葉色の半襟を着けた長襦袢だけだった。金細工の香炉からはまだ、白い煙が天を目指している。


 香も燃えていたのね、と密はぼうとした頭で思う。


 絵蝋燭がいつの間に溶けたのかも知らない。


「――――大丈夫の基準が解らないわ、渓。でも、とても大丈夫と言える気分じゃないわ」


 濡れたように艶やかな声が渓の耳に沁みる。


「……後悔してるの?」


「いいえ。あなたと離される日が来たらどうしようと、怖がってる」


 潤んだ瞳が渓を見る。


「そんな日は来ない」


「嘘よ。きっと来るわ。あなたを失って、私は絶望するの。ヨネ子さんみたいに」


 密は顔を覆ってすすり泣いた。初めての行為に、少女は心の安定を欠いていた。


 渓が琥珀の髪を撫で、手で梳く。


「来ないよ。僕が君を離す筈がない」


「来るわ」


「来ない」


 渓は密の顔を覆う手を退けさせると、首を伸ばして深くくちづけた。


「私に永遠をくださった。未来永劫、あなたのお傍にいます」




 それからは囁くような睦言が行き交った。


 唇を小さく動かしながら白絹の上で、二人は互いの肌に触れた。伽羅の香は密と渓を包む、見えない薄い膜のようだった。


 密は渓の胸に頭を寄せ、彼の鼓動を聴いた。


 渓は密の髪を飽くことなく手で梳いた。時にはそれを掬い取って唇をつけた。


「密。胸に」


「うん。……渓がつけた、印。どうしてだか消えないの」


 少女の左胸の赤いひとひらの上から、渓は改めて印を刻み直した。


「――――消えなくなるわ」


「嫌?」


「嬉しい」


 密は渓の肌に手を伸ばした。


 少年の首のラインと肩、上腕に触れる。


「……硬い」


「上腕二頭筋だからね」


 クスリと密が笑う。


「頼もしいけど……裸で寒くない?」


「密の着物をかけてるし。……まだ、熱い。身体も頭も」


「眠くないの?」


「密が裸で横にいて? 有り得ないよ。全然、冴えてる」


「お嫁さんになって良いの?」


「なってくれなきゃ困る」


 密の瞼は半分、落ちかけていた。


「密。眠い?」


「うん、少し。……疲れたみたい……」


「眠りなよ」


「うん……」


 密は渓の差し出した腕枕に頭を乗せ、身体を渓に寄せて目を閉じた。


 渓は長襦袢で密の身体をくるみ、その上から白絹をかけた。




 密が目を覚ますころ、空は白んで来ていた。窓に下がる御簾の向こうから、徐々に闇が退き始めているのが判る。


 渓は既に服を着て、畳に片膝を立てその上に両腕を置いて座り、密の顔を見ていた。


 長襦袢の半襟を胸元に引き寄せながら、密は気怠いままに目をこすった。


「渓。……ずっと起きてたの?」


「うん」


「一人で寂しかった?」


「少しね。でも密の顔を見てたから。シャワー浴びる? 湯にも浸かれるけど」


「お風呂、入る」


「バスタオルとフェイスタオルは籠に置いてある物を使って」


「うん。渓は入らないの?」


 寝惚け眼の少女の、いまいち呂律が回り切らない声に渓は真顔になる。


「…一緒に?」


「ちっちゃいころは、良く一緒に入ったじゃない」


「そりゃ、うんと子供の時は」


 うんと子供の時から裸の密にドキドキしていたとは言わない。


 密が無邪気に笑いかける。無邪気に笑む唇には、得も言われぬ色艶がある。


「入ろ?」


 渓にその誘惑が断れる筈がなかった。


「……うん」






 湯煙と檜の香りが立ち込める浴室に、少女のあえかな声が響いて消えた。






 先に風呂から出た渓のあと、畳の間に現れた密は、長襦袢の上にピンクの伊達締めを締めた格好だった。


「それはそれで可愛いね、密」


「そう? 外に出るまではいいかしら、と思って。最後まで着付けをすると窮屈なのよ。お腹も苦しいし」


「もちろん、僕の前でだけにして。朝食はいかがですか、姫君?」


 透明に赤や青、緑や紫などの色が美しいガラス鉢が密の座る前の畳に置かれた。


 それを見て、密は声を立てて笑った。


 ガラス鉢の中には、小高いルビーの山があった。


 燦然と輝く木苺の一粒を手に取り、微笑んで光に透かすように掲げて眺める。


「渓、この為に早起きしたの?」


「いや、徹夜。多分、僕の人生史上最高に、眠気が遠ざかってるから」


 密は手にした実を口にして、美味しい、と呟いた。


 ガラス鉢に手を伸ばした少年は、長襦袢を着た少女の唇に赤い実を運んだ。


 少女は甘い、と言った。


 とても甘いと言って笑った。



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